
私的研究室
7.「往生浄土の問題」 1 はじめに 今日仏教の用語が、日常生活の中で語られる場合、本来の意味が歪められていることがしばしばある。例えば「他力本願」は、みずからは努力をしないで、他人の力をあてにするという意味の「依存心」を表す言葉として否定的に使われている。また「往生」にしても、行き詰まってどうにもならず、困り果てている状態を示したり、人が亡くなったりした場合に用いられている。この他にも、「縁起」「成仏」等々、多くの仏教語が、本来の意味とは異なった趣意で用いられている。 このような状況の中で、間違った使い方を正そうとすることへの努力は、常になされているようである。だが、なぜ誤った理解が一般化したのか。その問題を解明することについては、関心度が低いように感じられる。思うに、その理由はおそらく今まで説いてきた事柄を自明の理としているからに相違ない。それ故、説き方自体は正しいのだが、その意のごとくに受け止めることのできない方に責任がある、とみなしてしまう。だが、はたしてそうなのであろうか。従来の説き方の中には、人々に誤解を抱かせてしまうような舌足らずの表現はなかったのであろうか。ここでは、その点に着目して考えてみることにしたい。 例えば先に挙げた「他力本願」について。一般に「他力の他は阿弥陀仏、他力の力は本眼力」と説明されている。そうすると、自分に力のないことを自覚する者は、当然のことながら、「他者」である阿弥陀仏に頼り、依存することになる。その意味において「他をあてにすること」を世間において「他力本願」と言うのは、あながち間違いとはいえなくなる。ところで、親鸞は「他力本願」という言葉を二種の意味に使っている。一は『教行信証』「行巻」に見られる、 他力といふは、如来の本願力なり。 二は、『末灯鈔』に見られる、 第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力とまふすなり。 一では、この言葉のあとに本願力の詳細な確かめを行い、そのことを通して「他力」とは「阿弥陀仏が、他(衆生)を救うはたらき」であることを示している。つまり「他」とは、私から見た他(阿弥陀仏)の意ではなく、阿弥陀仏から見た他(この私自身)を指し示す言葉なのである。また本願力とは、私が願うに先立って、私の心に来たって、私を救済し続けている力であるといわれている。そうすると、二では、私が本願力を信じる心を他力というのであるが、すでに私の心に来たっている、その力を私の心の全体で信じることができたとすれば、私の心は、完全に本願力と一体になっていることになる。本願力が他力である以上、その他力と一体となっている信心もまた、他力であることはいうまでもない。 さて、今は一の解釈を中心に述べると、世間一般でなされている言い方は、成り立たなくなる。他力の他が、私から見た他者ではなく、この私自身を指す言葉であるからで、必然的にそこからは依存心的な意味は見出せなくなってしまう。このように、従来の説き方を検証し、本来的意味を解明して初めて誤解を根本的に覆し得る場合があったりする。 同様に「往生」という言葉についても、同質の問題があるように思われる。以下、往生理解が歪められた経緯と、親鸞の語る往生理解について尋ねてみることにしたい。 2 浄土教の課題 始めに、「往生」という言葉を『新・仏教辞典』では、次のように説明している。 極楽往生・浄土往生などというように、極楽浄土に生まれることをいう。 それが必ず死後であるところから、死ぬことを往生というようにも用い、どうにも身のおき所なく閉口したことをも、往生する、と使う。 これによれば、世間一般で往生が死ぬという言葉と同義語として用いられるのも当然のこと、という感を否めない。だが、はたして往生とはそのような意味の言葉なのであろうか。また、もしそうでないとするならば、なぜそのような誤解を受けることになったのであろうか。浄土教の歴史を繙きながら、考えてみることにしたい。 さて、浄土教はその興起以来、覚道の宗教である仏教の中にあって、浄土という観念的世界に僥倖を期待し、阿弥陀仏なる人格的他者の救済を俟つといった、非仏教的要素を多分に含んでいるかのような疑念を持たれていた。それ故に、浄土教においては、それが一種の負い目であり、また必ずや解明されるべき重要課題ともなっていた。したがって、法然による浄土宗の独立とその宣言がなされるまでは、一宗として独立することはなく、常に聖道成就の方便教として、寓宗的位置に甘んじることをを余儀なくされていた。まさに、浄土そのものも『五会法事讃』に 西方は道に進むこと娑婆勝れたり。五欲及び邪魔無きに縁てなり。 成仏に諸の善業を労せず。 華台に端座座して弥陀を念じたてまつる。 五濁の修行は多く退転す。 念仏して西方に往くにはとかず。 彼に到れば、自然に正覚を成る。 と示されるように、修道成就の場としてとらえられていた。それ故、聖道諸師の熾烈な浄土願生も、自力修行における時代社会の混乱荒廃と、自身の劣機性の発見によってやむを得ず発せられたものであり、みずからが宗としている自力得証のための方便道として認識されていたにすぎなかった。このような意味において、゙浄土教が法然によって一宗として独立せしめられたということは、きわめて意義深い出来事であったといいうる。 とはいうものの、依然として証果という点では『和語灯録』に 阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給ひたればただ一向だに念仏申ぜは、仏の来迎は法爾道 理にてそなはるべきなり。 と見られるように、念仏による滅罪と臨終時の来迎が期待されていた。このように、肉体の死の彼方に浄土が欣求される以上、 念仏の衆生を摂取して捨てたまはず という救済の理念は、一種の神秘的体験として理解されるほかはなかった。また、その限りにおいて、聖道教の自証教に対して、救済教とされる浄土教の中心をなす阿弥陀仏と衆生との関係は、功利的な偶像崇拝へと頽落していく要素と可能性を多分にとどめていた。したがって、如来と衆生との関係が、知的関心事として観念化されると、 浄土宗の義みなかはりておはしましあふて候。 ひとびとも、聖人の御弟子にてさふらへどもやうやうに義もいひかへなどして、身もまどひひとをもまどはかしあふてさふらふめり。 と伝えられるように、法然の教説も門弟間では、変質していくこととなった。具体的には、聖道仏教からの批判に対して、一念義系では法然の教示を聖道仏教の理論によって再構築することで煩瑣な教理仏教に退転し、多念義系では法然が廃捨した諸行と称名念仏との会通を試み、ついには諸行との妥協により専修という純粋性を汚濁してしまうという結果を招いた。 まさに、未来往生という形で肉体の彼方に往生浄土が期待される限り、浄土宗の独立は、未だ単なる現象的な事柄として終わらざるを得ないおそれがあったのである。 3 親鸞の往生理解 まず、親鸞の語る独自の往生理解をその著述等から尋ねてみることにしたい。 即得往生は、信心をうればすなわち往生すといふ、すなわち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚のくらゐにさだまるとのたまふ御のりなり、これを即得往生とはまふすなり。即はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。 (唯信鈔文意) 願力摂取往生といふは、大願業力摂取して往生をえしむといへるこころ也。すでに尋常のとき信楽をうたる人といふ也。臨終のときはじめて信楽決定して摂取にあづかるものにはあらず。ひごろかの心光に摂護せられまいらせたるゆへに、金剛心をえたる人は正定聚に住するゆへに臨終のときにあらず。かねて尋常のときよりつねに摂護してすてたまはざれば摂取往生とまふす也。 (尊号真像銘文) 即得往生といふは、即は、すなはちといふ、ときをへず日をもへだてぬなり。また、即はつくといふ、そのくらゐにさだまりつくといふことばなり。得は、うべきことをえたりといふ、真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して、捨てた間はざるなり。摂はおさめたまふ、取はむかへとるとまふすなり。おさめとりたまふとき、すなわちとき日をもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを、往生をうとはのたまへるなり。 (一念多念文意) これらの諸文によって明らかなことは、親鸞の語る往生とは、肉体の死の彼方に夢想されてきた伝統的な未来往生ではなく、信心を得たその時に直ちに得られる、現生往生とでも称すべき独創的理解に基づいているということである。もちろん、このような往生理解においては、もはや臨終時の来迎が期待されることなどありえない。まさに死後ではなくこの現生のただ中において「信心をうればすなはち往生す」るのである。 ここで着目すべきは、親鸞が往生という言葉を用いていながら、もはや伝統的理解の制約を受けることなく、そこに新しい生の意味を見出しているということである。いまその新しい生の意味については、次のような明かされている。 断と言ふは、往相の一心を発起するが故に、生としてまさに受くべき生なし、趣としてまた到べき趣なし。すでに六道・四生・因亡じ果滅す、かるがゆへに即ち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆへに断と曰ふなり。死流とは即ち四暴流なり、また生・老・病・死なり。(教行信証・信巻) すなはち、往生とは流転の生を超越した、新たなる生をいきる身となることだというのである。換言するならば、親鸞における往生とは、かつて「厭離穢土欣求浄土」の言葉を以て切実に願求されながら、あくまでも臨終時の来迎を証果として、現生の彼方に期待された往生とは全く異質のものであり、 ひとすぢに具縛の凡夫・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の誓願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。 (唯信鈔文意) と著されるごとく、信心を得たその時に流転の生を終えて、凡夫の身のまま無上大涅槃の到るべき身へと転成せしめられることに外ならなかったのである。 だが、一方で親鸞は明らかに未来往生を語る場合があることもまた事実である。それが顕著に見られるのは、親鸞が晩年に門弟との間で交わした信仰の対話を法語として記録した『歎異抄』においてである。第九条には なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。 また後序においては、 源空がまいらんずる浄土へは、よもやまひらせたまひさふらはじ。 と伝えられている。いわゆる未来往生、すなわちこの世の命を終えて、かの土としての浄土に往生するというような往生観が語られているのである。また、『歎異抄』は語録であり、直接親鸞の手になるものではないが、未来往生的表現は親鸞の書簡集である『末灯鈔』においても、 この身は、いまは、としきはまりてさらへば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし。 あるいはおなじく 浄土へ往生するまでは不退のくらゐにておはしましさふらへば、正定聚のくらゐとなづけておはしますことにてさふらふなり。(略)そののちは正定聚のくらゐにて、まことに浄土へむまるるまでは候べしとみえ候なり。 と、肉体の死と共に実現するような理解の仕方で、確かに語られている。では、この矛盾をどのように理解すべきであろうか。そこで着目したいのは、親鸞が『歎異抄』に記された法語を門弟との間で語り、あるいは『末灯鈔』の書簡を認めたのは晩年に当たる八十歳代のことと推察されるが、同時期に精力的に著した『唯信鈔文意』『一念多念文意』等のいわゆる仮名聖教には、一貫して証大涅槃が主題として語られているという事実である。思うに、同一人物において、語っている言葉と書かれている文章とが、全く別の思索のもとにあるということは不自然なことである。したがって、『歎異抄』で語られる往生と、仮名聖教で著される証大涅槃とは、思想的には一致しているとみなさなければならない。その場合、考慮すべきは、『歎異抄』は語録、『末灯鈔』は書簡、他方『唯信鈔文意』をはじめとする仮名聖教は著作であるという点である。つまり親鸞は、対話・書簡では伝統的な意味での未来往生と解されるような形で往生を語り、独自の思索を著作として示す場合は必ず現生不退あるいは現生正定聚を以て往生を内容付けしたものと思われるのである。言い換えると、感情的な立場からは、伝統的往生理解を語り、思想的な立場からは己証といわれる独自の理解を示したといえよう。しかし、親鸞の往生理解という場合は、やはり独自の理解を挙げるべきであり、たとえ法然までの未来往生を内容とする往生極楽の教えを語ることがあったとしても、それは門弟との対話の中で、伝承の教えとして語られたとみなすべきではなかろうか。それは親鸞が積極的に理解した往生は、現生におけるものであることが、書簡においても次のように明言されていることからも推し量ることができる。 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をゑざるがゆへなり。また十悪・五逆の在任のはじめて善知識にあふて、すすめられるときにいふことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心さだまるとき往生またさだまるなり。 まさに往生とは、この現生において、信心さだまるときまたさだまるのである。 4 往生浄土の意義 これまで見てきたように、往生が死後のこととして受容されてきたのは、臨終来迎の思想が色濃く影を落としていたからであった。またこれまでは触れなかったが、現在でもいわゆる「往生即成仏」という理解が公式となって、往生は主として死後に語られている。なぜなら、現生で往生を語ろうとするならば同時に「即成仏」の問題が絡んでくるからである。もちろん「煩悩成就の凡夫」が、現生において成仏することなどあり得ない。畢竟、往生は「臨終一念の夕」に期待されることとなる。だがそこに止まる限り、依然として往生という言葉は、死ぬことや閉口することの代名詞として使われ続けるに違いない。 しかし既に見てきたように、親鸞が繰り返し語る往生とは、この現生のただ中において、流転の生を終えて浄土へと連なる新しい生を生きる身となった事実を物語る言葉に外ならなかった。それは、また善導によって詩的に 帰去来、魔郷には停まるべからず。 曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとく皆逕たり。 到る処に余の楽なし。ただ生死の声を聞く。 この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん。 と明かされるように、流転の生を重ねて来た身を悲痛する者が、ようやくにして「往き生まれる」べき本来の世界を見出し、その世界すなわち浄土への一道にいま立ち得たという事実を物語ろうとする言葉なのであった。 ときに、いま人間をひとつの言葉で表現しようとするならば、「願いに生きる存在」とでも言い表すことができるのではなかろうか。現に誰もが、漠然とした形ではあっても、「不幸にはなりたくない。幸福になりたい。」と願っている。中でも、自分が悪い状態にあると感じている人は、それを良い状態に改めるために宗教に救いを求めようとする。一方、良い状態にあると感じている人は、さほど宗教には関心を示さない。そしてその中間層にいる人々は、その時々の状況に応じて、宗教に救いを求めたり、無関心であったりする。あえていうならば「苦しい時の神頼み」という言葉がその有り様を象徴的に物語っているように思われる。 では、このような状況の中で、往生浄土の意義をどこに見出せば良いのであろうか。先に述べた良い状態になることを人々は「救い」と言い、あるいは幸福とよんでいる。だがいかなる人間も等しく、最悪の不幸である死と出会う時が来る。そしてその時には、それまでの救いとか幸福といったものはすべて粉々に砕け散ってしまう。つまり、どれ程幸福の絶頂にあろうと、それは永遠なるものではなく、必ず最悪の場が訪れるのである。したがって、一般的に考えられている健康・財産・平穏・享楽といった世俗的幸福は、所詮は砂上の楼閣のごとく、儚く崩れされものでしかない。それは、六道輪廻における「天」の生活が、やはり迷いとして説かれていることからも窺い知られる。 天とは、人間の理想をより高めた世界である。そこは、一切が平等で豊かであり、苦悩も貧困もない、楽しみと喜びに満ちた世界であるといわれる。にもかかわらず、なぜそこが迷界であるといわれるのか。天もまた「無常」の理の中にあるからである。それは、天人にも命に限りがあるということによる。すなわち、天は清浄なる世界であるため、穢れを宿さない。したがって、天人は肉体の破滅である死を迎えた時に、天を去らねばならない。だが、天には苦悩の原因となる一切が除かれているため、死の直前まで天人は自らの死を予測し得ない。しかも、突然にして死の奈落へと突き落とされ、その刹那に喜びと楽しみのすべてを奪われ、耐え難い無限の苦悩と恐怖を味わう。この苦の故に、天は迷界だとされるのである。 そうすると、誰もが漠然と抱いている救いとか、幸福についても根本的に見直す必要が生じる。少なくとも、無常という理の中にあっては、最悪の場に落ち込んだ時に、すでに死によっても砕かれない確かさに満ちあふれていることを、救いとか幸福とよぶべきであろう。では、それはいかなることを言うのか。 私たちは、生きていく中で、常に目に見えない事柄に畏れを抱いている。ひとつは霊(鬼)の祟りや神の怒りである。日時や方角の吉凶に迷い、鬼神の言葉に惑う姿が現代でもしばしば見られる。いまひとつは、自身の未来の姿である。私たちは朧気ながらも自らが死ぬであろうことは知っている。だが、それがいつのことか、また死後にこのいのちが何処に往くのかということを知り得ないでいる。そのことが、しばしば生の中に暗い影を落とす。それ故、除災招福を願っての祈りが現代に至るまで、各地で連綿として続けられている。だが、どれほど熱心な祈りを捧げても、無常という理の中にある以上、結局それは最悪の場である死が訪れることを以て悲惨な終焉を迎えることとなる。まさに、現実のこの一点に、無限の生を見出し得ない限り、ただ一度の人生を空過せざるを得ないのである。 人生は、しばしば旅をすることに例えられる。だが、誰もがその途上において、何処に向かって進めば良いのかを知り得ないでいる。またその道は「無明」なるが故に、人は多く道に迷い、どの方向に進むべきか惑う。そして、耳に心地よく響く世俗的な欲望の充足を説く教えに心惹かれ、かえってより深い苦悩に陥る。これが動かし難い、私の身の現事実である。 そのような私達にとって、往生浄土の教えは、「あなたのいのちの帰って来るのは、ここだ!」と、私の進むべき道を明らかに示し真実の世界へと導いてくれる。先に尋ねたように、親鸞は「信心さだまるとき往生またさだまるなり」という。信心とは、いのちの帰るべき世界を待たず、流転を重ねる私に対して、阿弥陀仏が「我が国に生まれたいと欲え」という願いを建て、それが「彼の国に生まれたいと願う」という相で、私の心に成就した心であった。それは親鸞が、本願成就文を二つに分かち、衆生の信心成就とは如来の欲生心の成就と同一事であると開示していることからみ窺い知られる。『歎異抄』が伝える、「如来よりたまはりたる信心」という言葉もこのような信心理解に基づくものであるに相違ない。かくして私達は、自らが願うに先立って建てられた願いの声に喚び醒まされて、初めてこのいのちの帰っていく世界を知ることができる。 それは、最悪の場である死によって砕かれないばかりか、むしろこの肉体の終わりを以て完成するような無限の生を見出したということである。そこには、常に無限の喜びが感じられ、その心は何ものにも破られることはない。往生浄土とは、そのような心とともに日々を歩む生活そのものを言い表した言葉であると思われる。 このような意味において、往生浄土とは、死後にではなくこの現生のただ中において語るべきであり、その一点においてこそ、人々に説く意義があると思われる。まさに往生とは、現生のただ中に無限の生を見出した者の日々の生活そのものであり、浄土とはこのいのちの帰るべきふるさとであるといえよう。思うに、このように浄土を真の帰依処として生きる在り方を足下に見出すことができたが故に、親鸞はその仏道を浄土真宗という言葉で以て高らかに顕揚したのではなかろうか。 親鸞の浄土観 謹んで化身土を顕さば、仏は無量仏観経の説のごとし。真身観仏これなり。土は観経の浄土これなり。また菩薩処胎経等の説のごとし。即ち、懈慢界これなり。また大無量寿経の説のごとし。即ち疑城胎宮これなり。 『教行信証』「化身土巻」冒頭の文である。『正信偈』には親鸞は源信の功績を讃嘆して、源信は「報化二土正しく弁立せり」と述べる。報土である阿弥陀仏の浄土に、なぜ「化土」が存在するのか。その理由を源信が『往生要集』で、疑心の者は「胎宮」に生まれ、懈慢の者は、「懈慢界」に生まれると、明かされたというのである。そしてこのような考え方は、中国浄土教からの伝統的解釈だといえる。そこで親鸞もまたこれらの解釈を受けて、『菩薩処胎経』に説かれる「懈慢界」や『大経』の「疑城胎宮」を「化身土」と捉える。 ところが源信が「報土」と見た阿弥陀仏の浄土は、まさに『観無量寿経』に説かれている浄土である。だが親鸞は、この『観経』に説く阿弥陀仏の相好とその浄土の荘厳を「化身土巻」でまず第一に、化仏であり化土だと見る。このような浄土のとらえ方は、純正浄土経の流れにおいては、親鸞以外誰もいない。中国及び日本の浄土経では、『観経』の教えを通して阿弥陀仏の浄土を見、その「真身観」に出現する阿弥陀仏を礼拝し、西方の浄土に往生することを願っているからである。したがって浄土経一般では、『観経』が方便の経典だということはありえず、この経に説く阿弥陀仏とその浄土こそを、報仏報土だと見ていたと考えられる。 ではなぜ親鸞は『観経』に説かれる仏見仏土を化身化土としたのであろうか。その理由は「真仏土巻」で明確に証されるところであるが、端的にはこの巻の次の冒頭の一言に尽きるのではないかと思われる。 謹んで真仏土を案ずれば、仏は即ちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土となり。しかれば即ち、大悲の誓願に酬報するが故に、真の報仏報土といふなり。 すなわち親鸞にとっての真仏真土とは、光明無量・寿命無量の誓願に酬報して成就された「不可思議光」そのものであったからにほかならない。そしてその「不可思議光」の本性を『涅槃経』の、真解脱・虚無・如来・仏性・涅槃等の語によって解釈する。 これは親鸞が真の仏身仏土を、存在論的に捉えていなかったということを意味する。『無量寿経』によれば、阿弥陀仏は十劫の昔に成仏し、その国土はここを去ること十万億刹の西方にあり、安楽と呼ばれ、自然の七宝によって荘厳されていると説示されているが、そのような浄土の存在論的解釈の一切を、親鸞は方便化土と解していたことになる。もちろん『教行信証』において、真実を語る巻でも「西方」「十劫」といった言葉は見られるが、浄土の本質を確かめる箇所では、このような考えは見出せない。 では和語の聖教はどうであろうか。例えば、親鸞の手紙「有弥陀仏へのご返事」という一通には、 この身はいまはとしきはまりてさふらへば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし。 という言葉が見られ「浄土で必ずあなたをお待ち申し上げます」と、ここでは浄土が場所的存在として捉えられている。また浄土の荘厳を讃歌している『浄土和讃』において、その第一首に「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまへり」と述べ、『無量寿経』の説にしたがって、阿弥陀仏を時間的存在として解しているように見られる。だがそれ以後に展開される讃歌においては、阿弥陀仏自体を「法身の光輪」「智慧の光明」「解脱の光輪」「光雲無碍如虚空」「清浄光明」等と表現し、その実態的な相好を破るとともに、浄土の衆生の全体を 顔容端正たぐひなし 精微妙躯非人天 虚無之身無極軆 平等力を帰命せよ として、「虚無之身無極軆」という、真如の相とする。では、浄土の荘厳が、存在論的な相好として述べられる場合はどうであろうか。 七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり 十方衆生きはもなし 講堂道場礼すべし 阿弥陀仏とその浄土が、場所的実態的存在として捉えられる場合は、やはり『教行信証』と同様、明確に「方便の浄土」と示しているのである。そしてさらに時間的存在としての、阿弥陀仏の十劫成道に関しても、 弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫とときたれど、塵点久遠劫よりもひさしき仏とみへたもふ 無明の大夜をあはれみて 法身の光輪きはもなく 無碍光仏としめしてぞ 安養界に影現する 久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する と『無量寿経』に説かれる「十劫成仏』の阿弥陀仏の本性を、塵点久遠劫よりもさらに久しい「久遠実成阿弥陀仏」と解して、その時間的有限性が完全に除かれている。加えて、親鸞は和語の聖教では、浄土の方向を「西方」という場で捉えているところは一カ所も存在しない。 このように見れば、親鸞の浄土観は、和語聖教においても『教行信証』の思想と、まったく同一の基盤にあるというべきで、むしろ『教行信証』を通して、その理念が確立されていたがゆえに、和語において、浄土の本質をより平易な言葉で表現できたのではないかと思われる。だとすれば、和語の聖教を通して、逆に難解な「真仏土巻」の思想を垣間見られるのではなかろうか。そこで和語聖教において、浄土の本質を問題にしている箇所について、考察してみたいと思う。 では親鸞にとって、真の浄土とは何であったか。『唯信鈔文意』で、善導の「極楽無為涅槃界」の文を、次のように解釈している。 極楽とまうすは、かの安楽浄土なり。よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり。曇鸞和尚はほめたてまつりて、安養とまうすとのたまへり。また論には、蓮華蔵世界ともいへり。無為ともいへり。 「極楽」とは、かの安楽浄土だという。「かの」とは、阿弥陀仏を指していることは明らかである。「安楽」とは、心が安らかで、楽しみが極まりない状態を意味している。そこで、「よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらぬ」世界だと解され、曇鸞の教えによって、「安養」ともいうと述べる。安養もまた、心身とも安らかに生かされている姿を示している。さらに天親の「一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもっての故に、蓮華蔵世界に入ることを得」の言葉を承けて、本来、華厳経の本尊、毘盧遮那仏の浄土である「蓮華蔵世界」を、阿弥陀仏の浄土だと解する。 このような言葉をみれば、阿弥陀仏の浄土は、ここでは場所的に、相好的に、感覚的に捉えられていると言えなくもない。だがその結びで、「無為ともいへり」という。そうすると「極楽・安楽・安養・蓮華蔵世界」の意は、「無為」の意において捉え直さなくてはならない。これらの語はすべて、無為の意の形容になっているからである。では「無為」とはどのような意味か。「真仏土巻」で『涅槃経』引文によってこの「無為」を 一切有為は、皆これ無常なり。虚空は無為なり。この故に常と為す。仏性は無為なり。この故に常と為す。虚空は即ちこれ仏性なり。仏性は即ちこれ如来なり。如来は即ちこれ無為なり。無為は即ちこれ常なり。常は即ちこれ法なり。法は即ちこれ僧なり。僧は即ちこれ無為なり。無為は即ちこれ常なり。 と説く。「無為」とは、虚空であり、常であり、仏性であり、如来であり、法であり、僧だというのである。この場合「僧」とは、仏の法を伝達するはたらきを意味している。したがって無為は、真如・真涅槃の同義語となる。このように見れば、「よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらぬ」心は、仏の悟りの内実として捉えなくてはならない。では「よろづのたのしみ」とはどのような意味か。『涅槃経』で続いて、「大楽有るが故に大涅槃と名づく」と語られているが、この大涅槃としての「大楽」が、この「よろづのたのしみつね」の意になるのではないかと思われる。では大楽とは何か。 涅槃は無楽なり。四楽をもっての故に、大涅槃と名づく。何等かを四と為す。一は、諸楽を断ずるが故に。楽を断ぜざるは、則ち名づけて苦と為す。もし苦有らば、大楽と名づけず。楽を断ずるをもっての故に、則ち苦有ること無けむ。無苦無楽いまし大楽と名づく。涅槃の性は無苦無楽なり。この故に涅槃を名づけて大楽と為す。 まず、諸楽を断ずることを大楽とする。なぜか。この世の、世俗的な場における楽しみの一切は、やがて必ず破れてしまう。楽の破綻は苦でしかない。その楽しみが、大きければ大きいほど、破れた時に味わう苦は大きいといわなくてはならない。したがって破れるべき楽を断じない限り、その楽は苦でしかないのである。 では苦は楽か。苦が楽であるはずはない。では苦しみでもなく楽しみでもない状態が「楽」であるのか。もちろんそのような状態が楽だともいえない。人生において、これほど退屈で活気のない姿はないからである。そこに真実、楽しみなどあるはずはない。では、「楽を断ずるをもっての故に、則ち苦有ることなけむ。無苦無楽いまし大楽と名づく。」とは、どのような意味なのであろうか。その答えは「涅槃の性は無苦無楽なり」であろう。世俗的な場での「楽」の求めを、完全に断つということは、生の執着によってに生じる暗くの心を超越することにほかならない。この心がいま、「無苦無楽いまし大楽と名づく」と結ばれている。だからこそ、涅槃が大楽なのであり、「よろづのたのしみつね」といわれるのである。 この故に「極楽無為」は、楽の究極としての「無楽」の意となる。ではその無楽の涅槃界とは、どのような浄土なのであろうか。『唯信鈔文意』の次の文に注意してみたい。 涅槃界といふは、無明のまどひをひるがへして無上覚をさとるなり。界はさかひといふ。さとりをひらくさかひなりとしるべし。涅槃とまうすにその名無量なり、くはしくまうすにあたはず。おろおろその名をあらはすべし。涅槃をば滅度といふ。無為といふ。安楽といふ。実相といふ。法身といふ。法性といふ。真如といふ。一如といふ。仏性といふ。仏性すなはち如来なり。 界とはさかい、境界の意である。「無明の惑いを翻して、無上覚をさとる」と述べられているから、覚りと迷いを分けている境目が、いま「界」と呼ばれている。そして、無明の惑いの境界を越えて、覚りに至った場が、無上覚であり涅槃となる。ではその「涅槃」とは、いかなる場なのであろうか。涅槃の義は深遠であって、その義を詳細に述べることはできない。不十分ではあるが、涅槃の同義語をいくつか拾ってみると、「滅度・無為・安楽・実相・法身・法性・真如・一如・仏性・如来」といった語を涅槃に重ねることができるという。この中「無為・安楽・常楽」の語意については、すでに検討を終えている。いずれも、世俗の執着の場における感覚的・快楽的な楽を意味するのではなく、この語の内実がそのまま「実相・法性・真如・仏性」等の同義語とみなされるのである。そうすると、涅槃界としての阿弥陀仏の浄土は、固定的な場所ではありえなくなる。 そこで「涅槃界」はさらに、 この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり。 と解釈される。法身であり一如である如来は、無限の国土の微塵の世界に満ち満ちている。したがって一切の群生海、生きとし生ける衆生は、心のすべてが常に、何時いかなる場においても、如来で満たされているといわなくてはならない。ではこの群生海は迷っていないのか。ところで親鸞は、この群生海の心について、『教行信証』「信巻」の三一問答で、 一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心無し、虚仮諂偽にして真実の心無し。 無始よりこのかた、一切の群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽無し、法爾として真実の信楽無し。 微塵世界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心無し、清浄の回向心無し。 と述べている。一方では、微塵世界の一切の群生海の心には、常に真如法性、真実清浄の如来が満ち満ちているといい、他方ではまったく逆に、微塵世界の一切の群生海の心は、今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、一片の真実清浄の心もなく、煩悩界を流転し続けているという。これをどう理解すればよいのであろうか。 涅槃界と煩悩界の関係がここで問題になる。界は境である。涅槃と煩悩の境はどこにあるのであろうか。これをもし場所的に捉えようとするならば、この疑問には絶対に答えられない。同一の心の全体が、常に清浄真実であり、同時に穢悪汚染であるということは成り立たないからである。また心の状態として、それを考えることもできない。ある状況で真実になり、ある環境では不実になるとすれば、「常」とか「一切」の語は使えないからである。宇宙全体の微塵世界の一切の群生海の心には、常に清浄なる如来が満ち満ちている。同時に、その一切の群生海の心の全体は、常に、穢悪汚染・虚仮諂偽でしかない。この真理を示しているのが、「縁起の法」だと思われる。 仏教では、宇宙の一切が「縁起」だと説く。したがって、この世で縁起でないものは存在しない。衆生の心は、覚りと迷いに二分される。その境目が「界」である。前者が涅槃界であり、後者が煩悩界である。だがこの両者は共に、縁起の中にあるのであって、決して縁起の外にあるのではない。涅槃界の衆生も煩悩界の衆生も、すべて同じく縁起的に生かされている。では涅槃と煩悩、覚りと迷いの「界」はどこにあるのか。両者とも縁起の中にあって、縁起の真理を覚知するか否かによって、その差が生じる。縁起を見るものは仏を見るといわれるが、まさに自らの全人格的な場で、縁起の法を覚知したものが、仏陀・如来・仏性であり、覚知しえない者が迷える凡夫である。 だからこそ、如来・仏性はこの縁起の法と共にあって、未だ煩悩界の中にある衆生に対して、縁起を覚知せしめるために、種々の方便をとおして、この法の真実を説き続けている。煩悩界の衆生は、その一切が穢悪汚染でしかないが、それ故に。その煩悩界の一切に。真実清浄の如来が満ち満ちてましますのである。「草木国土ことごとくみな成仏すととけり」といわれているが、その一切が如来に満たされているのであれば、如来でない草木国土はありえないとみなければならない。 いまここで、『一念多念文意』の「真実功徳」の説示に注意したい。 真実功徳とまふすは名号なり。一実真如の妙理円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまふなり。一実真如とまふすは、無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり。法性すなわち如来なり。宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のさかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆへに、報身如来とまふすなり。 「真実功徳とは、名号のことである。その名号は、一実真如の妙理を円満している。それ故に、この名号は大宝海に喩えられる。一実真如とは、無上大涅槃であり、涅槃とは法性であり、如来である。宝海とは、如来の真実功徳は、一切の衆生をまったく差別することなく、平等に、その無上大涅槃に導きたもうている。そこでこの功徳を、大海の水に喩えている。」引文前半の大意は、ほぼこのように理解することができる。この「名号」を「自然法爾章」の文に重ねてみたい。そこでは、弥陀の誓願は「南無阿弥陀仏とたのませて」一切の衆生を無上仏にならしめようと誓われている、という。南無阿弥陀仏こそ、真実功徳、一実真如の妙理を円満している名号にほかならないからである。まさにこの名号が、大宝海だとされ、この大宝海が、一切の衆生を平等に、無上仏に導いているのである。そうすると、一声一声の称名には、大宝海の功徳が満ち満ちている。その称名に差別はありえない。一切の衆生は念仏とともに、平等に大宝海に摂取されている。この真理を衆生に知らしめるために、真如が阿弥陀仏という仏となって、この世ら出現したのである。 引文の後半は、この阿弥陀仏出現の原理を語っている。名号が「一実真如の妙理」を円満しているのは、真如が仏の法蔵の一切を菩薩の相に示し、無碍の誓いを起こして、光明無量・寿命無量の功徳を成就した。その相が南無阿弥陀仏である。したがって称名するということは、阿弥陀仏の大悲心が「南無阿弥陀仏」という大行となって、衆生の心に来たっていることにほかならない。念仏が念仏者を「きらはず、さわりなく、へだてず」平等に救うのは、必然の道理である。この救いの構造が「極楽無為涅槃界」の文の結びで、より詳細に次のように説かれる。 この一切有情の心に方便法身の誓願を信楽するがゆへに、この信心すなはち仏性なり。この仏性すなはち法性なり。法性すなはち法身なり。 なぜ一切の有情は、やがて必ず、阿弥陀仏の誓願を信楽するのか。この論理構造は「信巻」の三一問答に明らかである。まず字訓釈において、本願の「至心信楽欲生」の三心は、本来、真実清浄の信楽の一心であって、この心にはいかなる虚仮も邪偽も雑わらないとされ、次いで法義釈で、その信楽の一心が、至心信楽欲生の功徳のすべてを名号におさめて、衆生に回向される。この大悲心の躍動が、この『和語』で「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからせたまひたる」であり、そしてその「はからい」が、阿弥陀仏の衆生に「自然のやうをしらせんれう」であったのである。このように弥陀は常に、名号を通して、本願の信楽を二心なく信ぜよ、と勅命されているが故に、衆生はやがて必ず、阿弥陀仏の信楽を信知するに至る。この自然の道理を親鸞は『尊号真像銘文』で「如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば信楽とまふすなり。」と説く。衆生が「誓願を信楽する」すべてが、阿弥陀仏の信楽の「はからい」による。この信心を「信心すなはち仏性」だというのである。 しかれば仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまうす。ふたつには方便法身とまうす。法性法身とまうすは、いろもなし、かたちもましまさず。しかればこころもおよばず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす。その御すがた法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。 では「信心すなはち仏性」とは、どういうことか。仏性とは、法性であり法身である。したがって如来の心は、本来無上仏であって、「かたち」はましまさない。ところでこの仏性が、衆生の心に信心を生起せしめる。そうすると、「法身」には二種の相がなければならない。一は衆生にとって、いろもなく、心もおよばず、言葉では表現できない、一切を超越している、法性としての法身であり、二はその衆生の心に信心生起せしめる、一如よりかたちを現した、方便法身としての法身であり、二はその衆生の心に信心を生起せしめる、一如よりかたちを現した、方便としての法身である。その「御すがた」が、法蔵という菩薩の相を示して、不可思議の大誓願を起こし、光明無量・寿命無量の功徳を成就して、この世に出現した。この「御かたち」を、天親菩薩は「十方無碍光如来」と名づけられ、自らこの如来の浄土に生まれるべく、天親自身、一心に帰命している。 さてこの阿弥陀仏は、誓願の業因にむくいて成就した仏であるから、報身如来である。「報といふはたねにむくいたる」という意味だからである。そこで天親の「尽十方無碍光如来」の意を受けて、親鸞は「極楽無為涅槃界」の教示を、次のように結ぶ。 この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無碍光仏とまうすひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず。すなはち法性法身におなじくして、無明のやみをはらひ、悪業にさへられず、このゆへに無碍光仏とまうすなり。無碍は有情の悪業煩悩にさへられずとなり。しかれば阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし。 「尽十方無碍光仏」とはどのような仏か。「尽十方」とは、宇宙の全体、どのような微塵世界をも覆い尽くす、の意である。この仏は法性法身に同じであるから、色もなく形もましまさない。しかもこの仏は、無碍の光を放ちたもうている。無碍とは、いかなる障害物にも邪魔されることはない。無明の闇を除き、一切の悪業に障碍されない。どのような悪業煩悩を持った有情であろうとも、その無明の心を問題にしないで、闇を根本的に除き、光明で輝かす。それが無碍光の徳であり、その光明が「智慧のかたち」である。この光明が無量・無辺・無碍と呼ばれるのは、この仏の智慧の功徳性を示している。 では、光明が智慧の「かたち」だとして、それはわれわれ衆生にとって、具体的に何なのだろうか。無限の智慧は、法性法身に同じであって、凡夫のよま知りうるところではない。だからこそ光明がその象徴になるのだが、日月の輝きをとおして、光明の徳性の一端を知りうるとしても、仏の光明はやはり「いろもましまさず、かたちもましまさず」であって、光明の輝きそのものは、凡夫には把捉しえない。ではその光明の「かたち」とは何か。『浄土和讃』に、 光明てらしてたへざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆへなれば 心不断にて往生す という一首をみる。この中、「聞光力」の語に、「ミダノオンチカヒヲシンジマヒラスルナリ」と左訓されている。「弥陀の御誓い」とは、「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」誓いにほかならない。「南無阿弥陀仏」は、諸の善法を摂し、諸の徳本を具した、真如一実の功徳宝海であり、称名よく衆生一切の無明を破し、志願を満てたもうからである。したがって「聞光力」の「光」が「念仏せよ。救う。」という音声であり、「聞」が、称名する念仏者が、その尽十方無碍光の勅命を信じる心となる。まさに尽十方無碍光如来の、光明の「かたち」こそ、「南無阿弥陀仏」であったのである。 では、阿弥陀仏の「極楽無為涅槃界」とは、どのような浄土なのか。極楽といい安楽といい安養という。けれどもこれらはすべて「無為」の語の形容であって、無為とは、虚無であり実相であり真如であり法性であり法身である。したがってこの土は、法性法身に同じであって、楽の究極、無苦無楽の涅槃界である。一実真如功徳大宝海の浄土は、宇宙の全体を覆い、十方の微塵世界のすみずみまで、満ち満ちている。ただし一如であり法性である浄土は、いろもなくかちもましまさない。この浄土の本性は、迷える凡夫の思議を超えている。ただし浄土の存在は、その迷える凡夫を救う場として、ましますのである。そのために、浄土は真如のままで、衆生の現前に相をあらわさなくてはならない。それが真如の智慧、尽十方無碍光という光明である。それ故に親鸞は、「真仏土巻」で、「真仏・真土」について、仏は不可思議光如来であり、土は無量光明土なりと説かれる。だが、このように無量光明土といっても、その光明もまた、衆生の思議を超えており、凡夫がその光明に出遇うことは不可能である。 そこで真如の尽十方無碍光如来が、一切の衆生を、無上仏にならしめんがために、音声となって相を現わした。それが南無阿弥陀仏という言葉である。とすれば、南無阿弥陀仏を離れて、阿弥陀仏がましまさないのと同じく、南無阿弥陀仏を離れて、その浄土も存在しなくなる。つまり浄土は、存在論的にあるいは時間論的に、宇宙のどこかに存在するのではなくて、常に、愚かな凡夫を救うための場として、十方の微塵世界にある。その救いのはたらきが南無阿弥陀仏である。阿弥陀仏と同様、浄土もまた、南無阿弥陀仏を除いてはありえない、といわなくてはならない。 では、いったい親鸞にとって西方の浄土とは何であったのだろうか。第十九願の自力念仏者は、懈慢界に生まれ、第二十願の自力念仏者は、疑城胎宮に往生するといわれる。だが、第十九願と第二十願の教えだとされる『観無量寿経』と「阿弥陀経』には、懈慢界も疑城胎宮も何ら説かれていない。そこに明かされる浄土の教えは、『無量寿経』に説く西方の゛浄土と全く重なっている。そしてその浄土を、浄土教一般では、真の報仏報土だと解している。 ところで親鸞は、金・銀・瑠璃等の自然の七宝で荘厳される、その西方十万億土の浄土を、方便化身土と捉えるのである。ただし親鸞には『文類聚鈔』に「西方不可思議尊」という帰依の表白があり、また『教行信証』でも随所で、阿弥陀仏の浄土を「西方」と、存在論的に捉える。またすでに述べたように「さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずまちまいらせさふらふべし。」と手紙に認め、死後に生まれる浄土が実体的に語られている。懈慢界や疑城胎宮の問題とは別に、一方では「仏は無量寿観経の説のごとし。土は観経の浄土なり。」と、その浄土を方便化身土としながら、他方において、このような西方の浄土に心から帰依している親鸞の姿が見られる。これをどのように理解すればよいのか。 もは真仏・真土という観点から、阿弥陀仏とその浄土を捉えようとすれば、仏は不可思議光如来であり、土は無量光明土であるから、時間論的にあるいは存在論的に、方向・時間・形・量等が存在する仏身仏土はすべて、方便化身土だといわなくてはならない。その意味からすれば、すでに見てきたように、私たち凡夫に触れることのできる真仏・真土は、真如からの音声として出現した「南無阿弥陀仏」しかない。光明無量・寿命無量の、ただ一つの相としての一声の称名が、唯一の真仏真土になってしまう。したがって親鸞思想からすれば、西方の十劫成仏の阿弥陀仏と、真如法性・無為法身としての南無阿弥陀仏を、ともに真仏真土だとする義は、同時には成り立たない。やはり前者は方便化身土であり、後者が真仏真土だとしなければならない。親鸞は決して、西方に荘厳される阿弥陀仏の浄土を、一方で方便化身土だと信じながら、他方において、その浄土を真仏土だと信じたのではない。二心がないとされる真実信心には、そのようなことは起こりえないのであって、同一の「信」で、もしそのような心を同時に成立せしめようとすれば、それこそ自己分裂を起こし、かえって疑惑心に堕してしまう。 親鸞ににとっての真実は、南無阿弥陀仏がすべてであって、この一声の称名が、阿弥陀如来の清浄願心によって回向成就された、行であり信であり証であり真仏土であったのである。だがこの真理が親鸞に信知せしめられた時、その時同時に、このような獲心を親鸞に生起せしめた、阿弥陀仏の方便の一切が、親鸞にとってまさに、阿弥陀仏の大悲心そのものだと領解されたのである。だからこそ、阿弥陀仏方便変化の所作として、浄土三部経に説かれる説示の通り、真の仏身仏土として、親鸞は受け入れたのである。 私たち愚かな凡夫にとって浄土とは何か。科学的な知識教育を受けた、今日の我々にとっては、素直に、存在論的な浄土を信じることは出来難い。西方十万億の浄土。十劫の昔の阿弥陀仏の成道。いかに信じようとしても、そのような浄土や仏の存在を信じることは、現代人には不可能となっている。だからといって、無為・法性・実相・真如を浄土だということもできない。人間の知性と関わりえない虚無の世界をいかに浄土だといっても、そのような浄土は凡夫にとっては無意味でしかないからである。なぜわれわれ凡夫の社会に、いま浄土が必要なのか。今日の我々凡夫は、現実の世を虚無として、真に生き抜く力はなく、死後に生まれる西方の極楽も信じられない。だからこそ、凡夫が、この世を真に生きる無限の力強さと、限りない暖かさが、いま必要とされているのである。 親鸞の浄土の思想は、そのための永遠の「生」を我々に教えている。「南無阿弥陀仏」に一切の真実を見た上で、その念仏が暖かい言葉となって、真実の道を語りかけているのである。私たちの感覚において、西方は、太陽が沈み一切が流れ行く寂滅の世界である。そこには例外は許されない。自分もまたそこに流れ往く。したがって、永遠の念仏の輝きの中で、従容として、この流れ往く自分を見ることができる。この念仏の輝きを具体的に表現すれば、結局、浄土の経典や『浄土論』に見られる、浄土の荘厳になってしまう。その結果、一声の南無阿弥陀仏が無限の浄土の輝きになる。この念仏の真理に生かされる者は、すでにはからいが完全に破られている。このような者の集いでは、現代であってもお互い念仏を称えつつ、「浄土でお待ちしています」と言ったとしても、そこに何ら違和感は感じられない。念仏をとおしてねその浄土が「極楽無為涅槃界」であると信知されていからである。 2. 「教学問題」について 3. 基幹運動に対するスタンス−親鸞思想の特徴を踏まえて− 4. 親鸞思想−「教行信証」を中心に− 5. 「法名の問題」−新・基幹運動− 6. 「真俗二諦の問題」 |
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