Valor Del Corazon(心の強さ)

2005年5月22日(本家より)
2004年の終わり、毎年クリスマス休暇に家族で訪れる常夏のフィリピンへ向かう飛行機の中で俺の人生は転落し始めた。家族に会い、ビーチへ繰り出し、うまいモノを食べて、これ以上無理ってくらいゆっくり過ごす予定だった。

旅行はとても穏やかに始まった。

この旅行中にプロポーズするつもりだと飛行機の中でアンジーに伝えると、彼女は喜んで受け入れると言ってくれた。ロマンティックなプロポーズとはとても言えないけど、前もって伝えておきたかったのは彼女に隠していた秘密があったからだ。絶対に嘘はつかないといつも彼女に言っていた。結婚するとなればなおさらだ。

この数何ヶ月…約4ヶ月間ヘロインを服用していたことを打ち明けた。

すると彼女は、結婚や今までの関係はおしまいだと言った。

おしまい。簡単なもんさ。

2人の子供に、5年にわたって一緒に作り上げてきた数え切れないほどの思い出や時間が水の泡となった。俺はただ、恥を捨て素直に自分の弱さと向き合っただけなのに。まさに正直者が馬鹿をみるってやつさ。

随分薄っぺらな付合いだよな。

機内でドラッグによる禁断症状が始まり、緊急着陸か、もしくは、他の乗客の迷惑にならないように大量の安定剤とファーストクラスの席を用意しろと俺は乗務員に強要した。

ヘロインってのはずる賢いヤツで、一度やったら最後、たとえどんな奴でもタマまで吸い取られてしまう。

試験的に別居することで再び親密な関係になれるだろうと考え、2004年の何ヶ月間かをアンジーと子供たちが住む家の近所の小さなアパートで一人で暮らした。近くにいて、いつでも駆けつけられるように。それにまだアンジーを愛していたから。

俺は長い間セックスをしていなかった。ヘロインは効果的に性欲を殺し、ペニスがあることさえ忘れさせる。おかげで、バンドメンバーの夫婦関係を壊しかねない、誘惑の対象だった女の子たちが、単に目で楽しむだけのものになった。

ヘロインが抑制剤として働き、見た目は驚くほど若くなり、「最近ものすごくカッコよくなった」と言われるようになった。俺をイケテると思う女の子たちも増えた。ヘロインは、今まで体験したドラッグとは違う高揚感に加え、単に薬としても効果があった。(俺は何年もの間、深刻な鬱に悩まされている。あらゆる薬を試しても効果はなく、治療不可能だからと俺を隔離しようとした病院で暴れたりしたこともある)普通の風邪と大して違わない病気から逃げるため、俺はヘロインをやり続けた。毎日やらないといられなくなるまで、そいつはじわじわと俺を蝕んでいった。

フィリピンへ発つ前日、俺の誕生日の12月17日に俺はドラッグを絶った。毎日の高揚感も、人々が口にする‘ルックスが良くなった’という言葉も、タイトな古いジーンズも、死亡願望と闘う日々ともサヨナラだ。

薬を断ち健康を取り戻すため、不快感とみじめさを感じながらも売人の番号で一杯の電話帳を捨てた。そして40才の誕生日、イギリス内で一番好きなミュージシャンたちとバースディショウを行い、俺は再び現実世界に舞い戻った。

禁断症状はマニラに着いて10日ほど続き、その間俺はアンジーの家族の住む大きな屋敷の一角に隔離されていた。

症状が収まったら、白浜と青緑色の空の地球上で最も美しいボラカイ島で恒例の家族旅行だ。でもアンジーが手配したホテルは、俺だけ子供たちや母親と別。そんな彼女と俺は休暇を過ごさなければならなかった。

友情という癒しが必要な時、ワイルドハーツのサウンドマンであるマットがフィリピンにやってきていた。ビーチまで一緒に行ってマットが楽しく日光浴をしている頃、俺は新たな病気に蝕まれベッドに横たわっていた。外はパラダイス状態だってのに、初日の晩に食べたカキのせいで史上最悪の食中毒に犯され、俺は寝たきりになってしまったんだ。

地元の医者が俺の腕に点滴を打とうとするのを拒否すると、彼女は別の薬物療法を施した。分刻みでトイレに駆け込むことを考えると、点滴なんか邪魔にしかならない。トイレ行くたびに重いスタンドを引きずっていかなきゃいけないなんて、不便だろ。

症状は悪化して、食中毒では珍しいくらい熱が上がり、入院の為、島の滞在を延長しなければならなくなった。その後、無事本島へ戻りはしたものの、道中嘔吐と下痢の繰り返しだった。嵐の前のカキは食べちゃいけないって話を帰宅後に聞かされた。この世の終わりってくらいの津波が押し寄せ、おそらく海底の軟体動物は尋常じゃない毒を持っていたようだ。

重要な情報ってのは、事前に知っていれば重要だけど、後で聞かされるのはムカツクだけだ。

その月の残りの日々は、アンジーが別の寝室で眠っている間、悲しみと孤独の中一人自分の部屋で過ごした。淋しくて、具合も悪くて、自殺したくなるほど退屈だったけど、俺はギターを持ち曲を書いた。とにかく書き続けた。

ロンドンへ発つ準備をする頃には1枚のアルバムを作れるくらいの新しい素材を書き終えていた。それと同時に、ウェイトを使ってエキササイズも始めた。マットが、やせこけてみっともないボディをシェイプするために始めさせたんだ。1日に2回、俺はジムで苦行を課した。でもそれは、当然の報いのような気がした。

このエクササイズで肉体的に効果があったかどうかはさておき、少なくとも精神的にポジティブに考えられるようになった。不自然に早い新陳代謝のせいで、急に太ったりムキムキになったことはないけど、毎日体を動かすことは体重キープに実際効果的なんだ。ロックンロールのビジネスにおいて細身であるということは重要なこと。大晦日までに俺は見た目も感覚も人間らしさを取り戻し始めていた。新年を祝う祝典が行われる中、華やかなマニラの夕焼けに向かって放たれた銃声を聞きながら、俺は母親や友達とワインを飲んでくつろいでいた。生涯最も愛した女性であり俺の子供の母親でもあるアンジーと俺との間の沈黙を、空いっぱいに広がる花火の音がかき消していった。

これ以上の不幸なんて考えられなかった。

俺たちの気まずい雰囲気が頂点に達する頃、イギリスへ帰国した。アンジーと子供たちをロンドンのアパートで降ろし、物置にしまってあった俺の私物が詰まった箱を引き取ってニューカッスルへ向かった。そして、実家に荷物を置いてLA行きの最初の飛行機に乗った。

ロンドンは俺にとって悪い思い出が多過ぎるうえ、若くてかわいい男の子たちにしか目を向けないどうしようもないUK音楽シーンで俺の出る幕なんかなかった。40歳という年齢は、イギリス音楽業界では完全に雇用対象外らしいし、俺はかわい子ちゃんタイプでもない。経験と才能がかえって邪魔になり、俺はUKロックシーンから弾かれてしまったんだ。でも、頼れる父として食費を稼がなきゃいけないことに変わりはないからアメリカでの仕事を探していたら、俺のヒーローの一人であるモトリー・クルーのニッキー・シックスが立ち上げたブライズ・オブ・ディストラクションというバンドでのポジションに辿り着いた。友人スコット・ソーリー(元エイメン)が、モトリー再結成のためにブライズを脱退したニッキーの代わりに加入していて、ブライズにいるのがどんなにハッピーかってことを話して聞かせてくれた。友情も仕事も、両方必要な時だったから、ブライズのギタリスト、トレイシー・ガンズ(元LAガンズ)に、試しに俺がバンドに入ったらどんな感じになるか様子を見てみないか、と自らを売り込んだ。

マリブの海岸沿いにあるトレイシー宅でブライズの次のアルバム用に曲作りをしてみると、止まらないほどの勢いだった。創造的で、雰囲気もよかった。バンドはすごくのってたし、みんないい感じで和んでた。ヴェニスビーチ近くのリハーサルルームから、新しい曲が次々に生まれていったよ。今年頭にワイルドハーツをやめて以来、意欲的になれたのは初めてだった。難しい選択だったけど、価値はあったってわけだ。

ワイルドハーツの商業的成功の欠如に対して不満が募り、バンドについて俺自身でけじめをつける時が来ていた。ギャラ不足に対する不平不満は常に言うくせに、誰も俺のアシストをしてくれないという状況にほとほと疲れ切っていた。まるで俺個人がバンドになっているような状態だった。バンド周りの雑用や、曲作り(最終的にプロデュースも俺)、ウェブサイト用の執筆、ファンメールの返事、バンドの将来についての弁護士やレーベルとの話し合いをして、アートワークやビデオに時間と金を費やし、ラジオ・テレビ・インターネットなんかのインタビューも一人でこなさなきゃならなかった。なのに俺は、過去にこのバンドに起こった数々の醜い出来事の責任までかぶせられるようになっていたんだ。ワイルドハーツは、バンドでなく俺そのものになっていた。俺はそんな状況がいやだった。

ギタープレイヤーが結婚後日本に住むことを決めたため、グループショットを撮ろうにも現実的に不可能になり、俺の顔写真ばかりが使われることにうんざりしていた。ベースプレイヤーはその極端な生活スタイルでバンドの前進を止め結局バンドを去り、手を貸してくれるといつも言っていたドラマーは、一度も約束通りに動いてはくれなかった。こういった要素がすべて合わさって、ワイルドハーツに抱いていた俺の情熱が消えてしまったんだ。実際、バンドの名前を聞くたけで吐き気さえ起こった。もしメンバー全員が、ドラッグを調達するのと同じくらいの積極性を持ってグループの運営に打ち込んでくれてたら、ワイルドハーツは誰にも止められないような強力なバンドになっていたかもしれない。

ドラッグ問題は、ワイルドハーツと言う生命体の血管に常に流れていた。15年のキャリアの中で、バンドの周りにいた人は必ず何かしらのドラッグを服用していた。その辺の工場勤務の人と変わらない程度しか服用していないのに、プレスは大げさに取り上げ、バンドに享楽主義の代表的存在のレッテルを貼った。唯一のスポークスマンだった俺は十年以上にもわたりバンドとクルー全員の罪をかぶってきたんだ。

実を言うと、俺は過去ヘロインで問題を抱えたことはなかった。服用後は吐くか眠ってしまうかで、どちらも俺が好む作用ではなかったから。俺はコケインが好きだった。陽気でおしゃべりにしてくれるコケインは、俺の周りじゃ十代のころから一番人気のドラッグだった。

ミュージシャン(そうでない奴も同様に)がロンドンのパブのトイレにこもっているのをよく目撃するだろう。トイレの貯水タンクに、コケインを並べる以外の用途があることを俺は最近まで知らなかったくらいだ。

俺はもう、財政的に人並み以上のドラッグを買う余裕が無くなってしまった。今まで俺がドラッグに金をかけてたのは、ハイになりたかったからだ。コケイン、もしくはマリファナはどこでも一番人気のドラッグだ。でも俺は、食欲を誘うポットが嫌いだった。コークは逆に食欲を抑制する。ハイになって意味不明のことを喋り続けてる人たちの集まりの中で、自分が一番知的で人気者になれることの方が、口の中に食べ物を一杯にして目が覚めるよりよっぽどいいだろう。

ヤクでボロボロのロックスターがかっこいいと言われた時代からかなり遅れて、俺はヘロインに手を出してしまった。ヘロインの虜になった時の俺は39歳だった。

ツアーをしているとドラッグはアルコールのようになる。ワイルドハーツは、今飲んでるドリンクが最後にならないといいと思いながら飲むような酒豪バンドだ。ジャックダニエルズのボトルはすぐ空になる。二日酔いを冷ます為と言い訳し更に飲む。そうやってアルコールを乱用するせいで、ケンカや口論が日常になった。俺は暴力は嫌いだけど、恐れることはなかった。結果、俺は精神異常者だと思われてしまっていた。まぁ、あながち間違ってはいないんだけど。

容赦なく暴力を振るう男と母親が再婚したせいで、俺の幼少時代は散々だった。虐待された妻のための避難施設の中で、唯一の安全な場所から連れ戻そうと外から脅しをかけてくる酔っ払いの男たちに怯えながら多くの時間を過ごした。男には、妻に暴力を振るう酔っ払いと警察官の2種類しかないと信じて育った。最近まで俺は、男ってやつが大嫌いだった。

うちから漏れる泣き叫ぶ声を聞いた隣人がすぐ通報するもんだから、警察のサイレンが聞えないことはないくらいだった。俺の母親は暴力亭主に何度となく家から放り出され、いつも血だらけで泣いていた。その卑怯者は家の中に入る二人の小さい子供たちにも罵倒を浴びせた。家で脅えずにいた日なんて思い出せないけど、おもちゃはもちろん、満足のいく食事や服を買うお金がなかったクリスマスのことははっきり覚えているよ。

一度、学校で開催されたディスコから追い出されたことがあった。期限切れのクレジットカードでその日に買った服を着てたんだけど、俺にしてみりゃまずまずどころかこぎれいな服装だったのに。

不幸な幼少時代でした、ってだけじゃ控え目すぎるよ。でもそんな不幸時代も、母親が義父を刺して起こった大惨事で終わりをむかえた。母親が、何年にもわたり彼女を虐待し続けてきたチンピラの大きな腹にキッチンナイフを刺したことを、俺は今でも覚えている。

それはエルビス・プレスリーが亡くなった夜のことだった。

姉と俺は、ラジオから流れてくるそのニュースをベッドの中で泣きながら聞いていた。通りから聞こえてくる無線機の音をかき消すために、ボリュームを最大にしてラジオを聞いていると、突然、義父がドアから倒れ込んできた。腹からナイフの刃を突き出し、あらゆる方向へ血を噴き出しながら、壁に寄り掛かっていた。それは彼がシェフの仕事で使っているナイフ棚の中でも一番大きなナイフだった。柄の部分に至るまで突き刺さっていた。彼のはらわたには10インチの鋼が入っていたに違いない。それでもそのクソ野郎を殺すには至らなかった。エルビスが死んだ夜に俺の母親は留置所へ連れて行かれ、姉と俺はベッドルームに溢れる血の海や、道路に響き渡る警察と救急車のサイレンに脅えていた。でも、酔っ払い特有の口臭も、ひどい苦痛を与え続けた拳も消えてなくなった。そしてついに姉と俺に笑える時が訪れたんだ。

子供が耐え抜くべきレベルを超えた暴力を経験したことで免疫ができたらしく、ちょっとした暴力には驚かなくなっていた。俺が紳士的な振舞いだと考えていたこともアンジーは攻撃的に感じ、ロックバンドとして典型的な振舞いだと考えたことが怒りを誘い、不安を助長してしまった。普通の人間なら恐がるであろうことに安堵を覚えていた俺は、周りの人を常に確実に遠ざけてしまっていた。

妻になるはずだったアンジーは俺の元から去り、バンドはまるで病原菌扱いの反社会的落ちこぼれ集団と化した。すべての責任は、一人の子供の育て方を間違い、成長期を台無しにしてしまったアル中の暴力男にある。

俺は暴力は大嫌いだが、女性に対して暴力を振るう奴は喜んで殺せる。矛盾してるだろ?

LA行きの飛行機で、いかにも飛行機初体験って感じの、ガタイのいい二人のジョーディの隣に座らされた。彼らは機内の何を見ても興奮していて、無料で配られるナッツにも大騒ぎ、大笑いで、会話に俺を混ぜようと頑張っていた。15年間愛したバンド、5年間愛した女性、4年と2年それぞれ愛した子供たち、そして数ヶ月間愛したドラッグとサヨナラした俺には、何の愛も残っていなかった。陽気な東北人をうっとうしく感じて、足を伸ばせる広い席に移動できないかと乗務員に聞いてみた。足を伸ばしたいってのはまんざら嘘じゃない。俺の足は乗客の平均よりずっと長いんだから。

俺が連れて行かれたのは非常ドアの横の席。緊急時には乗務員の手伝いをしなければならないから、大概空いている席だ。隣に座っていたのはヘニーというかわいいフィリピン女性。彼女は始め、会話をすることを拒んでいたけど、俺が赤ワインを彼女のベージュのズボンにこぼしてしまった時に沈黙は破られた。ほとんどのフィリピン女性は困難な状況でも驚くくらい柔軟に対処でき(俺は過去に、5人も子供がいるのに21歳にしか見えない大好きなフィリピン女性の足元に吐いてしまったことがある)、応対も冷静だった。俺はフィリピン女性が大好きだ。彼女たちに嫌な思いをしたことはないし、信じられないくらい愛情豊かだ。今まで会ったフィリピン人の中で一番フィリピン人らしくない女性と俺は二人の子供をもうけ、今は‘寛容’の代名詞のような女性の隣に座っている。おかしな偶然だよね?でもこの奇妙な偶然はここで終わらない。

前にLAに住もうとした時は馴染むことができず、すぐ出てしまったけど、今回はそうはならない気がしていた。ブライズ・オブ・ディストラクションの正式メンバーになった気でいたから、俺は住むところを探し始め、先住民の特別保留地に建てられた、きちんと電気も通っててプールまである牧場を見つけた。それはチャールズ・マンソンの映画でしか見たことのないようなところだった。実際、シャロン・テート殺人事件の前にマンソンの家族が住んでいたそうだ。アクセル・ローズも道の向こうに住んでいた。フレッド牧師とその家族が住み始めた50年代後期はカントリースタジオだったその場所は、俺たちがリハーサルとレコーディングをするのに完璧だった。

この寛大な牧師の信頼と尊敬を受けて、敷地内の大きなハンティング・ロッジにバンドの機材を持ち込むことになった。トレイシーがその時借りてたリハーサル・スタジオのオーナーと大ゲンカしたらしく、場所を変えると伝えた時の悪徳オーナーの反応はひどいもんだった。俺は何があってもいつだって前を向いて進んできたし、変わらなきゃいけないこともあるんだってことは誰もがわかっていると思ってた。でも、そのオーナーはトレイシーを罵ったばかりでなく、バンド機材をすべて通りに放り出したんだから驚いた。

時間も遅かったし、俺は疲れてて時差ぼけもあって、雨も降り出しそうだった。俺はフレッド牧師に電話し(いつもフレッドにかけるときは冗談でフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズを意識して、“ヘイ、フレッド、ジンジャーだよ”という会話から始まるんだ)、家賃の支払い方法が見つかるまで機材を牧場に置かせてもらう許可をもらった。家賃はトレイシーと俺で折半することになった。寝泊りするスペース分は俺、ロッジ分はバンド持ち、というふうにね。

事態が悪い方向へ進むのに長くはかからなかった。バンドのシンガーであり、ヘアードレッサーのロンドンが、一晩泊まりに来た。ロンドンとフィリピン人の彼女(ったく、今回のテーマはこれじゃないっての)が、俺のベッドで寝ることになった。やぶから棒に、ロンドンは彼の人生におけるプレッシャーやら、その苦しみを理解して助けてくれる人がいないことやらについて、とにかく文句を言い出した。俺の彼女と子供たちは何千マイルも離れたところにいるのに、彼の彼女は2階の俺のベッドで彼を待っている。と考えたらこのつまらない愚痴を大人しく聞いていられなくなった。俺はロンドンにすぐに出て行くように言った。でなきゃ俺がこの手で追い出してやる、と。

家族が恋しくてたまらない時に、自分の人生に嘆いてグチグチ言ってるミュージシャンに付き合う気分にはなれなかった。メンバーの子供染みた責任逃れが原因でバンドを去り、新しいグループとリハーサルする場所まで見つけたた大事な時に、シンガーの泣き言なんか聞いてられるかってんだ。殺人でも犯しかねないほど怒っていた俺は、ロンドンのバッグを部屋の外にぶん投げた。でもドアのフレームに引っかかったバッグは跳ね返ってきて、ギターをプレイする者に取って重要な手の指を怪我してしまった。ショウの直前に怪我した指と、泣き言ばかりのシンガーと、とてつもないホームシックのせいで、俺は不本意ながら、今までの人生で一番不愉快で落ち着かないライブをプレイした。そして、再び飲みまくった。

ライブ後ヴィニー・ポール(ヴィニーは最近、不運にもライブ中に狂った海兵によって殺されたダイムバッグ・ダレルの兄で、素晴らしい男だ)のストリップ・バーへ行ったけど、誰かに大きな被害を与えてもおかしくないほど俺はひどく酔ってしまっていた。俺の人生は最悪だった。
愛するもの全てが奪われ、去ったばかりのバンドと同じ道を辿りそうなバンドにいて、自分自身のコントロールさえも効かない。いいことなんかまるでなかった。

俺はバンドを脱退したいと申し出た。

終わりの見えているものを始めようと思ったことはない。ワイルドハーツのアルバム制作が途中でキャンセルになったのも、ブライズのメンバーを辞めたのも、愛と誠意をもってアンジーに罪を告白したのも、ことを終わらせようと思ってしたんじゃない。

俺を苦しめていた鬱病が急に再発した。これ以上事態が悪化するなんてありえないって?いや、それはどうかな。次に俺の人生に訪れるのは、すべてに終わりを告げるとどめの一撃か、そうでなければ、新しいことを始めるためのきっかけしか思いつかない。

俺は住んでいた牧場から追い出された。

家から出て行って欲しいとトレイシーに言われた。俺が残るか出て行くかで家賃が変わるらしく、フレッド牧師を待たせてるらしい。俺がバンドにとって悪い影響だと言われれば反論はできないけど、あの行動のせいで家まで追い出されてしまうのはちょっと納得がいかない。過去の出来事が一気に甦ってきて激しい怒りとなって、俺はもういつ爆発してもおかしくない状態だった。俺はトレイシーを殺してやりたかった。かなり本気で。俺がだんだん正気を失っていくのは、誰が見ても明らかだった。

ソロアルバムの資金を出してくれるレコード会社を探すためメールをあちこちに送っていたあたりで、俺の人生に大きな転機がおとずれた。ホームレスで仕事もなく、孤独でいつも酔っ払い、指の怪我は治らず、生きてる意味なんてなかった。これより下はないってくらいどん底だった。

二つの別れ道で一つは先がないという、まさに人生の分岐点に来ていた。生か死を選ぶかしかなく、三つ目の選択肢はなかった。そんな笑っちゃうくらいひどい状況のときに、驚くほど大きな出来事が起ころうとしていた。

LAへ向かう飛行機の中で飲み物をこぼしてしまったヘニーから、突然連絡がきた。俺のマネージャーとなり、彼女の社会的能力と、重要人物相手の金融業界での知識と経験を俺のために使ってくれと言う。

ヘニーが俺に連絡をくれたのと同じ日に、ワイルドハーツの最高傑作であり、賛否両論を生んだ「エンドレス・ネームレス」のプロデューサーのラルフ・ジェザードから、俺のニューアルバムのプロデュースの申し出に対するオーケーの返事がきた。彼はすぐにレコーディングができるよう準備をしてくれた。息子のジョージとシェアしている彼の家には空き部屋があった。彼らが住んでいるのはテキサス。カントリー界のベテランで、俺の人生に大きな影響を与えたヒーロー、ウィリー・ネルソンの生まれ故郷だ。

皮肉にも、ワイルドハーツがニューアルバムを作ろうとしていたスタジオもテキサスのウィリー・ネルソンのスタジオだった。俺は、バンドを去る前にこの偉大な男に会わなかったことを後悔した。

ウィリーネルソンのスタジオから、急遽予約のキャンセルが出たからスタジオに入って欲しいとラルフに連絡が入った。俺もすぐにLAからテキサスへ移動することになった。

イギリス人の友達との共同生活、偉大なるウィリー・ネルソンと出会える幸運、そして、俺の波乱の1年を綴った曲たちをレコーディングする機会を手に入れたわけだ。

ラルフと一緒に作業を行うためにテキサスへ飛ぶことになった俺を、牧師のフレッドが空港まで車で送ってくれた。アルバムを完成させるのに必要なミュージシャンが見つかると、曲そのものが向かうべき方向へと自然に進んでいった。俺の曲は正直で、そしてメロディーに溢れてる。正直すぎるくらいに赤裸々な曲の数々に、自分自身が魅了されたくらいだ。曲はどれも俺のこの最悪の1年について書かれていて、今までのどのアルバムのものとも異なる。恋愛、別れ、苦悩や絶望などが、そのテーマとは対照的に輝きを放っている。

カントリー、ゴスペル、ロックンロール、ブギー、リフ満載の曲やポップ/パンク/メタルの曲等、ありとあらゆるジャンルを網羅している内容だ。間違いなく俺の最もパーソナルなコレクションで、今までの最高傑作だと確信している。これらの曲には自信を持っているし、君たちに聴いてもらうのが待ちきれないね。

俺は今、サンアントニオにあるラルフの家でこれを書いている。明日から、Valor Del Corazon(心の強さ)というタイトルになる予定のアルバムのレコーディングに取り掛かる。参加ミュージシャンは有能な人ばかりだし、曲も素晴らしい。それにラルフは天才的な技術をもっていて人間としてもいいやつだ。散々掻き回されて粉々になっていた俺の人生が、再び形になり始めていた。

世界中を旅して周り、ようやく居場所を見つけた。ありとあらゆる感情と、人間が耐え得る限界を経験し、それらの経験を曲に注ぎ込んだ。過去に出会った人々の殆どは、自分の持つ才能ほど信用できない。俺のこの恵まれた才能はいつだって、どんな嵐にあっても安全な場所へと俺を導いてくれるんだ。

俺を見捨てずにいてくれた人は皆、世界中の人に会わせたいくらいの天使のような人たちだ。俺を奮起させ、見守ってくれる。どんなに辛いときでも、生き続けていく理由を教えてくれる。俺の元から去った人たちを裁くのは俺の仕事じゃない。神が裁けばいいんだ。俺はこの怒りを、クリエイティブな力に変えるつもりだ。俺には、変わらず愛してくれる二人の子供がいる。俺のハートは彼らを思うだけでいっぱいだ。俺の幼少期のようにはさせないさ。

結局のところ、その人の信念もしくは宗教的信仰は親と幼少期に深く関係しているんだ。俺は散々痛い目にあってきたが、俺の人生を壊そうと必死の悪魔に魂を委ねたことはない。

愛する人を傷つけられでもしない限り、俺は暴力は振るわない。何があっても子供たちを見捨てることはしないし、非難や干渉もしない。そして、これからは臆することなく、広い心を持って未来に向き合うつもりだ。

毎日何が待ち受けているかわからないけど、何があっても勇気を持って立ち向かわなければならない。それが人生だ。

中国の諺でこういう言葉がある。“栄光は失敗しないことにあるのではなく、失敗する度に生まれるものである”

失敗を受け入れて、どんな過去も誇りに。

Love