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1965 Osaka International Festibal Guitar recital Program より 「小自伝」 私は1933年ロンドンでまれた。父は商業美術と本のさし絵書きをしていた。 若い頃から、父は聞き覚えでバンジョーとピアノを弾いていた。 かれは大変音楽に感じやすい性質だったようで、私の家にはグランドピアノがおいてあり、父か父の友人がいつもそれをひいていた。 戦争が起きると私はイングランドの北西のある農場に疎開した。 私たちがそこで聞くことのできたただ一つの音楽は農夫のおかみさんがひく足踏みオルガンとそのまわりで歌う讃美歌だけだった。 しかしその時でさえ私は音楽にとりつかれていた。 時々両親が訪ねてくれたが、ある時父は私たちの日曜の讃美歌の集いに参加するためにギターを持ち出してきた。 私はたちまちこの楽器の音のとりこになってしまた。 1942年に家に帰ったとき、今度は家にあった立派なピアノの音に魅せられた。 察しのよい父は、次の年には地方の先生について習えるようにはからってくれた。 よく練習をするように私をはげますのは、父にとってはかなりの苦労だったらしいが、私はピアノがひけることにおおよろこびで、とくにバッハを一生懸命練習した。 この頃父はロンドンの郊外で小さなダンスバンドを作っていた。 家のまわりに楽器があるので,私のギターに対する情熱び燃えはじめた。 父が仕事に出かけて留守の時、私は楽器をケースから取り出して、ラジオから聞こえてくる音楽に合わせて開放弦でひいてみた。 こんなところを父に見つかったらどうたるかと心配で、気持ちが落ち着かなかった。 ある日、とうとう父に見つかったが、思いのほか私を叱らずに、私にギターを教えてヤるといってくれた。 私はたちまち基本的な技術をマスターした。 父がジャズギターをひいていたので、私か手ほどきを受けたのはジャズ用の楽器だった。 ギターをひくかたわら、ピアノの勉強も続けていた。 クラシックがますます私の興味をそそり、父もそれに同調しはじめた。 1944年私の11回目の誕生日に父は、古いスバニッシュギターをもって帰って。 この頃には父はダンスバンドやジャズに興味を失い、かわりにクラシックなスパニッシュギターに強くひかれていた。 私たちは2人でこれを研究しはじめた。 1945年に父は私をギター愛好協会の会合に連れていってくれた。 そこでは会員の多くが演奏したが、私の演奏は熱狂的喝采を受けた。 会良のポリス・ペロー博士は私に手ほどきしてやると約束してくれた。 ペロー博士は白系ロシヤ人で、ロシヤの最後の皇帝に仕えたギター奏者だった。 かれは大へん熱心に教えてくれたが、その奏法は19世紀初頭のイタりア派のもので、タレガ、ロベト、セゴビアなどのスペイン派の奏法とは大分ちがっていた。 |