アレクサンドル・アレクセイエフジャンナルベルト・ベンダッツィ Giannalberto Bendazzi | |||||||||||||||||
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アレクサンドル・アレクセイエフは1901年4月18日〔8月5日説あり〕ロシア中部のカザンに生まれた。母は校長で父はツァーリの帝国官吏だった。間もなく父親がコンスタンティノープル(現イスタンブール)のロシア大使館付陸軍武官に任命され、一家はボスポラスに出発した。そこで幼いアレクサンドルはロシア語よりも先にフランス語を覚え、魔法のような日々を過ごした。これはドイツで任務遂行中の父親の不可解な死によって終わり、彼はこの時期を神話的な思い出として抱き続けることになる。 ロシアに戻ったアレクセイエフは、10才でサンクトペテルブルクの士官学校に入学し、そこで1人のユニークな教師から最初の芸術教育を受けた。この教師はモデルをスケッチするかわりに、記憶でスケッチすることや読書から受けた印象を絵にすることを生徒に命じたのである。1917年10月にはこの青年貴族〔アレクセイエフ〕も熱狂的に革命運動に参加した。だが、続いて悲劇と不正義――特に叔父の1人(社会主義者で前革命期には労働者と農民の保護者だった)がボルシェヴィキによって捕らえられ処刑されたこと――がアレクセイエフを革命から遠ざけた。 サンクトペテルブルクでのコースを終えた彼は軍艦に乗り込み、日本、中国、インド、エジプトに航海した。1921年、乗組員はユーゴスラヴィアのドゥブロヴニクで解散した。画家を夢見たアレクセイエフは、パリに亡命していた装置家セルゲイ・スデイキン(注1)宛の紹介状を手にマルセイユに上陸し、その後、フランスの首都にたどり着いた。アレクセイエフによると、 「この時期、パリには30万人のロシア人がいると言われ、その中には劇団のメジャー・アーティストたちがいた。ディアギレフ Diagilev の有名な〔ロシア〕バレエ団、ピトーエフ Pitoev 、スデイキン Sudeikin 、アレクサンドル・ベヌア Aleksandr Benua (注2)たちだ」(注3)アレクセイエフは数年間舞台装飾家として働き、芸能界の空気を吸い込み、モンパルナスのグランド・ショミエールのアカデミーで絵画のレッスンを受けた。1925年、彼は豪華本のイラストレーションとエッチングに専念した。 この活動は経済的安定を保証した。しかし、30才の時にアレクセイエフは不満な時期を経験する。 「私は全てがおこなわれてしまったという印象を受けた…私に可能なことは全部だ。私はイラストを描き、そこから収入が入ってくる。つまり万事好調だった。だが、これは芸術などではない、ただの工芸品だ、そう私は不平をこぼしていた。当時は『カリガリ博士』Das Kabinette des Dr. Caligari〔1919〕やチャップリンの『サーカス』Circus〔1928〕『キッド』Kid〔1921〕、エイゼンシュテイン映画〔『戦艦ポチョムキン』Bronenosets Potyomkin (1925)、『十月』Oktyabr' (1928)〕の時代だった。映画は興味の対象としては申し分なく、友人の作家も関心を抱いていた。私は自分に言い聞かせた。『映画を作ろう。たった1人で。立派な設備は要らない。エルドラドは要らない。私の創作は製品ではなく芸術作品なのだ』」(注4)“ピンスクリーン”のアイディアが浮かんだのはこの瞬間だった。 版画家アレクセイエフは明暗法〔明暗の対比を強調して劇的な効果を生む技法。レンブラントやカラヴァッジオが得意とした〕や灰色のグラデーションを駆使して複雑で洗練されたイメージを表現することができた。これはそのスタイルに対応してとりわけダイナミズムを必要とするイメージである。その複雑さは伝統的テクニックを使用するアニメーターならば誰もが意気喪失するほどのものだった。従ってアレクセイエフにとっては“版画をアニメートする”方法を発見することが必要だった。「自分のアトリエで私1人だけで制作し、望み通りのイメージを自分自身で作り出す方法を見つけなければならなかった」(注5) そのとき彼は白いスクリーンの上に数千本のピンを格子状に配列し、垂直に通すことを思いついた。スクリーンの両側に2つの光源を置けば、ピンはそれぞれ2本の影を作り、この影の合計がスクリーンを完全に黒にするのである。この影を短くして対応するゾーンを明るくするには、ピンの群を押し込めば良い。ピンを基底まで戻すことで、影は全く消滅し、表面の白だけが残る。この方法でアーティストはどんな形でも得ることができ、あらゆる階調の灰色が思いのままになる。このイメージを少しずつ修正し、新しい画面をそれぞれ撮影することで、版画アニメーションが実現可能になるのである。 もしクレア・パーカーがこの芸術家の人生に登場しなかったならば、恐らくこのアイディアは計画段階に止まっていただろう(アレクセイエフはムソルグスキー Musorgskii の音楽の“映像化”を考えていた)。クレアは1906年8月31日ボストンに生まれ、“ロスト・ジェネレーション”の多くのアメリカ青年と同様に、この時期パリに滞在していた。ほとんど偶然に彼女はアレクセイエフのイラスト入りの本を手にした。彼女はアレクセイエフに賛辞とレッスンの依頼を書き送った。これが最も堅固で持続することになる人間的・芸術的協同関係の始まりであった。クレア・パーカーの助力でアレクセイエフは作品を実体化する決心をした。 1932年、2人は『禿山の一夜』Une nuit sur le mont Chauve(注6)の制作に18ヵ月間の昼夜を費やした。アレクセイエフは暗がりでムソルグスキーの音楽を何回も聴き返し、頭の中にひとつずつイメージを組み立てていった。 通常アニメーションでおこなうように事前にスケッチを描くことは不可能で、撮影に失敗しても訂正手段はなく、最初からやり直さなければならない。1933年、フィルムはついに完成した。友人と専門家の前で上映されたフィルムは高い評価を得ることに成功した。それに対して配給者たちは、少なくとも年12回上映しなければ最低限の利益をあげることができないと反対した。これより2人は創作映画を脇に置いてコマーシャルの活動に転じた。 当時CFはまだ片言の時代であり、クリエーターに残された自由の範囲は比較的広かった。クレアとアリョーシャ Aliosha(この芸術家を親しみをこめて呼ぶ愛称)は数人の友人と共同制作し、その中にはアレクセイエフの前妻アレクサンドラ・ド・グリネフスキーもいた。彼らは数本の古典的小品を制作し、これはとりわけ美しい背景や繊細な光の戯れ、毎回異なるテクニック――ただしピンスクリーンは一度も使用していない――などで際立っていた。少なくとも『眠れる森の美女』La Belle au bois dormant は挙げておくべきであろう。これはワイン会社〔ヴァン・ニコラ社 Vins Nicolas〕の製作で、協力者たちがいた中からもアレクセイエフの刻印は疑いなく見てとれる。 宣戦布告と共にアレクセイエフ一家はパリを離れて、アメリカへ逃れた。アメリカの労働条件は非常に厳しいものだった。大“映画会社”に束縛されたアニメーションは亡命ロシア系フランス人の才能に対して最低の関心しか示さなかった。彼は新たに最初のものより大きく完全なピンスクリーンを組み立て、カナダNFBのために『道すがら』En passant を制作した。フランス語圏ケベックの歌に基づいて構成したこのフィルムは非常に短く、10年の沈黙の後、初めての“フリー”作品だった。アメリカでアレクセイエフは版画活動を続け、カラー版画を得ることのできる方法に専心した。戦後まもなく、彼はパリに戻った。 1951年、彼はより抽象的な実験、つまりソリッド・イリュゾワール・アニメーション〔“ソリッド”=“立体”、“イリュゾワール”=“イリュージョンの”〕に没頭する。これは言わば、動く光源が長時間露出でフィルムにトレースする立体である。アレクセイエフはこのトレーサー(特に、照明された金属球)を複合振り子に連結し、その振動は数学的に計算・プログラムされる。トレーサーが作り出す様々な形をコントロールすることで、この感覚的現実には存在しない立体をアニメートすることもできるのである。アレクセイエフ「要するに運動の第二段階なのだ」 彼は、“トータリザシオン”と名付けたこのテクニックで数本のコマーシャルを撮り、『煙』Fumees(1952年のヴェネツィア・フェスティヴァル特別賞)もその1つである。 1962年にはアレクセイエフのイラストのファンだったオーソン・ウェルズが、カフカの小説を翻案した制作中の映画『審判』Le Proces のプロローグの撮影を依頼した。アレクセイエフはピンスクリーンで絵を描き、それを1枚1枚撮影したが、アニメートはしなかった。上映後、評論家の多くはこのプロローグが本編より優れていると評した。 1963年、アレクセイエフはニコライ・ゴーゴリの同名小説を原作とする『鼻』Le Nez を制作した。1972年には多くの点で彼の第1作と関連する作品『展覧会の絵』Tableaux d'une exposition(注7) を完成させたが、これはムソルグスキーが「画家にたいしてイメージを喚起する」まさにそのために作曲した音楽に基づいている。このフィルムは3部作――このロシア人作曲家の『展覧会の絵』全てを含む予定だった――の第1作となるはずだったが、素材の困難さから計画の続行を断念した。 1975年、アレクセイエフは『フィニスト』Finist(ロシア民話)のためにスケッチと背景を提供したが、これはローマのコロナ・チネマトグラフィカ Corona cinematografica の製作で、イタリア人のジォルジオ・カストロヴィラーリ Georgio Castrovillari がアニメートした。1977年、彼は『三つの主題』Trois themes(1年前に製作した新しいピンスクリーンを使用)に取りかかり、これはムソルグスキーの『展覧会の絵』中の別の3曲に基づいている。これに関して彼はこう書いている。 「“アダージョ”“マエストーソ”“レント”〔それぞれ「ゆるやかに」「荘厳な」「おそく」〕という用語はアニメーションにおいてはいまだに場所を得ていない。アニメーションは“スケルツォ”〔諧謔曲。速いテンポの器楽曲〕に限定され、エレジー、牧歌などの叙情的テーマを締め出している。これはアニメーションを減速することが、不可能とまではいかないにせよ、困難であるためだ。しかし、これこそ私がやろうとしたことだ」(1978年2月14日付ベンダッツィ宛書簡) 『三つの主題』は1980年ミラノでプレミア上映され、2人のシネアストに敬意を表する栄光の夜となった。これは白鳥の歌であった。1981年10月3日、クレア・パーカーはパリで亡くなった。アレクサンドル・アレクセイエフも1982年8月9日その後を追った。 1922年に予言好きのエリー・フォール Elie Faure 〔フランスの美術史家。1873〜1937〕はこう書いていた。 「アニメーションのことは御存じだろう。現在上映されているアニメーションはいまだ無味乾燥で貧弱であり、私が思い描く姿に比べれば、ティントレットのフレスコ画やレンブラントの油絵を、黒板の子供の落書きと比べるようなものである。実際に三・四世代が以下の課題に従事したと仮定したまえ。深みをもって――面や線ではなく、厚みとヴォリュームによって――イメージをアニメートすることや、ヴァルールとハーフトーンで連続運動を造形することに。長期のトレーニングが少しずつこれを習慣化して、ついに反射作用にまで変える。その時こそ、芸術家は光・影・森・都市・砂漠を舞台として、悲劇・牧歌・喜劇・叙事詩のために、これを自由自在に駆使できるのだ。ドラクロワの心・ゴヤの情熱・ミケランジェロの力を備えた芸術家を想像してみたまえ。彼はスクリーン上に自分自身から迸り出た造形映画の悲劇を投げかける。これは豊かで複雑な視覚シンフォニーであり、急速に無限のパースペクティヴを開くのだ。その神秘性は人を興奮させ、その感覚的リアリティは最高の交響曲よりも人を感動させる。これは遠い希望ではあるだろうが、実現可能であるかどうかはわからない…」(「造形映画について」De la cineplastique(注8)) 必要なのは三・四世代ではなく、11年だったのである。『禿山の一夜』は1933年、エリー・フォールの生前に上映された。フォールの美文調や引用された名前の比喩を捨象するならば、このテクストは真に予言的であり、アレクセイエフの作品が運動イメージの芸術にどのような進展をもたらしたのかを示している。 アレクセイエフはメジャー・アートの作家であり、スーポー、マルローのような文学者の友人であった。また、中心人物ではなかったにせよ(騒動と自己顕示にたいして生来の嫌悪感を抱いていた)シュルレアリストやアヴァンギャルディストの宣言に注意深く参加していた。彼は永きに渡って実験映画作家として分類され、映画史にもたらした言語的新しさが彼の価値を決定付けていた。『禿山の一夜』は音楽と視覚音楽の一致という古い問題に対する回答として昔も今も考えられてきた。彼の版画アニメーションは映画言語の新しい言語的可能性を提示することであろう。 以上のことは恐らく全部その通りである。だが、この実験的側面はアレクセイエフという多面体にとっては二次的・補足的なものである。ピンスクリーンはそれ自体のための発明品ではなく、自分に合った道具を作ろうとした試みなのであり、彼自身の幻想を実体化できる唯一の道具なのである(注9)。 『禿山の一夜』は映像詩であり、多様で曖昧な意味作用に対する尽きせぬ叙情的喚起の源である、音楽は並行するテクストとして、映像の流れが常にこれを参照するが、リズムや音色との機械的関係は存在しない。映像は音楽を豊かにし、その逆もおこなわれている。これは喚起するプロセスであり、2つの創作は相互に尊重しつつ、それ自体のヴァイタリティを保っている。この映画作家は音楽家に呼びかけ、2人は深い精神的絆と共通の民族的出自によって結び付いている(このロシアという祖母をアレクセイエフは多かれ少なかれ常に心に秘め抱いていた)(注10)。 アレクセイエフのイメージはムソルグスキーの描写的旋律やゴーゴリの小説『イワン・クパーラの前夜』Vecher nakanune Ivana Kupala(注11)、そしてプーシキンの詩(注12)にヒントを得ている。アレクセイエフの制作プロセスは次のようなものである。あるテクストや記憶、言葉に遭遇し、まず、この遭遇がファンタジーを溢れ出させるのだ。ヴォリュームは微妙に変化して、時に密接に溶け合うため、『禿山の一夜』には純粋・単純な“デッサン・アニメ”に見られるものはほとんど存在しない。これは“版画アニメーション”である以上に、未だ想像されたことがない幻想宇宙にたいして不意に開かれた窓なのである(注13)。 イマジネーションは灰色の無限の階調によって実体化する。アレクセイエフは数多くの会話で語っている。 「私の時代の芸術家たちは面と線を用いていた。私は微妙なニュアンスしか望んではいなかった。彼らはトランペットを吹き、私はヴァイオリンを弾こうとしていたのだ」 周知のように、この映像詩人は友人の作家や画家とは全く違ったポジションにいた。友人たちはもっと知的で文化的な、芸術性では劣る探究に従事していた。実験作家アレクセイエフにたいする誤解は、「変化がない」、晩年の創作に至るまで「いつも同じフィルム」を作っていると非難する類のものである。テクニックに関する限り、この非難は正しい。ピンスクリーンは『道すがら』『鼻』と同じく、『展覧会の絵』『三つの主題』でも使用された。しかし、内的・詩的発展には著しいものがある。 1933年のフィルムの荒々しい“ゴシック的”ヴィジョンから、『展覧会の絵』では典雅なメロディや幼年期の記憶とロシアの伝説が織りなすイメージへと移行した。2つのピンスクリーンの一方が他方の前を回転する複雑なリズムが、もはや存在しない世界や再見不可能な習俗に対する哀悼を歌いあげる。構成は複雑極まりなく、イメージ同士の照応と参照に満ちている。 アレクセイエフは書いている。 「『禿山の一夜』を作りながら、私は善と悪、昼と夜の戦いを表現していると考えていた。ずっと後になって、父の死と陰鬱になってしまった母の変貌のドラマを語っていることに私は気づいた。これは無意識に、それと知らずにやったことだ。このことを私は20年後に理解した。あの頃、私はまだ30才だった。人間が絵画を動かすことは可能なのだと証明する必要があった。70才のとき私は『展覧会の絵』を始めた。これは私にとって、アニメーションが詩でありうることを示し、映画が“写真”を放棄できることを証明し、また、対話におけるある種の文法的形態――交代する2つのピンスクリーンによる、2つの主題をもつソナタのようなもの――を探究する機会だった。その上、『展覧会の絵』はあらゆる芸術作品と同じく、作者ムソルグスキーの自画像だ。もちろん、このフィルムは私自身の自画像であるかも知れない。結局のところ、私にはそれを知ることはできないし、これから知ることもないだろう」(1971年10月25日付ベンダッツィ宛書簡) それからすこし後のこと、 「12月17日、『展覧会の絵』の初号を試写した。このフィルムは『禿山の一夜』に匹敵するとはいえ、全く違うものであるとも思う。これを理解するまでには20回は見なければならないだろう(良き詩においてもこれは真実だ)」(1971年12月19日付ベンダッツィ宛書簡) 物語と詩の間に分水嶺があるとすれば、それは恐らく、日常的な感覚的経験に基づく論理法則に対する、言語の適用方法によって表されるだろう。物語叙述のコミュニケーションは前後関係や真偽、因果関係を常に考慮する。詩のコミュニケーションはそのようなものではない。これは本質的に無時間的で、それ自体の内的時空間を持ち、心の中で自由に発生するイメージとその相互作用によって自己表現する。これは論理法則ではなく読者の感情的緊張によって構造化されるのである。 物語的ジャンルと日常的・感覚的世界の間にある緊密な関係は、映画にたいして重大な結果をもたらした。具体的な世界を撮影し、現実のシーンに基づくことで、映画芸術は現実的な論理カテゴリーの適用を受けて、物語の支配する場となってしまったのである。エイゼンシュテインの“知的モンタージュ”の試み(『十月』におけるような)が失敗してからというもの、現実ではなく、作者の知的創造物を対象とする映画のみが物語の呪縛から逃れられることは明らかだった。 これがエッゲリングやルットマンの作品のケースであった。しかし、抽象イメージのリズミカルな流れが表現していたのは、抽象音のリズミカルな流れ、つまり音楽に相当するものであった。詩に到達するためには、意味を備えた具体的イメージを配置し、それにリズム構造を与える必要がある(注14)。そのイマジネーションとスタイルのおかげでアレクセイエフはこの要求を満たすことに成功した。彼の明暗法は、幼年時代の記憶、異教的ロシアの伝説に結び付いた悪夢と幻視、そして彼の祖国のイメージから生まれている。これはこの芸術家自身が強調したように、高度に自伝的な要素であり、その作品を叙情詩のアンソロジーとした要素である。 ある意味では、彼のデカダンティズムについて語ることもできる。ただし、現在通用している「デカダン」という卑俗な意味ではなく、歴史上のデカダンティズムの話である。「デカダンティズムやロマン主義が今世紀初頭のアヴァンギャルド運動に吸収されたという点において言えば、アレクセイエフの芸術はアヴァンギャルドとみなすことができる」とジャンニ・ロンドリーノは書いている。ロンドリーノはさらに、アレクセイエフが当時熱狂していた知識人たちに加わったことについても語っている。 「彼は多くを観察し、そして学んだ。だが、探究や実験に熱中しすぎるあまり我を忘れることや、自分自身の芸術的表現を見失うことは避けた」(「アレクセイエフ展カタログ」Catalogo della mostra in onore di Alexeieff 監修:ジャンナルベルト・ベンダッツィ、Milano, 1973) アレクセイエフの芸術は彼の孤独――流行を追いかけることなく、その結果大衆から拍手喝采を受けることはきっぱりとあきらめるという自覚――からその力を引き出している。これは洗練され、時に貴族的ではあっても、決して“インテリのための”芸術ではない。ホフマン、ポー、ドストエフスキー、パステルナークは人間としてのお手本よりもむしろ旅の伴侶である。彼らは自分以外の主人を持たず、その芸術は本からではなく人生から生まれたのである。 この2つのきらめく詩的作品(『禿山の一夜』『展覧会の絵』)に比較すると、『道すがら』『鼻』はより平穏でなめらかである。ゴーゴリのテクスト(床屋がパンの中に鼻を発見し、青年が鼻なしで目覚め、鼻自身は自分の人生を送ろうとする…)から着想した『鼻』は、イラストレーターとしての側面を表している。イラストレーター・アレクセイエフはイメージを翻訳するために、文字を追わずにその神髄を捉える。 『鼻』はテクストの筋を反復しないで、“ゴーゴリへのオマージュ”である自律した散文詩を創造する。その中には、物語のあらすじとはほとんど関係なく、19世紀ロシアの緻密なイメージ、時間と空間の印象的な総合、オブジェ・建物・生き物のメタモルフォーズ、地面から現れ、ただそこにいるだけで何者ともコミュニケートしないままに消え去る黒い神秘的な姿などが挿入される。現代のシュルレアリスム物語の見事な実例であり、シュルレアリスムが「自然な習慣になった」人間が構想した作品である。 『審判』のために制作したプロローグも同様に本のイラストレーションを想起させる。スチールのイメージがスクリーン上に次々と続いて行き、手でめくったページのようである。これに施した唯一の変形は、最大の明るさから最大の暗さへの移行であり、フィルムに感光する際に得られたものである。この経験の価値は、カザンの芸術家が版画家として達成した仕事の長い検討を要求することだろう。彼の版画は明らかにその映画作品と結び付いた魅力的な仕事である。彼は文字ページとイラストページの間に真のモンタージュを理論付け、適用した。そして、ドラマツルギーから生まれ、従って不規則であるリズムで、イラストページと文字ページが続くのである。しかし、これは現在の研究の主題からは外れており、別個に取り扱われる価値があるだろう。 『三つの主題』は最晩年の作品であり、いわば別れの挨拶であると同時に遺言でもある。第1部は非常にゆっくりとしたイメージが重なり合うロシアの田園風景の最後の思い出である。第2部は『展覧会の絵』のいくつかのシークェンスを自己引用として反復し、自分自身のインスピレーションを再確認する。第3部はゴルデンベルクとシュムイレを舞台に乗せる。前者は鈍重な金持ちであり、ハンマーの一振りでいつでも金を生み出すことができる。後者は弱々しい小鳥に似ており、貧乏な芸術家である。後者はムソルグスキーの容貌を備え、アレクセイエフ自身の説明によれば「金持ちと対決する芸術家のシンボル」を表現している。ここにアレクセイエフ自身の自画像を見ないことは不可能である。彼はその厳格な生涯を通じて、常に商業主義的妥協を拒否していたのである。 この文章はアレクサンドル・アレクセイエフの創造に力点を置いているが、作品制作の中でクレア・パーカーに帰属する部分は過少評価されるべきではない。鋭い運動感覚を備えた鼓舞者・激励者であり(彼らは好んで自らを“芸術家とアニメーター”として定義した)、伴侶の大胆極まりない夢想を論理的に触媒することのできたクレアは全てのフィルムにおいて当然の権利として連名になっている。うちとけた会話の途中で、ほとんど冗談から、2人は次の質問を互いに交わした。「私達には何ができただろうね、もし別々に働いていたとしたら?」 1人で質問を受けたとき、クレア・パーカーはためらわなかった。「本当のクリエーターは彼です」と彼女は言ったのである。 1.ロシア出身の舞台デザイナー(1883〜1946)。在ロシア時代にはディアギレフの『サロメの悲劇』La Tragedie de Salome (1913) の美術を手がけている。1918年に亡命、1920年パリのこうもり座に加わった。『モスクワの婚約者たち』Les Fiances de Moscou (1920) や『魔法の人形』The Fairy Doll (1923)などの美術を担当し、1925年よりニューヨーク・メトロポリタン劇場の公演に携わった。妻のヴェーラはストラヴィンスキーの愛人(後に妻となる)としても知られる。 2.ディアギレフ(1872〜1929)のロシアバレエ団による最初のパリ公演は1909年である。 ピトーエフ(1886〜1939)は俳優・演出家。1912年にペテルブルクで劇団を創設、1919年よりパリでロシア・北欧作品やフランス前衛戯曲を上演した。単純化した装置による反写実的舞台が特徴である。アレクセイエフはコメディ・デ・シャンゼリゼ座でのB・ショー作『聖ジャンヌ』Saint Joan の公演(1924〜25)で美術を担当している。 ベヌア(1890〜1960)はディアギレフの親友だった舞台美術家で、ロシアバレエ団の創立者の1人。1909年にパリに移住し、方々のバレエ団の衣装・装置を手がけていた。 3.〈原注〉アレクサンドル・アレクセイエフ、『アレクセイエフの肖像』Portrait d'Alexeieff 中のインタヴューより(ORTF研究課によるテレビ・ドキュメンタリー。製作:モーリス・ドベーズ Maurice Debeze, 1971) 4.〈原注〉アレクセイエフ、前掲 5.〈原注〉アレクセイエフ、前掲 6.〈原注〉『禿山の一夜』Noch' na Lysoi gore は1876年にムソルグスキーが作曲した1つの主題による交響詩である。これは、毎年6月24日、聖ヨハネ祭であり、夏至の太陽祭でもある日に、キエフ近郊のトリグラーフ山で夜通し開かれる魔女の神秘的なサバトから着想されている。 7.〈原注〉『展覧会の絵』Kartinki s vystabki は1874年にムソルグスキーが作曲し、サンクト・ペテルブルクのサロンで開かれた友人ヴィクトル・ガルトマンの遺作展に出品された絵画を表現している。本来はピアノ曲であったが、1922年にモーリス・ラヴェルによってオーケストラ用に編曲された。これは14部構成で、1つのプロムナードが4回変奏されて、展覧会の観客に付き添うかのように全体を連結している。 8. 「エデンの樹」L'Arbre d'Eden (Paris: G. Cres, 1922) 9. 〈原注〉ドイツの画家ギュンター・ウェカーの『大洋』Vaste Ocean (1964) は思い起こす価値がある。これは大きな白いタブローに多数の釘が打ち込まれて、波の様子を表現している。大変良く似たプロセスである(シカゴ美術館)。 10. 〈原注〉ムソルグスキー自身もまたサンクト・ペテルブルクの士官学校の生徒であったことは恐らく意味がある。 11. 短編集『ディカーニカ近郷夜話』Vechera na khutore bliz Dikan'ki (1831) に収録。 12. LDの解説ではアレクセイエフ自身が『エヴゲーニイ・オネーギン』Evgenii Onegin (1832) の名を挙げているが、以下に掲げる『悪魔』Besy (1831) も一致する描写が多い: 黒雲がとぶ 黒雲がうずまく 姿の見えない月が 舞う雪を ほのかにてらしている。 「こいつは悪魔めがおれたちを 野におびきだしたに相違ない きっとこの辺をとびまわっているにちがいない。 ごらんな、ほれそこでおどっている 息をしている おれの顔につばをひっかける そら こんどはくぼ地の方へ 野性にもどった馬を かりたてる。 あそこのところに 里程標に化けた 悪魔めがつっ立ってる おれの前の方に。 やつめ あっちで 小さな火の粉になってきらめいたかと思うと がらんどうの暗闇に 消えちまった」 (後略) (草鹿外吉訳)13. 〈原注〉フリードリヒ・W・ムルナウの『ファウスト』Faust (1926)の映画的記憶をたどることも可能である。それは、雲間の飛行、ミニチュア・モデルで構成された風景上空の飛行、灰色の陰影、帽子を脱ぎながら“頭を取り外す”人物などである。 14. ベンダッツィの考えを単純に図式化すると下図のようになるものと思われる。
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