| 一方、これまで、なぜ逃げてきたか・・・というのもあります。どうしてかと。実は心理士の資格問題というのは、僕が大学生の頃にいろいろ議論されて誕生してきたものでした。「臨床心理士」がまさにそうなのです。そもそも「資格」という言葉には2つの側面があると言えます。世の中で一般に取り上げられている「資格」と言えば、何かを行うにあたって最低限必要な勉強をしたり訓練を受けたという保証を示すものを言います。「働きたいから何か資格を取りたい」などという場合は、そういう意味のことを指します。国家資格も、「必要最低限の教育を受けたことを国が保証します」というものに他なりません。医者でも看護士でも、そういうものなのです。しかし、一方で「資格」を持つと「心理士として保証された、認められた」というふうにもとられます。資格を持っているというだけで、すごく立派な人のような気持になってしまうのが人間です。それは見る側も、見られる側もそうです。もちろん、必要な教育、訓練を受けたということは立派なことですし、無責任な人が仕事をしているのは困りますから「保証された」ということもまんざら嘘ではありません。しかし、「その資格のある人」などという場合は、その分野でも実力のある人、優れた人のことを言います。 僕たちが学生の頃、資格問題をどう作るかという議論のあった頃はこうしたことをいろいろ考えました。僕にとって「心理士になる」ということは単に職業に就くということを越えて、より自分の何かを高めていく目標のような存在に近づくことでした。たぶん、多くの方の理想もそうでした。まさに後者のイメージの方が強いのです。病院に勤めて肩書き上は心理士となりました。しかし「資格がある」といわれるほどではない。ずっとそういう思いがあったのです。「資格がある」。それは僕にとってマスターあるいはマイスターと表現する方がふさわしいもののように感じるのです。武士道でいえば、免許皆伝という意味です。それはスタートラインに立つよりももっと高みにある何かでした。たぶん、僕たちの世代は仕事についた時点で自動的にスタートラインには立たせてもらっていたので、そう思うのかもしれません。あとは毎日が取り組みの積み重ねで、やれどもやれども、たいして前進していないと思うことばかりです。この仕事をして一番わかったのは「人間はわからない」ということです。とてもとてもわかるようなもんじゃないということでした。だから、僕にはまだ「資格はない」と思うのです。免許皆伝にはまだまだほど遠い。 しかし、最近、資格を取ることを目標にがんばっている学生さんや若い心理士の方を見るにつけ、これはやはり仕事につくための資格として認識しているんだなということが、僕にもわかってきました。先にあげたようにスタートラインとしての資格の意味を正しく理解しているのです。僕らの世代のような幻想はありません。それだけ心理士というものが「一般的な社会の仕事」になってきたのだとも思います。かつて学校の教師や医者が、身も心も「先生」になろうとした時代から、職業としての「教師」「医者」になってきたのと同じ様に、臨床心理士もそうなってきたのです。そうであれば、僕もスタートラインとしての資格を、公に保証しなければなりません。 先の医療心理士の国家資格化という問題では医療現場で働いている心理士の数を4〜5千人と上げていましたが、臨床心理士はここ数年は年間2千人ほど合格しています。そして、心理士になりたいと思っていただける若い方たちも年々増えていると感じます。しかし、そうした一方で資格を持つということの怖さを忘れて欲しくないと、僕は思うのです。僕はこれまでそうした資格試験を受けない代わりに、自分の学んできたことや考え、物の見方を公にすることにしてきました。それが「ガタゴト」というホームページが生まれた理由です。「臨床心理士」という資格を持つことで資質が保証されたと思いたくもないし、思えなかったというのが、これまで資格を求めなかった僕なりの理由です。 4月から僕の肩書きには「臨床心理士」というものがつきます。しかし、それはこころの問題を扱うスタートラインに立つということを保証しているだけです。今までも、これからも、そうした肩書きにかかわらず、ガタゴトの姿がどうであるかが、僕の姿を現していることに代わりはありません。僕にどれほどの「資格」があるのかは、肩書きが決めるのではなく、姿が決めるのだと、僕は今もそう思うのです。そのことだけはここに宣言しておきたいと思います。 |
![]() |
| (2005/3/19記) |