「鼻行類」という新種の哺乳類が発見された。
鼻で歩行するという、とても珍しい動物だ。詳細は 『鼻行類 新しく発見された哺乳類の構造と生活』という本で紹介されているので、 興味のある方は読まれるといいだろう。
この本は翻訳書で、日本では三度違う出版社から出版されている。
初めは「思索社」で1987年。次は、「博品社」で1995年。三度目は、 「平凡社」で1999年だ。
ここまで真面目に読まれた方、すいません。
『鼻行類』は、大真面目に嘘をついている本だそうです。それも、昔 アメリカのラジオ放送でやった「火星人襲来」ぐらいの迫真の出来だそうです。
この本が日本で刊行されてまもなくだったと思う。本のデータ作成に関する ニューズレターで、これがまったくのフィクションであると説明された。
だから、哺乳類を意味する分類「489」を付けずに、フィクションの分類と すべきだろうとアドバイスがあった。
が、やはり騙された方はいた。あちこち蔵書検索で試してみたら、 1987年の刊行のデータは、分類が「489」派と「944」派に、分かれていた。 (「944」とは、ドイツ文学(エッセイ)という意味だ) 1995年のものでは、「489」(哺乳類)はめっきり影をひそめ、「944」 や「480.4」(動物学のエッセイ)としているところが増える。
そして、1999年では「480.4」がさらに多くなっている。
まあ確かに、ドイツ文学の場所に置いたら、読まれることは少ない気がする。
こんな時、昔の上司の話を思い出す。細部まではよく覚えていないが、確か 「分類はひとつじゃないんだ。極端にいえば、どんな分類にしたって間違いだとも 正しいともいえない。利用者のためになる分類を選ぶことが重要だ」というような 話だったと思う。
その時は、なんとなく聞いていただけで、真意を咀嚼できなかった。
あれから経験をつんでようやく、その意味を実感できるようになった。
以前なら、この本の分類を迷いもなく「944」にした。だが、もし今、分類するとしたら 少し考えたあとに「480.4」にすると思う。
とある経済学の教授が急逝した。遺族は残された蔵書を、所属した大学に 寄贈したいと申し出た。大学側も了承し、新に教授の名前を冠した文庫を つくろうと計画した。が、蔵書は膨大で、とても大学の図書館職員が通常 業務の合間に処理できるものではない。結局、ほとんどの作業を外注に出す ことにした。
この作業に関わったのが、わたしの友人、早蕨さんだ。蔵書はダンボール箱に 詰められて、外注先である事務所に運びこまれた。早蕨さんは黙々と本を チェックしながら、1冊ずつの情報を1枚ずつカードに書きこんでいった。
その手がはたと止まった。どう考えても、異質な本が出てきたのだ。もしやと 思い、まだ手をつけていない本の山を調べてみると、異質な本は、都合3冊 存在した。その3冊は、医学を意味する分類がつけられるたぐいのもので、 「やまいだれ」に、「寺」と書く病気の治療本だった。
それもカッパブックス。(^^;)
経済学者とはいっても、蔵書の中には、その他、人文科学や社会学の本も 混じっている。だがこれは、故人のごくごく私的な本なのではないだろうか?
「本を隠すなら、本の中」とでも、故人は考えて、研究書の中に紛れさせて いたのだろうか? それとも、なにげなく置いたのか?
どちらにしろ、主のいなくなった書斎で箱詰め作業は機械的に行われ、内容が 確認されぬまま、早蕨さんのところまで辿りついたのだろう。紛れこんで来た のが、お金や個人宛ての手紙だったら(どちらも実際にあった)、依頼先である 図書館を通じて返却することも考えるが、相手は本である。しかも早蕨さんは、 下請けだ。「この本は、この文庫に相応しくないのでは?」などと、いちいち、 口を挟む権限はない。また、こういった文庫は、研究者の研究をする者にとって、 情報の宝庫となり、専門以外の本も研究者の蔵書であれば、その研究者が、 どういった本を読み、どう思索して、論理の展開に活かしていったかを推測 できるため、専門以外の本が寄贈書に含まれていても、一緒に整理するのが ならいとなっている。
結局、通常どおりの作業を行ない、3冊の本を、他の経済学関連の本とともに、 再び箱詰めして大学に返送した。さて、その後どうなったか、早蕨さんは知らない。
大学側からクレームもこなかったそうだ。となると、あの3冊の本は、他の経済学 専門書とともに棚にならんでしまったのだろうか? それも、個人名のついた 文庫の棚に?
だとしたら、いまごろ、本の持ち主だった教授はあの世で青くなっているのでは あるまいか?
で、教訓である。本を多量に持っている方は、自分に何かあった時のことを考えて おいた方がいい。古本屋にひきとってもらうなら、そう問題はない。が、寄贈となると、 たとえ、この教授のように文庫が新設されないまでも、本の中に「○○○○氏・寄贈」と 記載されることも考えられるからだ。寄贈されたくない本は、常日頃から、他の本とは 別に、こっそりと隠しておくことを、お勧めする。
いわゆる紳士録ともいうべきものなんだろう。歴史上の人物を調べたりする人名辞典とは異なり、 いま、生きている著名人の情報が記載されている。誰を、著名人として収録するかは、この本の 編集部の意向らしい。大学教授や、会社社長、テレビに出ている有名人など、さまざまな人物が 載っている。実は、昨年、某野球監督夫人が世間を騒がしていた時、つい興味がつのって引いて みた。1987年発行と1994年発行のもの、両方ともに、最終学歴は、例のアメリカの大学の あの学部だった。だが、それが、1998年発行になると、なぜか消えてしまっていた。(^^;)
また、1994年発行のものには、なぜ、アメリカに渡ることになったかの、ある種、特別な理由 まで記載されていて、前後の人物の項目のお堅い文章から浮いていた。
こんな理由、よく載せたなあ、と感心する反面、きっとワイドショーや写真週刊誌は、この本を 知らないんだろうなあ、とひとりしみじみとした。知っていたら、ほっておかないと思うネタです。
興味のある人は『現代日本人名録 94』をご覧ください。(^^;)
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もう、十年近く前のことだが、この辞書の初版を探しまわっていた時期がある。この辞書は 一種独特な語句説明をし、しかも初版は現在のものより、はるかに凄いらしい、という話が あったからだ。
初版はなんとか手に入れることができた。そして、それは当時の職場の人気者となった。
国語辞典というより、読み物として、みな楽しんでいた。たとえば、「水」「女」「男」 「脳」「宿舎」という、あまり国語辞書の出番のないものの説明文に、ヒットが多い。他の 辞書なら、無味乾燥的な化学式の説明ばかりの「水」が、『新明解国語辞典』だと、ちょっと 詩的になったりした。とにかく、細かく説明したがる。
文章に、「一言いわずばなるまい」、みたいな感情が見え隠れする。他の辞書にはない、 なんとも妙な味わいのある辞書だった。同好の士は多かったらしく、『新明解国語辞典』を ネタにした本も発行された。以下の2冊である。
赤瀬川原平『新解さんの謎』文芸春秋(1996)
鈴木マキコ『新解さんの読み方』リトル・モア(1998)
その後、読む辞書として愛用していた『新明解国語辞典』の力を、私は再認識することになった。
職場を移り、留学生が多く利用する図書館で働きはじめたのだが、ある程度の日本語ができる 留学生たちが、名指しで『新明解国語辞典』を探しに図書館にやってくることがわかったのだ。
曰く、「説明文がとてもわかりやすい」「ものの数え方が語句ごとに載っている」。
それは、わたしも知っていたことだが(わたしは、「悪魔」の数え方をこの辞書で知った)、 さらに、もうひとつ理由があった。「アクセントがわかる」というのだ。それは気づいて いなかった。愛用しているというのに、恥ずかしかった。(というより、愛用の仕方が まずかったのだろうが)
留学生は、「だって、日本人には必要ないでしょうから」と慰めてくれたけど・・・。