
| ここで興味を持たれ、さらに深く知識を深めたいと思われた方は、 より専門のホームページか、専門書籍等をごらんになられることをお薦めします。 |
癒しと戦い |
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| 「暴露療法」というものがあります。「記憶との戦い」の中でも触れましたが、PTSDの治療として注目を集めているのが認知行動療法というものです。その中のさらに専門的な治療法のひとつに「暴露療法」というものがあります。PTSDは強い衝撃体験のため、その時の記憶が失われたり、その悲しみを無意識のうちに心の奥に封じ込めてしまうということが起こります。こうした状態が日常の中にも影響を与え、その出来事を思い出しそうな状況になると急に意識がなくなったり、本来の自分ではないような行動を無意識のうちにやってしまったりということが起こるのです。本当の「痛み」ということがわからなくなって、自分の身体を傷つけたり、性的な行為や薬物への依存など自暴自棄な行動をとってしまう場合もあります。 急に意識がなくなったり、自分の手を切っても痛みが沸いてこない、むしろ手首から流れ出る血を見ると自分が生きていることを実感したりする。こういうとき私たちの心と体はどこかで切り離されてバラバラになっていると考えます。体験と自分の心を切り離すことで、その時の痛みや辛さを感じさせないようにする代わり、当たり前の生活でも痛みや辛さがよくわからなくなるのです。しかし、出来事から目をそらしてみても、心のどこかはそれを覚えていて、心のバランスがどんどん壊われていってしまう。意識がなくなったり、手を切ったりしても痛みを感じない状態ことを、心が「かい離」していると言います。かい離はいろいろな病気で起こりますが、PTSDでも起こるのです。こんな時私たちは、半分は自分でも、半分は何か別なもの、過去の辛い体験や悲しみの亡霊に支配された状態にあるといってもよいと思います。他にも性犯罪の被害にあうと自分自身や人生に対する価値観が混乱し、無意識のうちにその後の人生までもが否定的な暮らしにおちいってしまうということがよくあるのです。自分ではそんなつもりはないのに、気がつくと悪い方へ悪い方へと物事を選んでいく。人生の坂道は、下り始めると本当に早いものです。 「暴露療法」はかい離している心に直接働きかける方法です。「暴露」とは読んで字のごとく、自分自身にその体験を突きつけることを指しています。つまり、過去の体験そのものをもう一度しっかり思い出し、その過去は過去のものとして、今の自分が逃げる必要はないんだ、今の自分がそんな過去に苦しめられる必要はないんだと向き合っていく治療法です。思い出しやすいところから、思い出していき、記憶が消されている部分を少しずつ明確にするようにすすめていきます。思い出した部分をテープにとったりしながら、繰り返し何度もその部分を確認し、自分に突きつけることで、その体験の重圧に慣れ、冷静にその出来事がなんだったのかを判断する力をつけていくのです。そうしているうちにいずれ、消された記憶のすべてが思い出さされ、思い出しても混乱することなく、落ち着いて対処できるようになります。そうなればそこにあるのは混乱ではなく、当たり前にそれを悲しむこと、痛むこと、怒ることなどができるようになるでしょう。内面的にはこの過程の中でかい離している心はもう一度つなぎ合わされ、その体験を取り込んだ自分自身に変わっていくことになります。意識を失ったり、自分自身の体を傷つける必要もなくなります。もちろん、これは辛い作業の中でさらに混乱が大きくなったり、より精神的なダメージを受けないように十分な注意が必要です。実施する方にも特殊な訓練が求められます。実際に日本でこの療法を受けられる場所は限られています。 「心理教育」にしても「暴露療法」にしても、こうした記憶との戦いの過程を見てみると、その厳しさ、ストレートな介入方法に驚かれる人もあるのではないでしょうか。これまで見てきたさまざまな問題についても多かれ少なかれ、こうした現実を直視するという厳しさがあります。こうした対処の方法について、何かしらの違和感やそこまでしなくても・・・という抵抗感を感じられた方も多いのではないでしょうか。レイプにあった女性が、忘れていたこの体験をもう一度しっかり思い出させるような作業を行うことに、疑問や心配の声が上がり、こうした取り組みを実施することに抵抗感を覚えることは不思議なことではありません。PTSDに対処する現場では、実はいつもこうした葛藤が起こるのです。それはこれまでの日本の文化で「犬に噛まれたと思って早く忘れろ」などといった考え方とは全く逆のものだからです。辛い体験にあった人には保護すること、包むこと、気をつかわせないことなどの当たり前の親切と優しさがあるのは同じです。しかし、そこから次の一歩に踏み出すとき、私たちはどうすればよいのか。「こころのケア」とはなんなのか。この時こうした厳しい方法に直面することに戸惑う人も少なくないはずです。 このような方法の違いには、日本と欧米の文化の違いというものがやはり大きく関係しているのではないかと思います。実はこれはPTSDへの対処方法に限らず、精神分析療法やカウンセリングというものについても当てはまる問題なのです。日本は今、「癒しブーム」などと言われていますが、「こころのケア」=「癒し」、それは優しさや穏やかさ、包み込まれるような安心感などといった、柔らかいものだけで成り立っていると考えらがちです。体験というのはひとりの人間の存在を超えたものである。いまさら誰にもどうすることもできない現実。だからこそ「辛いときはそっとしておくのが一番だ」「時間が解決してくれる」などと思うことで周囲の私たちもまたその辛さ、現実から離れ、目をつぶってきました。出来事を強調し、それと対決するように求めることは、とても痛々しいものです。だからこそ日本では、悲しみは時間が癒すものであり、仕方のない現実を静かに受け入れ、耐える姿こそ美しいと思われているのでないでしょうか。記憶と戦うというような行為は、ジタバタしていてみっともなくて、事を荒立てるだけの行為のように見えることもあるでしょう。そうやって騒ぎが大きくなることを、日本の社会や伝統は嫌う傾向があります。 欧米の感覚はひとり一人が社会を作っているという意識が強いように思います。ひとり一人が社会の構成員であるからこそ、社会に対して力を出す代わりに、社会もまた1人を助ける責任がある。人生の道は自らが作りだすものだし、自分自身がどんな人間になろうとするかも、自分で決め、自分で選ぶものだという意識が強くあります。事件や事故にあったときも、それをどう扱うかは自分という人間が決めていいはずだし、それができる力に、人間の輝きを求めています。欧米では言語化すること、自己主張ができることが個人としての自立を意味しています。個人として生きることが重要なのです。社会参加、社会奉仕はその個人に求められる責任なので、その意識の具合が社会の中の個人の評価を決めていきます。こうした社会では個人主義が強くなり、他者に冷徹なこともありますが、一方では社会に貢献することが個人の評価と直結しています。それぞれの意見を出し合う社会ですから、対立そのものは多く出てくるのも現実です。対立しあっている意見があることが、全体としてバランスをとっているという社会です。 PTSDへの対応にしろ、精神分析療法やカウンセリングにしろ、いずれも欧米で発展してきたものです。そこには自分、自我というものを中心とした考え方が根底にあるのです。私たち日本の文化は、これらの専門的な治療法がどのようなもので、どのように意味を持ち、どんなことを求めているのかということについてもっとよく知っておく必要があるでしょう。ここまで見てきたように、そもそもの精神分析療法もカウンセリングも、認知行動療法も、基本的には今流の「癒し」ではくくれない「厳しさ」をもっているからです。「こころのケア」と言われたとき、そうした優しさを求めていると、期待を裏切られ、こんな辛い体験があると思わなかったと感じる人もかなりおられます。今の状況だけでも十分に苦しいのに、なぜ、あの辛い体験を思い出し、そのことをしっかりと見つめることができるのか。しかし、それを乗り越えるところで初めて、自我のより強い姿が見えてくるのです。最近の日本の現状を見ると精神科の治療の現場だけではなく、いたるところでこうした文化や考え方の違いというものが感じられるようになってきました。日本はかつての島国から、今や非常に国際交流も盛んな国家となっていますから、欧米の考え方や生き方を取り入れている人も少なくありません。しかし、実際に多くの人の気持ちはまだ本当に欧米型の考え方を受け入れる準備ができてはいません。また、日本における自我の自立ということが、欧米型の考えを取り入れるだけで本当によいのかということもしっかり考える必要があります。精神分析療法やカウンセリングなど心の治療といことについて、もっとこうしたことが注目されるべきだと思います。今でもさまざまな被害にあった人の大半は「時間が解決してくれる」と思っています。そして、そういう人生があることもまぎれもない事実です。一方で、向き合い、戦うことを求める治療法があります。どちらの道にも一長一短の問題があります。治療を受ける本人の向き、不向きもあります。ただ、これまで見てきたように、PTSDへの対処が予防の医学の観点からはじまるのだとすれば、事件や事故のあと何もしないままに時間を過ごしていくことは、これまでの日本文化の繰り返しにすぎず、新しい可能性を見過ごしているかもしれないことも知っていていいと思います。PTSDはこれまでは仕方のないとあきらめるしかなかった状況に対して、もっと医療的・福祉的なアプローチが可能なのではないかという、社会の発展、充実の中で生まれてきた新しい病気の概念です。どちらが良いというのではありません。ただ、こうしたことも知らなければ、考えることも、選ぶこともできないと思うのです。PTSDの心理教育では、少なくとも新しい対処の方法や生き方の可能性があることについて、私たちは触れなければならないと思います。さらに、この場所が事件や事故に遭遇する前に考える機会となっているなら、もっと役に立つのではないかと思うのです。 |
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| (2006/11/10記) |