ベルトルト・バルトーシュについて

アレクセイエフ:『観念』L'idee がステュディオ・ラスパーユ Studio Raspail で公開されたのは1932年の11月か12月初旬のことだ。当時クレア・パーカーと私は版画アニメーションの名に値するフィルムを作ろうと――私は版画家だったから――ピンスクリーンの組み立て方を必死に考えていた。だから「ラ・スメーヌ・ア・パリ」誌 la semaine a Paris で告知された「ベルトルト・バルトーシュによる版画アニメーション」というタイトルには半信半疑ながらショックを受けた。だが、かくも私を悩ませたこの驚くべきフィルムを見たのは、ステュディオ・ラスパーユではなく、すこし後のテアトル・ピガール Theatre Pigalle だった。
 この映画館(建造されたばかりで1年も経っていなかった)のロビーで、私は奇妙なカップルに出くわした。男は『ホフマン物語』から抜け出した木彫りのくるみ割り人形そっくりで、ウルカヌス〔ローマ神話の鍛冶・火山の神。跛足とされる〕のように足を引きずっていた。連れの方は若い細身の女性で、私が見た中でも最も美人の部類だった。彼らがマリア・バルトーシュ Maria Bartosch とベルトルト・バルトーシュ Berthold Bartosch だった。2人がベルリンから来ていたことを知ったのは、後に友人になってからだった。
 バルトーシュはボヘミアの村に生まれ、パスポートによればチェコ人だが、母国語としてはドイツ語をしゃべっていた… 1893年に靴屋の息子として生まれた彼は、第一次大戦前に中央ヨーロッパのリベラルな理想主義によって自己形成し、リベラルな社会主義者であり続けた。

パーカー:バルトーシュはウィーンでは(プロフェッサー・E・)ハンスリック(注1) と、20年代にはベルリンでライニガー(注2) と共同制作しており、渡仏してからはドイツに二度と戻りませんでした…

アレクセイエフ:パリの批評家が映画『観念』に付けた「版画アニメーション」という名称を説明しよう。誤解だったのだ。このフィルムはクルト・ヴォルフ(注3)の出版社がバルトーシュに注文したものだ… クルト・ヴォルフが1920年代にもう1人のチェコ人、フランツ・カフカを発見した人物であり、カフカ作品の最初の出版者〔短編集『観察』Betrachtung (1912)〕だったことを付け加えることも重要だろう。
 フランス・マセレール(注4) が木版で制作した『観念』というタイトルの社会主義プロパガンダのブック・イラストレーションをアニメ化することで、これに生命を与えようと出版社は考えたのだ。

パーカー:これは版画だけの本で、文字はありませんでした。

アレクセイエフ:この本は映画に似ているから、映画化は簡単だと出版社は考えた。バルトーシュはすぐに気づいたのだが、重々しい木版画をアニメートするのは決して簡単ではなかった。そのために彼は詩を別の言語に翻訳する時と同じ方法を採用した。つまり、全部作り直したのだ。マセレールの輪郭のはっきりした版画は、そのままでは硬直したアニメーションになってしまうに違いなかった。ところが一方で、バルトーシュは生まれつき足が不自由で、歩くのも一苦労だったが、運動の軽やかさを大切にしていた。彼はいつも自分自身の手で、全部1人でやろうとした。
 1931年にバルトーシュは支配人のジャン・テデスコのおかげでヴィユー・コロンビエ Vieux Colombier(注5) の屋根の下に避難所を見出した。彼は物置同然の小部屋に世界で一番小さなアニメーション・スタジオを作った。我々は彼のマルチプレーン撮影台を見た一握りの中に入っていた… この撮影台の上でバルトーシュは厚紙を切り抜いた影絵を使ってマセレールのキャラクターを表現したが、この影絵は柔和で並外れて詩的な雰囲気の中で動いたのだ…
 『観念』は薄墨と石鹸をつけたガラス板の上でアニメートされた。数個の100ワット電球がバルトーシュの撮影台を下から照明し、その光は石鹸によって虹色に輝いて、素晴らしい効果を挙げていた。照明の弱さが非常な長時間露出を強要し、彼はこれを自転車用ポンプを使ったリレーで作り出した。彼がいかに自慢げに旧式水洗トイレのような紐を引いたことか! それから可動式の重りがリリースされる音がして、重りがゆっくりと下がり、ポンプのピストンに重量をかけ、カメラシャッターを回転させて非常に長い露出をおこなうのだった。アニメーターはバルトーシュの多重露出に興味を持つことだろう。彼は画家のように層を重ねていった。彼は決して誰の手も借りなかった。妻の手さえもね…

パーカー:どんなにスタジオが狭かったか想像もつかないでしょうね… 約3×3.7mで、スペースの半分は一種の撮影台に重ねられたガラス板が占領していたのです。バルトーシュはこの撮影台の前に立ち、自転車用ポンプの紐を引いていました。後になってわかったのですが、これは普通の自転車用ポンプではありませんでした。後年、複合振り子のフィルムで同じことをしようとしたら、私達のポンプは大変不規則であることが判明したのです。バルトーシュに助言を仰いだら、彼の特製ポンプは入念に調整されていて、超長時間露出も完璧に正確にできるのだと話してくれました。

アレクセイエフ:『観念』は約30分の長さで、バルトーシュはこれに2年以上の制作期間をかけた。多くの身体障害者と同様に、バルトーシュはハンディキャップによって逆に駆り立てられた。苦しみに立ち向かう彼の勇気が常人の尺度を乗り越えることに成功したと言うべきだろう。
 若いイギリス人のソロルド・ディキンスン(注6) は商業映画の助監督で、バルトーシュのファンだった。彼は決して裕福というわけではなかったが、月給の一部を送って融資し、新作のスポンサーになることを約束した。こうしてバルトーシュが取りかかったフィルムは『観念』よりずっと大作で重要な作品になるはずだった… (これはガスパーカラーによる反戦映画で、『聖フランチェスコ』St. Francois(注7)、もしくは『悪夢と夢』Cauchemars et reves という題であり、バルトーシュは1935年から1939年にかけてこれに取り組んだ。このフィルムは数本の断片を除いて完全に失われ、付録の図版はこの断片からとられている)…
 1941年に私がパリを離れたとき、バルトーシュのことは死んだものと諦めていた。ズテーテンラント占領の結果、彼はドイツ人になった。バルトーシュがナチスのパスポートを拒絶したことや、ウィーン時代にトマシュ・マサリーク〔チェコスロヴァキア共和国の創設者・初代大統領。1850〜1937〕のテーゼに基づいた映画を制作したこと、そして、ヒトラーに対抗するプロパガンダとして反ナチの映画に取りかかっていたこと(1938年)、これらがナチスの怒りにふれた。彼は身体障害者で、フランス語も話せなかったので、標的からすばやく逃れるには目立ち過ぎており、しかも弱かった。
 1947年にサン・ジェルマン〔パリの大通り〕で彼に再会したとき、私がロシア訛りのドイツ語で挨拶すると、フランス語の返事が返ってきた。「ワタシ、モウトイツコシャペラナイ。ワタシ、フランスコシャペル」と。私は映画のことを尋ねた。「奴らが捜しに来たとき、私を見つける代わりに、フィルムを発見して廃棄してしまったのだ」と彼は答えた。
 彼は第3作を作ろうと計画したが、これは更に壮大なフィルムで、宇宙に関するものだった。晩年の20年間、彼はこの新作の細かい構成に取り組んでいた。その秘密を墓場に持っていってしまったのは1968年の11月13日のことだった。

パーカー:撮影はまだ始めていなかったと思います。

アレクセイエフ:それを知るのは難しい。彼は私にいくつかのパステルスケッチを見せてくれた。ベルリンでバルトーシュはバウハウス周辺に集結した芸術家サークルの近くにいて、ストーリーや諷刺ではなく、運動する形態をテーマにしたアニメーションを構想していた…
 また、パリの友人の中にはジャン・テデスコやジャン・ルノワール、有名な美術批評家のヴィルヘルム・ウーデがおり(注8)、彼らもまたバルトーシュの映画や絵画に興味を示していた。だが、私自身は美術批評家ではないから、バルトーシュが見せてくれた沢山のパステルスケッチについてはコメントのしようがない。このスケッチは彼の構想の各段階を明確にするためのものだった。第2作が破壊されたことはバルトーシュの鉄の意志をもってしても厳しすぎる逆風だった。彼は決してそれに不平を言わなかったが、私が思うに、その余生において、彼は映画創作活動を再開するという考えと戯れているだけで、戦争で破壊されたものを蘇らせる力が自分にあるのかどうかを疑っていたのだ。
 バルトーシュはコマーシャルを作ってのうのうと暮らすこともできただろうが、アニメーションは彼にとって妥協を許さぬ1つの宗教だった… バルトーシュはその信念に真摯に尽くした… 彼は美しいマリアと一緒に極貧の中で生活していたが、この貧困に彼は進んで自らを適応させたのだ…
 補償理論はエル・グレコの乱視(注9)やベートーヴェンの難聴を正当化するが、動くことも困難なバルトーシュがアニメーションを選択し、だれにも真似できない軽やかなステップをキャラクターに与えたことはまさにこの理論通りだ。彼の非妥協主義・清廉潔白・芸術的尊厳はおそらく類を見ないだろう。なぜなら、バルトーシュの貧困はハンディキャップになるどころか、彼の熱情に火を点けたからだ。幸いにして、現代のアニメーターは(自主制作の作家のことだ――集団作業のアニメーターではない)、アニメーションがペイしないことを知っている。これは悲しむべきことだが、我々アニメーターはエコール・ド・パリの画家たちのように、自分の道の険しさに誇りを持つべきなのだ。アニメーションが売りものになるようになれば、芸術を極めようとするよりも、金儲けのためにアニメーションへ近寄ってくる人間が増えるだろう。
 バルトーシュの作品は私に多大な影響を与えた。「ラ・スメーヌ・ア・パリ」で「版画アニメーション」という言葉を見た時、私はつぶやいたものだ。「おまえの貧しさは数々の版画技法を生み出す結果になったのに、何故、それをアニメートする方法は発見できなかったんだ?」と。ライバル意識に刺激されて、私は本のイラストレーションで成功した後に、音楽をイラストレートする試みに目標を変えた。バルトーシュのディテール(雰囲気、燐光を放つ霧)と私のディテールが、確かに近い関係にあるということも言わねばなるまい。それはスラヴ気質というよりも、北国特有の雪や霧にくすんだ冬の田舎という点で似ているのだ。我々は共に同じやり方で光を愛していた。また、バルトーシュはアニメーションが“詩的”でありうることを示した。私見では、彼の影響が唯一無比であるのはその点なのだ… アニメーションに偉大な芸術の次元を最初に与えたのはバルトーシュだ。彼は信じていた。アニメーションが自分の痛みを声にし、ありのままの心を保ち、よりよい将来――彼はついにそれを見ることがなかった――への希望を語ってくれることを。
 私が批評家なら、『観念』の都市景観の重要性に注意を促し、バルトーシュと、もう1人の牢獄の画家、ピラネージとを比較していただろう。だが、バルトーシュのモラルにおける模範は他の全てにまさっていると思う。

パーカー:私は夫の友人としてバルトーシュを知っていました。横からちらちらと観察するだけで、直接会話には参加しなかったのです。この人は並外れた人間的な温かさや絶え間ない情熱をふりまいていました。彼は何か農民的な――少なくとも村人のような――性格を持っており、都会の居心地が良くなかったのだと思います。ヴィユー・コロンビエ座の屋根の下の彼の住まいにいると、いつも風車小屋か田舎の教会の尖塔の中にいるような感じがしました。これは、どこに行こうと彼が運んでいった宇宙でした。
 戦時中、夫妻は農場で暮らしていました… バルトーシュは働けませんでした。困った彼らは外国人――そう、正確な表現ではありませんが――にすがり、そこでフランス式のもてなしを受けました。そして自分たちを世話してくれた農民と親友になり、畑で働き、フランス語を学んだのです。
 マリアなしでバルトーシュは自分の芸術を遂行できなかったでしょうし、『観念』は制作されなかったでしょう。この美しい女性は、夫と同じ鉄の意志を持ち、生涯、夫に尽くし、愛し、養い、家事だけでなく支出金を稼ぐために家の外で働いてもいました。

アレクセイエフ:彼の人生は、見かけは単調でも、その夢の深みにおいてはこの地球の誰も生きたことのない最高に素晴らしい人生をおくったのだ、そう私は確信している。今、「その夢に」と言ったが、それは人生における夢の役割は重要だからだ。


  "About Berthold Bartosch"〈原注〉「イマージュ・エ・ソン」誌 image et son 1969年1月号のユベール・アルノーによるインタヴュー〔セシル・スターの英訳より翻訳〕



1.ウィーンの文化研究所所長。大衆教育の手段としての映画の有効性に注目し、バルトーシュが教育映画の道に進む直接の契機を作った。

2.ライニガーの影絵アニメーションの中でバルトーシュが担当しているのは、例えば『アクメッド王子』の背景の星空や波の効果である。

3.クルト・ヴォルフ書店(旧ローヴォルト書店)は10年代にカフカ、マイリンク、ツヴァイクらを擁して表現主義文学運動の核となった出版社であり、20年代には美術出版に重点を移していた。ユダヤ人だったヴォルフはベルリン国会議事堂炎上事件を契機に亡命し、ヨーロッパ各地を転々とする。そして1941年にニューヨークへ渡り、翌年にはパンテオン・ブックスを設立して出版活動を続けた。

4.フランス・マセレールはベルギーの表現主義画家・版画家(1889〜1972)。ゲント美術アカデミーに学び、1916年よりジュネーヴで、1921年よりパリで雑誌・本のイラストに従事する。その主なものは、友人でもあるロマン・ロランや、バルビュス、メーテルランク、ヴェラーレン、デュアメル、トルストイなどの作品である。オリジナル作品としては、『我が時祷書』Mon livre d'heures (1919) を始めとする、“romans in beelden”(文字を使用しないイラストのみの本)がマセレールを有名にした。黒と白の対比による彼の木版画は、社会・政治の犠牲者である最底辺の人々を主題として、「パセティックな人道主義的情熱」(Jean Cassou) と評されている。版画の代表作には、『ある人間の受難 25枚連作』Vingt-cinq images de la passion d'un homme (1918)や『都会』La ville (1925. レイン・ラーマットの『シティ』の原作)などがある。「複製芸術と宣伝――フランス・マゼレール」(水田洋、『知の風景 続・近代ヨーロッパ思想史の周辺』 P.106〜115 、筑摩書房、1988)も参照のこと。

5.ヴィユー・コロンビエ座は1912年にジャック・コポー(1879〜1949)が創設した劇場で、フランス前衛劇の根拠地である。1933年にはピトーエフもここで上演している。
 テデスコ(1895〜1959)はロンドン出身の映画監督・製作者で、約30本の短編映画や長編コメディ『死か生か』Mort ou vif (1948)を制作している。また、ヴィユー・コロンビエ座にシネクラブを設立し、アヴァンギャルド映画の上映を推進した。
 また、ジャン・ルノワールのエッセイ『思い出…』(1938)には、次のような一節がある。
「私は『マッチ売りの少女』をジャン・テデスコの協力のもとにわれわれがヴュー・コロンビエ座の屋根裏にこしらえた小さなスタジオのなかでつくった」(アンドレ・バザン, 『ジャン・ルノワール』, フィルムアート社,1980)

6.『総理大臣』The Prime Minister (1941) や『スペードの女王』The Queen of Spades (1949)等を演出した映画監督(1903〜84)。『ガス燈』Gaslight (1940) はMGMがキューカー演出でリメイク(1944)するために、ネガ買収・廃棄の憂き目にあうことになった。

7.アッシジの聖フランチェスコはフランシスコ会の創始者で、清貧に生きたことで知られる。極貧の中にあったバルトーシュにはふさわしいタイトルと言えよう。

8.ルノワール演出の『ラ・マルセイエーズ』La Marseillaise (1937)ではライニガーが特殊効果を担当している。また、ロフス・グリーゼ演出の『幸運を求めての狩り』Die Jagd nach dem Gluck(1929〜30)では、ルノワールやバルトーシュが俳優として出演しており、ライニガーが影絵を担当している。
 ウーデ(1874〜1947)はドイツの美術史家・コレクター。1903年以降はパリに住み、ピカソ、ブラック、ローランサンに最初に注目した1人である。素朴絵画の概念を初めて表し、アンリ・ルソーの最初の伝記を書いた。

9.これは俗説であり、実際にはグレコの絵画の引き伸ばされたプロポーションはマニエリスム理論に基づく意図的なものである。

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