ベルトルト・バルトーシュについて |
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アレクセイエフ:『観念』L'idee がステュディオ・ラスパーユ Studio Raspail で公開されたのは1932年の11月か12月初旬のことだ。当時クレア・パーカーと私は版画アニメーションの名に値するフィルムを作ろうと――私は版画家だったから――ピンスクリーンの組み立て方を必死に考えていた。だから「ラ・スメーヌ・ア・パリ」誌 la semaine a Paris で告知された「ベルトルト・バルトーシュによる版画アニメーション」というタイトルには半信半疑ながらショックを受けた。だが、かくも私を悩ませたこの驚くべきフィルムを見たのは、ステュディオ・ラスパーユではなく、すこし後のテアトル・ピガール Theatre Pigalle だった。 パーカー:バルトーシュはウィーンでは(プロフェッサー・E・)ハンスリック(注1) と、20年代にはベルリンでライニガー(注2) と共同制作しており、渡仏してからはドイツに二度と戻りませんでした… アレクセイエフ:パリの批評家が映画『観念』に付けた「版画アニメーション」という名称を説明しよう。誤解だったのだ。このフィルムはクルト・ヴォルフ(注3)の出版社がバルトーシュに注文したものだ… クルト・ヴォルフが1920年代にもう1人のチェコ人、フランツ・カフカを発見した人物であり、カフカ作品の最初の出版者〔短編集『観察』Betrachtung (1912)〕だったことを付け加えることも重要だろう。 パーカー:これは版画だけの本で、文字はありませんでした。 アレクセイエフ:この本は映画に似ているから、映画化は簡単だと出版社は考えた。バルトーシュはすぐに気づいたのだが、重々しい木版画をアニメートするのは決して簡単ではなかった。そのために彼は詩を別の言語に翻訳する時と同じ方法を採用した。つまり、全部作り直したのだ。マセレールの輪郭のはっきりした版画は、そのままでは硬直したアニメーションになってしまうに違いなかった。ところが一方で、バルトーシュは生まれつき足が不自由で、歩くのも一苦労だったが、運動の軽やかさを大切にしていた。彼はいつも自分自身の手で、全部1人でやろうとした。 パーカー:どんなにスタジオが狭かったか想像もつかないでしょうね… 約3×3.7mで、スペースの半分は一種の撮影台に重ねられたガラス板が占領していたのです。バルトーシュはこの撮影台の前に立ち、自転車用ポンプの紐を引いていました。後になってわかったのですが、これは普通の自転車用ポンプではありませんでした。後年、複合振り子のフィルムで同じことをしようとしたら、私達のポンプは大変不規則であることが判明したのです。バルトーシュに助言を仰いだら、彼の特製ポンプは入念に調整されていて、超長時間露出も完璧に正確にできるのだと話してくれました。 アレクセイエフ:『観念』は約30分の長さで、バルトーシュはこれに2年以上の制作期間をかけた。多くの身体障害者と同様に、バルトーシュはハンディキャップによって逆に駆り立てられた。苦しみに立ち向かう彼の勇気が常人の尺度を乗り越えることに成功したと言うべきだろう。 パーカー:撮影はまだ始めていなかったと思います。 アレクセイエフ:それを知るのは難しい。彼は私にいくつかのパステルスケッチを見せてくれた。ベルリンでバルトーシュはバウハウス周辺に集結した芸術家サークルの近くにいて、ストーリーや諷刺ではなく、運動する形態をテーマにしたアニメーションを構想していた… パーカー:私は夫の友人としてバルトーシュを知っていました。横からちらちらと観察するだけで、直接会話には参加しなかったのです。この人は並外れた人間的な温かさや絶え間ない情熱をふりまいていました。彼は何か農民的な――少なくとも村人のような――性格を持っており、都会の居心地が良くなかったのだと思います。ヴィユー・コロンビエ座の屋根の下の彼の住まいにいると、いつも風車小屋か田舎の教会の尖塔の中にいるような感じがしました。これは、どこに行こうと彼が運んでいった宇宙でした。 アレクセイエフ:彼の人生は、見かけは単調でも、その夢の深みにおいてはこの地球の誰も生きたことのない最高に素晴らしい人生をおくったのだ、そう私は確信している。今、「その夢に」と言ったが、それは人生における夢の役割は重要だからだ。 "About Berthold Bartosch"〈原注〉「イマージュ・エ・ソン」誌 image et son 1969年1月号のユベール・アルノーによるインタヴュー〔セシル・スターの英訳より翻訳〕 1.ウィーンの文化研究所所長。大衆教育の手段としての映画の有効性に注目し、バルトーシュが教育映画の道に進む直接の契機を作った。 2.ライニガーの影絵アニメーションの中でバルトーシュが担当しているのは、例えば『アクメッド王子』の背景の星空や波の効果である。 3.クルト・ヴォルフ書店(旧ローヴォルト書店)は10年代にカフカ、マイリンク、ツヴァイクらを擁して表現主義文学運動の核となった出版社であり、20年代には美術出版に重点を移していた。ユダヤ人だったヴォルフはベルリン国会議事堂炎上事件を契機に亡命し、ヨーロッパ各地を転々とする。そして1941年にニューヨークへ渡り、翌年にはパンテオン・ブックスを設立して出版活動を続けた。 4.フランス・マセレールはベルギーの表現主義画家・版画家(1889〜1972)。ゲント美術アカデミーに学び、1916年よりジュネーヴで、1921年よりパリで雑誌・本のイラストに従事する。その主なものは、友人でもあるロマン・ロランや、バルビュス、メーテルランク、ヴェラーレン、デュアメル、トルストイなどの作品である。オリジナル作品としては、『我が時祷書』Mon livre d'heures (1919) を始めとする、“romans in beelden”(文字を使用しないイラストのみの本)がマセレールを有名にした。黒と白の対比による彼の木版画は、社会・政治の犠牲者である最底辺の人々を主題として、「パセティックな人道主義的情熱」(Jean Cassou) と評されている。版画の代表作には、『ある人間の受難 25枚連作』Vingt-cinq images de la passion d'un homme (1918)や『都会』La ville (1925. レイン・ラーマットの『シティ』の原作)などがある。「複製芸術と宣伝――フランス・マゼレール」(水田洋、『知の風景 続・近代ヨーロッパ思想史の周辺』 P.106〜115 、筑摩書房、1988)も参照のこと。 5.ヴィユー・コロンビエ座は1912年にジャック・コポー(1879〜1949)が創設した劇場で、フランス前衛劇の根拠地である。1933年にはピトーエフもここで上演している。 テデスコ(1895〜1959)はロンドン出身の映画監督・製作者で、約30本の短編映画や長編コメディ『死か生か』Mort ou vif (1948)を制作している。また、ヴィユー・コロンビエ座にシネクラブを設立し、アヴァンギャルド映画の上映を推進した。 また、ジャン・ルノワールのエッセイ『思い出…』(1938)には、次のような一節がある。 「私は『マッチ売りの少女』をジャン・テデスコの協力のもとにわれわれがヴュー・コロンビエ座の屋根裏にこしらえた小さなスタジオのなかでつくった」(アンドレ・バザン, 『ジャン・ルノワール』, フィルムアート社,1980) 6.『総理大臣』The Prime Minister (1941) や『スペードの女王』The Queen of Spades (1949)等を演出した映画監督(1903〜84)。『ガス燈』Gaslight (1940) はMGMがキューカー演出でリメイク(1944)するために、ネガ買収・廃棄の憂き目にあうことになった。 7.アッシジの聖フランチェスコはフランシスコ会の創始者で、清貧に生きたことで知られる。極貧の中にあったバルトーシュにはふさわしいタイトルと言えよう。 8.ルノワール演出の『ラ・マルセイエーズ』La Marseillaise (1937)ではライニガーが特殊効果を担当している。また、ロフス・グリーゼ演出の『幸運を求めての狩り』Die Jagd nach dem Gluck(1929〜30)では、ルノワールやバルトーシュが俳優として出演しており、ライニガーが影絵を担当している。 ウーデ(1874〜1947)はドイツの美術史家・コレクター。1903年以降はパリに住み、ピカソ、ブラック、ローランサンに最初に注目した1人である。素朴絵画の概念を初めて表し、アンリ・ルソーの最初の伝記を書いた。 9.これは俗説であり、実際にはグレコの絵画の引き伸ばされたプロポーションはマニエリスム理論に基づく意図的なものである。 |