待合室009

 
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 彼にとっての入院生活は新しい体験の連続となった。戸惑いも多かったが、どんなものでも楽しそうだった。一番のお気に入りはカラオケで、最新のヒット曲を一生懸命おぼえていた。二十数年間父親との二人だけの生活をして、外界との接点はテレビと買い物に行くスーパーだけだった。父親が退院してきても、彼の生活をもう少し広げておけないかと、僕たちは願った。彼は知的にはやや低くかったが、何もできなほどではない。社会に心を閉ざしていたのはこれまでの二人の暮らしであって、彼自身ではなかった。彼には別な生活を送る能力がある。それは入院生活が証明した。問題はチャンスと勇気だった。

 チャンスと勇気。それは彼だけでなく、全ての人に共通する課題なのだと思う。新しい世界に旅立つことは、これまでの暮らしを捨てることになる。そこで僕たちはいつも立ち止まってしまうことになるのだ。新しい世界が今よりよいとは限らない。彼と父親の生活は世の中のさまざまなしがらみから切り離された生活だ。理由はどうであれ、入院生活は彼に、テレビの中だけではなく自分の中にも可能性があることを示すことになった。遊ぶことも、働くこともできる。しかし、それは社会の責任を持つことも意味している。はたしてやれるだろうか。何が彼の幸せにつながるのか。選ぶのは彼自身だ。

 日本というのは不思議な国だ。経済的には豊かで、物も有り余っている。世界の最先端の技術力があり、食べ物だって買いあさるほどに輸入している。社会福祉の制度も世界のトップクラスにあり、その気になればどんな人でも「最低限度の生活」は保障されるのだ。日本の経済が不況にあえぎ、倒産が相次ぎ、自殺するものが増えても、中東の貧しい国にあるような絶対飢餓は日本にはない。それでも彼のように生きることをやめてしまうことで飢えて死ぬ人間がいる。生きることをやめてしまうことは、悲観や絶望に追いつめられて自殺することとは違う。「どうして、生きているんだろう」と、彼は僕たちに聞いたのだ。

 精神科の仕事はこのことを考えさせる。僕は先に治療の目的は「社会で生活できるようになること」と書いた。しかし、それは「どうして、生きているんだろう」という問いの答えにはならない。精神科に受診する人の中には仕事にも就けず、結婚もできず、両親と細々と暮らすのが毎日だという人は少なくない。その間も病気に振り回されて、暮らしの安定さえおぼつかない人もいる。世の中では当たり前と思われている暮らしを、遠くで見つめながら生きている人がいる。死にたいという人とたくさん出会う。生きていても意味がないという人ともたくさん会う。重い、重い、問いだ。

 父親が退院する頃、福祉の調査で叔父さんに当たる人が確認された。叔父さんはずっと以前に地元を離れていたが、土建の仕事をしており、彼の話を聞いて仕事を世話して暮らしも応援しようと言ってくれた。彼は父親と相談して、叔父さんの元に行くことになった。新しい生活のはじまりだった。
 彼はそれから行ったり来たりを繰り返している。淋しくなるともどり、呼ばれると出ていく。仕事はなかなかうまくならないが、言われたことにはまじめに取り組もうとする。おもしろいこともおぼえた。以前は父親から分けてもらう程度のタバコが、今は本数も増えて銘柄にもこだわるようになった。お酒もアルコール依存症になるほどに止めどもなく飲むようになった。かわいい女子高生に一目惚れして、毎朝同じ場所で待ったあげくに、どうしていいかわからず彼女に向かって大声でラブソングを歌って、警察に通報されて入院したこともあった。それでうまく行っているのかと言われとる、答えようがない。最近ようやく入院しなくなった。社会に少し慣れたのかもしれない。精神科の治療はドタバタしながら進むものだ。ただ、僕は、彼はもう餓死はしないんじゃないかと、なんとなく思っている。

(2001/9/1記)

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