待合室009

 
駅長エッセイ 車窓

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駅長が出会った人たち、抱く疑問、ぶつかる壁・・・。
このホームページを作った一番の理由は、このページを作りたかったから。
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この物語に登場する人物・病院・企業などは全て実在の物とは関係ありません。
この物語は駅長のこれまでの経験や出会いを複合して作られたものです。

どうして、生きているんだろう

 彼にはそんな言葉がない。
もし、彼に自分の気持ちや心の中を表現して、
僕らに伝えられるだけの能力があったなら、
きっとそう言いたいんじゃないかと、僕は思っている。

 民生委員の方が彼を発見したのは偶然と言ってもよかった。
 民生委員とは各地域ごとに福祉的な援助が必要な人を把握してもらい、行政との接点の役割を担ってもらう地域のお世話係のような仕事である。ただ、この仕事は市長村から民間のごく普通のお宅に協力をお願いするという形で行われていて、いわゆる地域の名誉職的な意味合いがある。昔ほどに、ご近所のつきあいがなくなった現代では、その活動もそれぞれの民生委員自身の判断に任されている。民生委員としての活動に熱心でよく勉強されている方もいれば、肩書きだけの方もいる。
その日、もし民生委員の方が、彼の家に立ち寄ってみなければ、彼が僕たちと出会うことは永遠になかっただろう。

 彼が発見されたとき、彼は小さなもうボロボロといっていい古い平屋の奥の部屋で、ひとり小さくうずくまっていた。同居していた年老いた父親が、先日買い物先で転んで足にケガをしたために、急に入院することになり、彼が突然一人暮らしをすることになった。そんなことがあって初めて民生委員の方は、この家の様子を見に訪れたのだ。この小さな汚い家のことを地域の人たちはよく知っていた。まるで地図からその場所を切り取ったかのように、そこは社会から取り残された暗い空間だったからだ。父親も彼も知的な障害があり社会とうまくつきあえず、いつの頃か引きこもった生活に入っていた。近所では有名な汚い親子が住んでいる変わった家となった。父親と彼は生活保護費を糧に、そこでひっそりと生きていた。
 そして、彼は父親が入院すると、とうとうその場所から動かなくなった。

 内科で体力が回復するまで入院した後、彼は精神科に転院することになった。身体の病気は何も見つからなかったからだ。
会ってみると彼は、細い目でいつもニコニコしている気のいい青年だった。僕と会った頃にはすっかり体力も回復していた。背がひょろっと高いのに、周りの人に気を使うためか、背中はいつも猫背に曲がっていた。精神科にはじめて入院する人のほとんどはむっつりと嫌そうな顔をしている。何で自分が入院させられるのか不満だったり、これからどうなるかわからないという心配が顔に出る。彼にはそれがなかった。いつも、誰にでも、何をしてもニコニコしているのが彼だった。

 当たり前の話だが、精神科の病院では安静にしていなければいけないという人は少ない。うつがひどくて動く気力がなかったり、これまでの生活で身体的な疲労が強くて休まなければならない人以外は、ベッドで寝ている必要はない。多くの場合、入院の初期は休息をとることが多いが、しばらくすれば普通の規則正しい生活をしていくことの方が大事になる。入院したばっかりに、三食昼寝つきの生活が身に付いてしまっては本末転倒になるからだ。
 病院によって入院生活のありようは違うが、基本的には日中の時間は作業療法やレクリエーション療法などが行われる。スポーツやゲームをしたり、農耕や園芸、お茶や生け花、習字、絵画などをやるところが多い。最近はカラオケなんかも人気が高いし、ゆとりのあるところはパソコンやワープロなどの指導などをしてくれるところもある。院内の喫茶店や売店を患者さんが運営しているところもある。これらは全て治療である。目的は社会の中で生活できるようになること。自分のできる範囲を把握して、どれだけ働いて、どれだけ遊んで、どんな感情は出してよくて、どんな感情は我慢しなければいけないか。どんな人間関係には注意して、どんなストレスに自分が弱いかを考える。もう一度自分の生活を整理して、これまでのことから、これからのことを考えていく。言葉にすると難しいが、入院生活というのはこうしたことを含んでいる。生活すること、活動すること、体験することを通して、自分の暮らしにどう戻るかということが出てくるのである。残念ながら、薬はこれを教えてくれない。薬は身体的に作用して病気や症状を抑えることで、生活を営める基盤を作ってくれる大事なものであるが、生活そのものを作ってはくれない。内科や外科のような一般的な医療の役割は身体の健康を取り戻すことにあるが、精神科の医療は生活を取り戻すことも大切な役割である。身体の機能は人間ならばたいていは同じだが、生活や人生のあり方は千差万別なので、複雑で、難しい問題がゴロゴロしているのである。

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