芸術家を名乗る勇気

ジャンナルベルト・ベンダッツィGiannalberto Bendazzi

 アレクセイエフは1個の結晶のような多面体だった。映画作家であり、版画家であり、発明家であり、著作家であり、語源研究家であり、理論家だった。

 結晶には1つの対称軸がある。彼にとっての結晶軸は芸術と呼ばれるものだった。彼は全てに対して芸術家として行動した。例えばその語源解釈は決して言語学という灰色の学問には似つかわしくなかった。その代わり、様々なロシアのイメージや、言語の音と音が交わすエコー、一見しただけでは捉え難い意味のニュアンスなどを明らかにするものだった。そして恐らく、時として言語学者たちのものよりも真実だった。

 ここに彼の理論的・思索的テクスト集を出版する。彼は構想・執筆の時も芸術家だった、そう私は述べたが、その理論的・思索的な価値を無視してしまうつもりはない。その逆である。哲学者の論理がここには適用されている。論理とは単純なものであり、多少低俗でもある(アヌシー湖のほとりを散歩しているとき、クレア・パーカーが1枚の木の葉を示して、論理はこれをまったく理解できないのだ、と話したのを思い出す)。アレクセイエフは本能的にいわゆる“水平思考”(エドワード・デ・ボノEdward de Bonoが研究した)の達人であり、これが彼を独創的な結論に導いた。

 彼は直観の達人だった。確かに、その直観を思考体系を確立するためには使用しなかった。これは神の恵みである。彼はイメージを創造することにその時間をより費やしたのだ。だが、このテクストは数々の視点を提示し、その意図を明らかにし、並外れたオリジナリティの総合を示している。

 これは大部分が昔のテクストであり、時として未発表で、入手困難なものがほとんどである。これは私が準備していた(今も準備中だが)アレクセイエフに関する大著のベースになるものだった。本当は彼が生きているうちにそれを出したかったのだが。それはアレクセイエフを映画芸術の歴史のほんの1章(重要だが、限定された)としか考えていない人々に、彼が同時代人にいかに多くの示唆を与えることができたかを理解させるはずだった。スクリーンの中には実例(映画作品)があり、理解しようと望むものには容易に理解することができた。そして、これらのページの中にそのレッスンがあったのだ。

 映画ファンにとって、これがただ単に知性を刺激するレッスンにとどまらないことは明白である。これはとりわけアレクセイエフ自身とその作品に関するレッスンでもあるだろう。叙情的な芸術家だった彼は、ソリッド・イリュゾワールのテクニックや人間の視覚法則を書き述べながら、彼の夢想そのものを伝えていたのだ。

 1つの文章が特に感動的である。「個人の創造プロセスと創造様式にはある関連が存在する。自分のやり方で表現し思考しようと望む者は、個人でテクニックを探究しなければならない」(「アール・エ・メティエ・グラフィック」1929年3月15日) その数ヵ月後のピンスクリーンの発明(これによって彼は版画アニメーションを生み出した)を連想せずにいられようか?

 以下の数行は、私が既に執筆した映画史の1章である。

 『禿山の一夜』は1933年の作品である。世間のほとんどはこの粒子状のフィルムの作者がそれからどうなったのかを全く知ろうとはしなかった。死んだのか、生きているのか? 生きているとすれば、どこにいるのか? それはたいした問題ではなかった。アレクセイエフは歳を取らない。何故なら歴史は歳を取らないからであり、現代人の意識では、アインシュタインEinsteinモーツァルトシャルルマーニュと同年代なのだ。

 1933年、アニメーションの傑作は既に存在していた。漫画映画――特にアメリカで――は創造性と想像力の絶頂に達していた(注1)。ヨーロッパでは、ヴァルター・ルットマンオスカー・フィッシンガーヴィキング・エッゲリングベルトルト・バルトーシュが“シリアスな”アニメーションへの道を既にたどっていた。

 『禿山の一夜』は華々しい成功を収めたわけではなかった。配給されず、パリ、それからロンドンの非商業的上映で一握りの人間が見ることが出来ただけだった。アニメーションが一大“ムーヴメント”となることも、このフィルムがマニフェストとなることもなかった。

 だが、時が流れ、アニメーションにも傑作は存在するのだという意識がだんだんおこってきた。

 『禿山の一夜』の初映から今や50年が過ぎている。様々な国のアニメーター達が団結し、自分たちの創造活動への自覚と誇りを持つようになって、25年が経過した。アレクセイエフはこの連盟の組織化に手を貸し(「私がASIFAを孵したのだ」と死の1ヵ月前に書いている)、助言し、勇気付け、他人のフィルムを製作した。従って2人のアレクセイエフがいたのだ。つまり、快活で人間的な魅力にあふれた芸術家と、この芸術の頂点を究める栄光に包まれた献身的“作家”とが。

 現在、アニメーションがより豊かになり、現代に適応している運動であることを我々は知っている。今世紀前半の諸々の“イズム”とは対照的に、アニメーションが数年や数ヵ月で枯渇してしまうことはなかった。世紀の1/4が過ぎても、なおその開花は続いている。新たな作家がいて、新たなテクニックが発見されている。

 アレクセイエフが死んで10ヵ月になる。その半身だったクレア・パーカーも2年前に亡くなった。両人とも(だがとりわけアレクセイエフが)常に“芸術家”と自分たちを呼んでいた。アニメーションは今やますます芸術の一形態となっている。これは人間の創造の拠点としては最も新しいものの1つであり、ここではアイディアや腕前の持ち主には多くのことが可能である。しかし、今日のアニメーションフィルムの作者たちの中で、自分を“芸術家”とためらいなく呼べるものがどれだけいるだろうか?

 アレクサンドル・アレクセイエフとクレア・パーカーがその仲間に残した本当の遺産とは、多分そのスタイルの見本でもなく、ここに収集したアレクセイエフのテクストの理論的教訓でもない。その遺産は、芸術家を自称したその高貴な誇りにあるのだ。そして、『禿山の一夜』のような作品が存在することを知り、それ以上を目指すことなのだ。最後に、もう1つの遺産がある。つまり、アレクサンドル・アレクセイエフとクレア・パーカーを生前に愛した人々に対する遺産である。これは限りなく豊かな人間的遺産である。作品制作中のアレクセイエフが1個の結晶のようなものだったとすれば、別の意味で、人間としても1個の結晶――美しく透明な――だったのである。

  "Le courage de se nommer artiste" (『アレクセイエフ選集』Pages d'Alexeieff 序文)



1.『三匹の子豚』Three Little Pigs (1933)、『ベティの白雪姫』Snow White (1933)など。

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