1番ホーム067



表紙へ 目次


ここで興味を持たれ、さらに深く知識を深めたいと思われた方は、
より専門のホームページか、専門書籍等をごらんになられることをお薦めします。
ライン1

訴える力と受け入れる力

 日本の社会にとって「訴える」とはなんなのか。「怒る」ということはなんなのか。事故や事件、災害にあったとき、私たちが思うのは「なぜ、自分なのか」「なぜ、自分の家族なのか」ということのようです。「どうしてこんなことが起こるのか」「それを防ぐ方法はなかったのか」。そして、この事件や事故を「風化させたくない」、被害者のことを「忘れて欲しくない」、「この犠牲を無駄にしたくない」と感じてくるようです。そうして最近は日本でも「被害者の権利」としていろいろなことが注目されるようになってきました。
 しかし、一方でこの社会はひとつの事件や事故をいつまでも覚えているものではありません。新聞のニュースは毎日入れ替わり、テレビは新しく起こるセンセーショナルな話題をいつも探しています。つい3日前の事件ですら、過去のものになる。それが現代の特徴でもあります。私たちの多くは、忘れた頃に裁判のニュースを聞き、あらため「ああ、あの事件はまだやっていたのか」などと思ってしまうのです。

 今でこそ、北朝鮮拉致被害者の会は大きな政治的、国民的な力を持ち、代表者の行動が多くの注目を集めています。しかし、ほんの数年前まで北朝鮮拉致被害者の会は社会の冷たい風の中で細々と活動を続けてきました。当時は、日本の社会全体が他国の工作員による「拉致被害」という事実を認めることができず、家族の会の活動は、他国を相手に物事を荒立てているだけのような印象すら持たれていました。国も、警察も、社会も、訴え続ける家族の方を、うとましい存在のごとく社会の隅に追いやってきた現実があります。今年は日航機が御巣鷹山に墜落して21年たつそうですが、今年の夏はこのニュースもあまり見かけませんでした。北朝鮮の拉致事件は、事件そのものが認定されなかったことが問題だと思うかもしれませんが、日航機の墜落のような大きな事実がありながらも、その後の注目は年々無くなっていくものなのです。事故原因についてはいまだに多くの疑問が出されていますが、そうした声をマスコミが取り上げることはめったにありません。こうした声やニュースはセンセーショナルで一瞬の興味を引きますが、一方で社会はそれによって今までと違う事態が起こったり、新しい取り組みをしなければいけないということについては非常に消極的な側面を持っています。言ってみれば、他人事としてなら関心もあり、意見も持っているのに、いざ自分が何かをしなければならなかったり、自分のこれまでの安定した生活が影響を受けるようになると、急に人は冷たくなってしまうものなのです。

 災害や事件、事故にかかわらず、何らかの理不尽な被害を受けた人は多かれ少なかれ、先に触れたような怒りを抱えているものです。こころのケア、被害者の支援を行うと言ったとき、私たちは単に優しさやなぐさめが仕事だと思ってしまいがちです。多くのボランティアや支援者は、被害に圧倒されている被害者の方を助け、お世話をするようなつもりで集まったりします。確かに、大きな事故や災害では生活そのものに支障が起こり、生活の手助けがまず必要な場合もあります。しかし、実際に被害にあわれた方とあえば、そこでは強い怒りと挫折、失意の念に、支援者自身がぶつからねばならない事態であることに気がつきます。実は被害者の抱くそうした当たり前の感情を受けるのは、近くにいる家族であり、支援者であるのです。本来、責められなければいけないのは加害者なのですが、加害者は近くにはいません。近くにいるものが、その感情を受け止めなければならいな立場になることがあります。
 怒りやイライラはやがて加害者に対する直接的なものだけでなく、そうした状況の原因を作った企業のシステムやそれを管理しているはずの行政、国の制度にも広がっていきます。休憩時間の乏しいトラック運送業者、運行時間の正確さにこだわり運転手を追い込む交通機関、建築安全基準の確認を民間企業に委託した国、軍事訓練と称してスポンサーである民間人を体験乗船させ緊急浮上のデモンストレーションの果てに民間船を沈没させた他国・・・。それらは個人の手を超え、家族や支援者にとっては途方もなく大きな自体のように思えてきます。
 私たちはそこで迷うのです。あなたの悲しみや辛さは理解できる。とても理不尽なことがあり、みんながくやしい思いをしている。しかし、話が大きくなりすぎるのは行き過ぎで、無謀なことだ。ほどほどにしておきなさい。そう感じる人もいます。民間企業の過失を訴えるならまだ賛同を得ることはできます。しかし、訴えが行政におよんだり、社会の流れを変えるように求めるものになると離れる人が多くなります。「2度とこうしたことが起こらないように」という気持ちには賛同できても、そのために行政に働きかける署名活動を行う。役所に談判に行く。あるいは社会に事実を知ってもらい訴えるための集会を開く。こうした実行力を伴う活動になればなるほど、支援に対する感情は乏しくなり、やがて全く逆の気持ちができます。「話が大変になってきた」「大げさに騒ぎすぎる」「やっていることが過激だ」など感じる人は珍しくありません。中には「賠償金をつり上げるつもりなんじゃないか」「目立ちたいだけなんじゃないか」「注目されたいだけなんじゃないか」と誹謗中傷する人も出てきます。被害者の方から少し遠い、社会や世間は最初の悲しみは受け入れても、そのあとに続くこうした訴えには冷たく、時に加賀者側の味方のようにさえ振る舞ってきます。傷ついてた人は、悲しんでいて弱くなっている人だ、慰めてやらなければならない人だとしか思っていないと、こうした怒りの強さ、訴えの強さに多くの支援者は戸惑いを感じます。。私たちが本当にその悲しみが理解でき、支援したいと思っているのなら、この怒りや訴えについても支援していく覚悟がなければ長続きはしないのです。支援者が「まあ、まあ、ほどほどに」などと思い出したら、支援者はいつの間にか加害者やそうした事態を生み出した環境を養護し、被害に遭われたかたと距離ができていっているのではないでしょうか。

 実際に多くの被害者支援は、こうした問題に戸惑い続けています。たとえば、事故の背景に企業がある場合、企業が被害者の心のケアを行うとなれば、派遣されるカウンセラーは企業から派遣されたカウンセラーであり、どこかで利害が対立するのです。行政もそうです。学校で事件が起きた。学校で心のケアをする。一方で学校に改善点を求め、不備を指摘する、教師の問題を指摘する。そこにはやはり利害の対立があるのです。加害者を責め、責任が加害者本人だけの問題であれば、お互いに力を合わせることができます。しかし、それが学校の管理問題や責任問題におよぶと事態は変わるのです。まして、補償や裁判か関係するようになると、関係は敵対してしまいます。

 もう気がついている人も沢山おられると思いますが、最近注目されているいじめ問題も実は同じ側面が隠されています。誰かに何らかの被害を訴えるということは、訴えられた側はそれについて対処して欲しいと言われたわけです。しかし、そうすると訴えられた側は、いじめをしている人やいじめの温床となっている環境に働きかけなければなりません。できれば何事にも巻き込まれたくない。特にイザコザの間に入りたくないというのは誰の心にも起きる心理です。訴えを聞いた人は、その自分の気持ちに打ち勝って、状況を変えるための行動を起こさねばならないのです。それができない人は、今SOSを発信している人に「お前がしっかりしなきゃダメじゃないか」「いじめに負けるな」「そんな弱いことでどうするんだ」「そんなことだからいじめられるんだ」などと意味のないアドバイスやお説法をしたり、「それは気のせいだ」「お前の考えすぎだ」「それはいじめじやない」などと助けてほしい気持ちを頭から否定するということをしてしまうのです。訴えられ側も安定した今の状況を壊されたくないために、「話を大きくするな」「先生が一言いってやるから大丈夫だ」などと、安易にその場だけを解決しようとしてしまいがちなのです。
 いじめというのは、いじめられるものと、いじめるものと、それを黙ってみている傍観者の三者の関係で成立しています。この状況を変える最も早い方法は傍観者が、黙ってみていることをやめることなのです。ささやかなことでよいのです。直接的でなくても、間接的でもよいのです。人を傷つける行為はどんなものでも許されないのだという雰囲気を作ることが大事です。誰もがそれに反対している。いじめられているものが悪いのではなく、誰かを傷つけて楽しんでいる人が間違っているし、世の中にあってはならないのだという雰囲気を持ち合うことが、重要になります。いじめられている人を助けるのは、その場限りの優しさやなぐさめではなく、いじめを傍観しないという実行力なのです。

 「心のケア」というとき、私たちは「優しさ」や「癒し」などという言葉にとらわれて、実際の行動や実行力の側面を見落としてしまいがちです。私をはじめ多くのカウンセラーは、カウンセリングとはカウンセラーが動くものではなく、人生の主体となる本人が行動をし、自らが人生を変えていかなければならないのだと教えられています。カウンセラーが肩代わりしてやってあげるものではないと教わります。カウンセラーはカウンセリングルームから出るものではないのだという基本ルールを持っています。しかし、被害者支援では、このことを私たちカウンセラーもきちんと考えなければならない問題なのです。訴えること、行動を起こすこと。そして、多くの被害者にとって、それは一過性のものではなく、これから数年、数十年、生涯にわたって、忘れて欲しくない出来事であり、それを誰かに訴え続けていくという道を選ぶ人もいることを、私たちは知っている必要があるのです。支援の場に渦巻く怒りの感情。失意の念。私たちは支援というものを、時にきれい事で語りがちですが、そうした強い感情がそこにはあるのだということ、それを支え、付き合うことも支援のひとつの道なのだということを忘れることはできないのです。
(2006/11/10記)

上へ

ライン2

表紙へ 2番ホーム 待合室 伝言板 タブロイド
注意書 スタッフルーム

メールご意見・ご感想はこちらまで