| この6年間の僕もそうだった。世の中のいろんなことが見えている気がした。学校の先生を含めて周りの大人たちのずるさやごまかしが、すごく気にいらなかった。小・中・高とほとんど変わらない友達の顔ぶれと、自転車を走らせるだけであっという間に一周できてしまう小さな町が息苦しかった。もうこの町で新しいことなど何も起こらないのではないかと感じていた。中学の部活の話しも決められた枠の中にさらに押し込められるように僕は感じていた。もういろんなことがわかっているのに、自分にはやりたいものがなく、エネルギーをどこに吐き出せばよいのかわからなかった。大学はそういう僕にとって一つの突破口だった。とにかく何もかもを変えてしまいたいと思っていた。高3の僕はもう町からでないわけにはいかなかった。 大学に行けたことで僕の人生は、僕が思った以上に方向を変えたかもしれない。新しい出会いと、見たことも聞いたこともなかった世界がそこにはあった。自分が井の中のカワズであったことが、うれしかった。 長く個人的な話をダラダラ書いたが、実はこの思春期の嵐を抜けるきっかけとなったひとつの遊びを紹介しようと思う。大学に入った最初の頃に教わったものだ。これは僕にとってたまたまそういう意味があったというだけで、誰にでも同じ意味があるとは思わないけれど、道具もいらなければ時間もかからない簡単なものなので、あの頃の僕のように行き詰まっている人は試してみて欲しい。 やり方は、まず自分の目の高さと同じぐらいの位置に一つ目印となるようなものを見つける。すぐ目の前にあるものはダメで、少し離れたところにある壁のシミとか、人形の頭とか、小さく集中しやすいものの方がいいと思う。 次に片目を閉じて、もう片方の目で最初に見つけた目印をじっと見つめるようにする。利き手を肩の高さと同じくらいになるまでまっすぐ上げ、視線と目印の間にはいるように人差し指を立てる。これで準備は完了だ。 目を最初の目印から動かさないように注意しながら、指だけを視線の外側に向けて(右目でやっている人は右の方へ)少しずつズラしていこう。指を目で追ってはいけない。目はそのままで、指だけを動かして行く。すると、どうなるか。ある点に来たときに指先が見えなくなることに気がついただろうか。その向こうの景色はちゃんと見えているのに、突然、指先だけ見えなくなる場所がある。 これを盲点という。見えているはずなのに見えていない点。片目で見ただけではわからないが、自分の目に開いた小さな穴は確実にある。左右どちらの目にも、この盲点がある。 高校までの僕は自分の考えを信用していた。自分でだいたいのことは判断できると感じていた。しかし、現実はそんなに簡単ではなかったわけだ。何もかもが見えていると思っていた自分の目でさえも、ぽっかりと大きな穴があいていた。僕は本当に長くだまされていた。見えたことが真実ではない。見えたと思ったときから間違いは始まっている。人間というのは最初っからそういうふうにできているのだという。この方法を初めて習ったとき、それまでいつの間にか入っていた肩の力が抜けていくのを僕は感じた。不思議な気分だった。自分の目なんか大して当てにならず、結局、目の前にありながら自分には見えてないということが、世の中にはたくさんあるのかもしれない。 あなたはどう感じただろう。たいしておもしろくはなかったかもしれない。ぼくは正直ホッとした。全部わかっているはずなのに、思うように進まない毎日。そんなイライラがずっとあった。でも、その理由はこんなところにあったんだ。自分が正しいということの方が間違っていた。盲点の存在が、本当は全部わからないのが当たり前なんだと、僕に教えてくれる。お前の目はフシ穴だらけじゃないかと。そうだ、何もかも一人よがりだったのだということに気がついて、僕の思春期の嵐は去ったのかもしれない。 盲点を見つけることは、今では僕が苦しいときにやるおまじないの一つになっている。仕事のことでも生活のことでも、行き詰まってきたと感じるたびに、僕は自分の盲点を確認してみる。妙な話だけれど、自分には盲点があるんだからきっと見えないことがあるんだと思うと気持ちが楽になる。何もかも試したつもりになっているが、本当は何か大事なことを見落としているだけのことだ、自分にはどうにもないこともあるんだと盲点は教えてくれる。それに盲点は誰にだってある。自分だけが間違っているのではない。誰もがわかっていると思いこんでいて、本当はみんなわかっていないことだってあるんだ。だから、世の中はきっとチグハグするんだろう。そう思っていると、仕方ないからもう一度最初からやり直してみればいいんじゃないかと素直になれる。焦ることはない。どんなにがんばったって、人間の盲点が無くなることはないんだ。チグハグしていて当たり前なんだ。 僕はどうも単純な作りのせいなのか、思いこむのも開き直るのも早いようだ。中学や高校でもつまらない勉強より、こんなことを先に教えて欲しかったとも思うが、嵐の真っ只中では今のように感じられたかどうかはわからない。少しだけ大人になったということなんだろうか。大人になるということは自分に足りないものがあるということに気がつくことなんだろうか。僕には足りないものが、ただ多すぎるだけなのかもしれない。でも、こうして自分に足りないものがあるということが、今、僕の生きていく理由の一つになっていることだけは確かなようだ。 |
| (1999/7/23記) |