|
アルコール依存症の話から、その家族が受ける影響と、そこから生じる新たな悲しみについて話を続けてきました。人間はその生まれ落ちた瞬間から(最新の研究ではお腹にいるときからすでに)他者との関係がなければ生きていくことができない生き物です。赤ちゃんは、周りからいろいろなものを吸収し続ける能力によって、一人の人間に成長するのです。その大本である家庭の環境が人間の成長に強く影響することは今さら言う必要もないことです。
ACという問題を考えるとき、私はいつも人間の強さや切なさというものを感じずにはいられません。これは以前にも見た神経症についても同じことが言えます。人間は自分に降りかかる辛く、苦しい現実の中でも、何とかして生きる道を見つけようとします。「ヒーロー」になることも「マスコット」になることも、それぞれが見つけた、その家族や本人にとって意味のある道だったのです。例え、いわゆる非行に走ったという子供でさえ、そうした悲しみを抱えながら、どうにもならない怒りを社会にぶつけることで、不器用なSOSを発しているということが少なくありません。アルコール依存症という病気のために、酒に縛られ家族のことを考えられなくなった人も、それに振り回される妻(夫)や子供たちも、何とかその状況の中で生きようとしていることにかわりはないのです。
しかし、本当にこの道しか行く道はなかったのでしょうか。家族の一員として協力しあい、助け合うことは当然のことですが、本当にそれだけでよかったのでしょうか。
こうした家族の問題に取り組んだアメリカのケースワーカーたちは、ここで大きな疑問に突き当たりました。アルコール依存症というのはその薬物の作用によって、強烈な身体的・精神的依存を引き起こす脳の病気です。それなのにこうした家族はその本人のために犠牲になりながら、お金を渡したり、借金をしたり、ひどく理不尽な扱いを受け、心に深い傷を持つほどになっているのに、この病気を治そうとする努力についてはまだ十分ではないんじゃないか、というのです。ひどい暴力を受けて抵抗感を失ってしまったり、子供の頃からの環境によっていつの間にか家庭内で一つの役割を背負ってしまうのが当たり前の状況になってしまって、気がつけばもともとの原因だったその中心人物はいまだに我が物顔で酒を飲んで暮らしている。中には家族の立場がすでに逆転し妻と子の方が自立して、家庭内別居状態の夫が家のスミで酒を飲んで暮らしているところもある。夫は酒さえ飲んでいればおとなしいから、酒を与えて放っておいている家庭も実は珍しくない。客観的に見ればどの家庭のバランスももう大きく偏っている、それなのにそれを当たり前のようにみんなが暮らしている、これはどうしてしまったのだろうか。家族の進むこうした道は、アルコール依存症という病気に家族そのものが巻き込まれていると言えるのじゃないだろうか。
こういう状況の中で「共依存」という一つの考え方が浮かび上がってきました。前回も紹介した精神科医の斎藤学は共依存の定義として「『健全』である者たちの代表であるかのようにして」依存症者の「世話を焼き、回復を妨げる配偶者や治療者という『現象』に共依存症という名を付した」と言っています(「魂の家族を求めて」日本評論社)。つまり、こうした家族は現状を維持するための工夫ばかりして、むしろ本人にアルコール依存症という病気の治療をさせることを遅らせているというのです。なぜ、夫のかわりに借金を払うのか、なぜ夫がしでかしたことに謝って歩くのか、なぜ夫の暴力を訴えず、だらしない夫の世話をし続けるのか。そうして夫を許し続けることは、実は夫がアルコール依存症で家族に迷惑をかけているという現実に気づくことを妨げ、治療を受けねばならないという責任感を弱めてしまっていると考えるわけです。こうした家族の行動は、一見家を守ろうとする努力に見えますが、一方では病気を助長し、悲しみを深める悪循環を生んでいることにもなるわけです。それはつまり、家族のためと思ってやっているつもりのその行動が、実は本人の依存状態を助ける「共依存行動」になっていると考えられるのです。この状態では本人はアルコールだけでなく、家族にも過大な依存をし、家族もそれぞれの役割に依存して、頼りない今をただ生きているに過ぎないのではないかというのです。
アルコール依存症という病気は「依存」という問題から抜け出すことができないために、果てしない堂々巡りにおちいり、それを妨げるような家族に対しては強く抵抗して、何がなんでもその「依存」を満たそうとする病気です。この病気にうち勝つということは、この堂々巡りの輪を遮断することに他ならないのです。本人にとっても家族にとっても目指すべき努力は、この状況を甘んじて受け入れることではなく、とことん抵抗して病気にうち勝とうとすることなのです。「ヒーロー」であったり、「責任をとる子」であることは大変な努力のいることです。しかし、こうして考えてみるとそれすらもアルコール依存症という病気の強さから目をそむけ、逃げ道として選んだ妥協案に過ぎなかったことがわかります。ACの抱えた問題の本質も家族の誰かのために選んだ道だから、ゆえに自分の人生にはならなかったということにあります。
日本人の感覚からすると、「共依存」という考え方に一理はあると感じながらも、何かしっくりとしない気持ちもあるのではないでしょうか。日本の風土は相手の気持ちを察することを美徳とするところがあります。相手のことを自然と思いやるというすばらしいものです。ここに日本人特有のあいまいさがあります。言わずもがな、という常識は無意識に相手に何かを期待する甘えにも結びつくものになりかねません。家族のためにもくもくとがんばる子は、日本人ばかりでなくても美的な感覚との結びつきも強いものでしょう。簡単な例で言えば「おしん」や「巨人の星」の「星飛馬(ほしひゅうま)」などがそうです。彼らは「責任をとる子」であり、「ヒーロー」にあたります。彼らのがんばりを評価する(つまり、ACであることを良いとする)ことがあっても、その元となる親のあり方を考えることはあまりないようです。
現代の人権意識の発達はこうした美徳をただ良しとしてはいません。現代では、たとえ子供であっても確かな人権があり、親のために売られることは児童売買にあたりますし、過剰な教育は虐待とも言えます(現代は社会保障制度を充実させることで貧困による人権侵害に結びつかないようにしています)。西欧を中心にした人権意識の発達は、病気の人をただ守るだけではなく、病気の人自身にも必要な治療を受け、できる限りの社会人としての役割を持つことを要請しています。家族としての協力は当然ですが、だからといって必要以上に犠牲になることは別な問題と言えるのです。本来、日本人の相手を思いやる言わずもがなの気持ちのすばらしさと、こうした人権意識の問題は矛盾するものではないはずです。本当に相手を思うこととは何なのか、現代人として向き合わねばならない問題どこにあるのか、そうしたことを考えていくことが重要なことではないでしょうか。「共依存」ということを考えるときは、こうした点の区別を意識しておくことも必要だと感じます。
最近では「共依存」という言葉が、苦労している家族を、さらに責めて負担を増すようなニュアンスをもって受け取られがちなことから「過剰責任行動」という言い方がよいのではないかという意見も出てきました。こちらの方が家族も無意識のうちに普通の家庭で求められる以上の負担を負おってしまったのだということをうまく言っているかもしれません。どちらにしても「共依存」「過剰責任行動」という考え方の持っている意味は、家族はもっとアルコール依存症者の治療に目を向けて欲しいということと、家族も一人の人間として自分の人生を積極的に選ぶ権利があって、病気に巻き込まれて特別な犠牲を払う必要などないんだという二つの意味を持っていると考えていただければよいのではないかと思います。
|