
| ここで興味を持たれ、さらに深く知識を深めたいと思われた方は、 より専門のホームページか、専門書籍等をごらんになられることをお薦めします。 |
虐待 2 |
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| 虐待に向かう親 | |
| 虐待という問題を考えるために、その親の心について整理したいと思います。このことは虐待をしている親がその状況から回復するためにも考えておかなければならないことです。 一般に虐待をする親というと「若く」て「無責任」で「遊ぶ」ために、子供にひどい扱いをしているというイメージがあるかもしれません。これも一つの姿です。子育てや育児というものは母親にとっても父親にとっても、多くの犠牲を求めてきます。これまでの生活の多くはもとより、遊ぶ時間はどんどん削られていきます。そうした生活になじめず、すっかり子供をほったらかして遊びに行ってしまったりします。こうした親は、親としての責任を果たせるだけの忍耐力や心の強さが不足していると言えます。それはただ我慢しろということではないのです。親だって遊びに行ったり、人生を楽しむことは大切です。仕事もしなければなりません。大事なのは、これらをどうすれば両立できるかということなのです。ここではそういうことを考え、実行する強さであり、責任感であり、心のゆとりが重要なのです。 また、時には育児ノイローゼといわれるような親の消耗状態を作り出すこともあります。こうしたことがきっかけで子供を攻撃したり、あるいはまったく無視するような行動に出ることがあります。母親自身が憔悴(しょうすい)し、ボロボロになって自分の生活すら維持できないような状態です。それでも多くの場合は、なんとか子供の世話をしようと努力しますが、それも次第にちぐはぐとなって、気がつくと子供に当たっていたり、何もできなくなっている自分がいます。ひどいうつ状態に入れば親子の無理心中も珍しいことではなくなります。 つまり、ここには二つのパターンがあることがわかります。最初から自分が遊ぶ時間が欲しいために育児を放棄し、邪魔な子供を攻撃する場合と、育児のノイローゼ状態が高じて爆発して子供を責める場合です。しかし、よく考えてみれば、どちらも特別なことではないことにも気づくと思います。これらは昔からある子育ての問題であり、大なり小なり、どこの家庭でも抱えていることです。自分の生活や家族の置かれた状況を振り返り、バランスの取り方を工夫する気持ちさえあれば、本来は大きな問題にならずにすむことなのです。子供をおいてパチンコに行く親は虐待をしようとしていたのではありません。ノイローゼに落ち込む母親もほんの少しの助けがあれば、そうならずにすむ可能性が大きかったことがわかります。このような状況の中で父親の助けが必要であるかも、おのずとわかるはずです。 しかし、実は最近問題になっている虐待にはもう一つの要素が入っています。それは「愛すること」が上手くできなかったり、攻撃することに喜びを感じてしまう人がいるということです。ここには親がただ遊びに行きたい、育児が面倒だということ以上の問題が含まれています。 愛することが上手くできない親は子供にどう接していいのかわからず、子供の存在にとまどっています。自分と子供の関係がしっくりこないのです。ほとんどの場合、親子の関係というのは自然とできあがっていきます。最初は抱くことも不慣れだったものも、いつしか一番バランスの取れた形で抱くことが出きるようになる、赤ちゃんもそれに応じて安心して泣きやんでいきます。しかし、こうした自然なやりとりがいつまでたってもうまくできないということがあるのです。自分も赤ちゃんになじめす、そういう親に赤ちゃんも安心できません。こうなってくると育児の負担は当然非常に高いものになってしまいます。赤ちゃんが自分を苦しめる邪魔者のように感じてしまうのです。そして、子供を一方的に攻めるようになってしまいます。 赤ちゃんというもっとも力の弱い存在を攻撃することで、ウサを晴らしたり、喜びを感じるという人も、残念ながら存在します。平素はおだやかでまじめな人に見える場合でも、自分の子供に対しては欲求不満をはらす道具にしか感じられないということもあるのです。こうした親は子供を自分の所有物のように思っています。自分のぬいぐるみを殴るように、子供を殴っています。そして、自分の所有物であり、ぬいぐるみであるがゆえに、非常に強い執着を持ち、それを愛と勘違いしています。この親は子供をひどく攻める一方で、子供から離れることができず、過剰な「愛」を捧げていることもあります。自分の思い通りの行動をすると最大の愛を与え、自分にそむくと最大の罰を与えます。こうした親の身体的虐待は考えられないほどに過剰になっていますが、子供を病院に真っ先に連れて行き、必死に看病するのもこの親なのです。子供はこの愛と罰の間に挟まれています。自分を傷つけるのも愛の証拠だと確信し、親に傷つけられたことを他人には決して言いません。 このようなゆがんだ愛を持ってしまう親も実はその多くが子供の頃に虐待にあっていたということがだんだんと知られるようになってきました。自分自身が上手く愛されなかったために、今親となった自分も子供への愛し方がよくわからないのです。これらは先の二つの状態よりもっと深く心の奥に根ざした問題です。私たちは虐待という問題を聞かされると「子供たちがかわいそうだ」「ひどい親だ」ということが頭に浮かびます。それは子供たちにとって本当に大変な問題です。しかし、この問題をよく考えれば、その親自身が抱えている苦しみもしっかりと見つめなければ、簡単には解決できないものだということもわかるのです。虐待がこうして世代を越えて伝わることは、虐待におちいる親への理解を通してはじめてわかってきたことなのです。 親子というのは人間の基本となる関係です。親子という関係はいつまでたっても親子なのです。子供の傷だけを見て、親を批判してみても本当の解決にはなりません。子供を助けようと考えれば、まずその親を助けていくことが大事になります。虐待を乗り越えるための多くの取り組みは、こうして出発していきます。 |
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| (2000/6/23記) |