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【時代】
*
途上
行く方惑い
路に童の
家路を示す
詩の言葉
フルキヲアタタメテ アタラシキヲシル カ
ぼくらの時代 ぼくらの惑い
そもそも歌う 別離の帰り
足早なloafersの靴音
駅に張られたテント
寒さに身を寄せる男女
木洩れ日
電子仕掛けの大嵐(テンペスト)
羅針盤の暗号表示
解読に向かう人達の気息
海へ注ぐ川 轟きと槌音
百花繚乱 百家争鳴
いろんな花やいろんな家や
彩りの現在 通奏低音
点す明かり
時間の空間
*T.シュトルム 「湖」より「無題」
【街】
その日はいつものように、定刻に小さな仕事場を後にした。彼は、昨日、一昨日と同じように少し離れたビルの地下の喫茶店に向かい、鞄から本を取り出して読み始めた。それはいつものならいで、彼はそうマスターに伝えていたので、別に注文するのでもなく、テーブルにはキリマンジャロが運ばれてきた。この、Jazz喫茶店で幾時間かを本を読んで過ごし、その後帰宅するというのが彼の日課だった。仕事が終わってからすぐに家路につくというのはこの二年の間ほとんど絶えてないことだった。マイルス・デヴィスの「SOMETHIN'
ELSE」がレコードでかけられていた。かつて、彼のまだ彼女と出会う前に、いつも下宿の近くの茶店で聴いた曲だ。その音楽の中で彼は今朝通勤の電車の中で読み始めた本の続きを読むのだった。そう客は多くはない。いつもそうだ。これからの数時間は静かに過ぎていくようだ。
彼の場所はいつも決まっていた。そのテーブルでなければならないということはなかったのだが、より落ち着くことができるのは確かだった。
OLが、三人向こうのテーブルで話している。ノートパソコンの画面に見入っている若い男がいる。私服の高校生が、独りでジャズを聴いている。もう、一日ジャズを流している喫茶など、この街でもそう多くはなかったのだ。高校生か大学生か、学生風の女がしきりに入り口のドアを伺っている。待ち合わせの相手を待ってでもいるのだろうか。ぱらぱらとかすかに人の流れがある。マスターは、その他にはアルバイトの女の子が一人いるだけなのだが、ゆっくりとコーヒーを煎れている。この店はコーヒーがうまいということで、街の中で知られていた。彼はしかし、客に話しかけるというようなことはほとんどなかった。必要のない限りカウンターの中で、足を組んで曲に聴き入るというのだった。ビルの地下の喫茶でこのような店は珍しかった。しかし、この店はこのようで、このビルの中、この街の中に位置を占めていた。この店に繋がる者達は確実にいたし、また、いかなる客をも躊躇わせる空気は店の周りの空間に流れてはいないようだった。
三月のまだ夜はかなり寒い日だった。ここに来る前にホームレスに会った。この街にもぽつぽつとホームレスと呼ばれる人たちに出会うようになった。一時の陰鬱な、後ろ向きの時代がようやく過ぎようとしている、どこからか、未来に向かう活気を含んだ新しい風がようやく吹き始めてきたこの時に、むしろジョン・グリシャムの小説にある、'bum'という荒んだ言葉が重なるようにな人々が街の風景の一部をつくり上げていくのをみるのはどことなく胸を騒がせるものがあった。もう二十年以上も前の学生時代、神戸の駅に早朝降り立ったときに、駅の外のアスファルトの上に体を丸くして寝ころんでいた人たちがいた、それが思い起こされた。街の風景が時代の変化に伴って変わってきた。
そのようなことを思いながら、本を読み始めて、しばらくの時がたった。OLや、人待ち風の女の子も、ノートパソコンの若い男も、もう店にはいなかった。ただ、ジャズを聴く高校生だけが変わらずに、冷えたコーヒーを前にして目をつぶり、腕を組んでいた。彼も、もう場所を移す時間だった。いつものように。「これから今日はどこに行こうか」と、彼は思うのだった。どこかに行かなければならなかった。しかし、今日はどこに行けばいいのだろう。それは、いつものことだったのだが。
友人のマスターは、ただ料金を受け取る。彼は、地下から地上に上がっていく。三月の風が頬にあたる。秋ではないのだ。夏でもなく、冬でもない。巡り来る季節を予感させる夜だ。
繁華街に向けて歩いていった。その街は明確に区画が区切られていたのだが、その縦と横の道はどこに向かうのか彼には定かではなかった。彼は自分が進む縦と横の道が、迷路を成しているようにも思われるのだった。「何処へ行こうか」と、繰り返し自問するものがあった。「行くべきところはないのだ、帰るべきところはないのだ」という、彼の彼方から語る言葉をどこかで聴きながら。「いつから、このように街を歩くようになったのだろう」との、想いが浮かんだ。このようにして、様々なおぼろなものが、歩く体と共に運ばれていくようだった。
「The House of A」の前を通る。硝子に長村の作品展の案内が張られていた。長村は知っていた。ドアを開けた。長村はいなかった。こぢんまりとした茶店の壁にこの街では独特な個性を放つ長村の作品が並んでいた。「九時頃に来ますよ」とカウンターの女主人が言った。作品は独特の光彩を放っていた。薄暗い夜の光で作品は夜の言葉を語っていた。作品の前に立ち、じっと見つめていると作品との間に自ずから対話が始まるのだった。対話を促す作品はそう多くはない。長村の作品からはくっきりと描かれているものの輪郭が浮かび上がってくるようだった。「絵画の特性として、一般にそれなりに描けて、それなり見せる」という意味の言葉が確かゲーテにあったはずだ。しかし、長村の作品からは描かれてあるものがすっと、見るものに現前するようだった。「長村さんの作品は・・・」と言いかけた。「そうね、いろいろな見方をする人がいるから」と遮るように彼女は言った。その言葉はどこか不快な色合いを帯びていた。「才能と言いたいのでしょう」と彼女は続けた。「そう才能」と彼は言った。「詰まるところ才能にすぎないのではないだろうか」とさらに言った。女主人の表情に険しいものが走るのを見た。「The House of A”。The Den」と彼はつぶやいた。「この街の一つの風景」とさらにつぶやきが重なった。
ある暗い小路を歩いていた。行きつけのスナックで少しの酒を飲み、それからだった。そこは、いつも通る小路のようだった。路と路の交差する空間の角の店の傍らに来たときだった。その店を目指して歩いてきたのではなかったが、そこに彼はたどり着いたようだった。小さな小料理屋だ。暖簾の掛かる曇りガラスの入り口が白熱灯のランプのように明るかった。彼は、戸を開けてカウンターに座った。まだ、酔うほどでもなかった。しかし、座ってから気づいたのだが、彼は、若い女性の傍らに腰を掛けているのだった。店には彼女だけしか客はいなかったのだが。いすに、互いの身体を傍らとしてみると、ほのかな女性に特有の熱を感じて、彼は傍らの彼女の存在を知るのだった。「これは」とは思ったが、すぐに座をずらすのは逆に憚れるようで、「直ぐに出るのだから」という思いもあるので、しばらくはこのままと、思うのだった。彼女は彼の傍らに腰を掛けるのが何処といって気にならないようだった。まるで、彼がそこにいるのが空気の周りにあるように、水が魚に違和を感じさせるものではないように、少しの気にもなるのでは無いかのように、箸を皿の上に落とし、琥珀の水割りを飲んでいるのだった。彼も、カウンターの中の和服のまだ若い女性に、注文の言葉だけを言い、どこかを見つめるように過ごしていった。
その空間にはこのように三人の男と女がいたのだが、あのビルのジャズ喫茶のように、誰もがそれぞれの振る舞いに、遊んでいるかのようだった。かといって、それは息苦しいものではなく、奇妙に。
しかし、そのうちに、次第次第に思いが移るように、彼は妙に彼女ら二人と語りたいという気持ちになってきた。こうしていると、その日の彼の所在のないものが、どこか落ち着き所を見いだしたかのような気持ちにもなるのだった。
「この店に来たのはいつだったろうか」と、彼は、カウンターの女性に言った。
「二年前の冬よ。雪のひどく降った日」と、彼女は、その日をはっきりと思い描くことができるように彼に言った。
「その日も、客はぼくと、他に1人いるだけだったのではないだろうか」
「そう、東京から来たという、若い人だったわね」
「女性だったね。綺麗な人だった」
「すらりとした、髪の長い人」
「年は、いくつくらいだったろうか」
「まだ青春の、どこか香りが残るような」
「彼女は寒さに凍えていたね」
「そう、熱燗を美味しそうに飲んでいたわ」
「ぼくは彼女と話したろうか」
「いえ、あなたとあの人はすれ違ったのよ」
「だから、なおさらに、ぼくは彼女のことを覚えているよ。ぼくはもうこの年だが、それでも彼女のことは記憶に残っている」
「あの方と似ているのですか」
「いや、彼女とは・・・・・」
『時の空間』(二)
ここで話は途切れた。彼は見えないものを手繰ろうとした。「眼」は、姿であり、香りであり、思いであり、記憶であり、音である、そのような「形象」として現れてくるものを追った。二年前の冬とこれから。
昔、戯れ唄を作った。
夜の巷をさすらう人は
昼の巷の迷い人
破れた衣を繕うように
紫煙の酒に
戯れる
真田の生き方がうらやましくなることがある。山と森をやり、自由に、好きなジャズ喫茶を仕事にし、家庭の束縛もない。人生のこれからに思い煩うことも少ない、どこか解き放たれたような人生。このようにいうと、「そんなんじゃないけどな」という言葉が返ってくるだけだが。「しかしな、俺はこれでいいよ。いま以外のものはそう欲しいとは思わないし、死ぬのなら、今日でも明日でもいい。別に悟ったようなことをいう訳じゃない。強いていえば、身からの思いだ」。
「高校を卒業してからいまに至るまでずっとそうだな」
「別に考えてこのように生きてきた訳じゃないんだ。まっすぐ歩いていると二股か三叉路に出るだろ。その時に、あれこれ思案して、右か左か真ん中か、自分に相談し、場合によっては他人の意見を求めて、計算をして、ようやくどれかに決めるということもあるだろうけど、俺の場合は単純なのか、そんな迷いが少なかった。なかった訳じゃない。しかしほとんど、スッと選べた。高校を卒業して、大学に進まずに、好きな山を選んで強力(ごうりき)になって、それからジャズ喫茶を開いて、山をやる、森をやる、手作りの家造り、庭造りをする、気が向いたら庭にテントを張って、夜空を見ながらウイスキーを飲んで眠る。満足だ。これ以上の生き方は俺にはないと、心の底から思う。だから、スッと、単純に右左真ん中を選んで来たことは、俺にとっては正解だった。それに対して、大学に進んで、世間でいうまともに生きる道を選んだ奴らは、どうだろう。いま、どう思っているだろう。それはそれで自分の選択だ。他者がとやかくいう問題じゃない。野木、俺は自分のこころの内で、繰り返すけれど、満足なんだ。これ以外の生き方を、仮に計算で選んでいたら、俺の今日の楽しさは無い。それは断言できる。鳥や獣にはそれぞれ生きる場所があるだろう。鳥に土の中で生きろというのは、モグラに樹木で、というようなものだ。ひとり一人の人間にも正解のない、どちらを選ぶということしかないのだろう」
野木は真田のように生きることができなかった。真田にあるものが野木に欠けているのか、それとも、余計なものが付着して、すっきりとそぎ落とす、洗い流すことができなかったのか。または、その付着はそもそも余計なのではなく、ある時に至るまで厭わしいものであっても、いずれ化学反応のように変容をもたらすものなのか。確かなことは、野木は右左真ん中の折りに臨んで、真田のようなきっぱりとした選択はできなかったということだ。
結婚し、結局は別れたこともそうだ。彼女が現れた。妻がいた。彼女に走ることもできずに、しかし、妻との生活を続けることもできずに、妻とも彼女とも別れた。もう十年以上もの時が経ったが、野木はいまもその自らの蹉跌を精算することができず、どこか反復をしている。
「俺から見れば、野木の場合も、こうあるしかなかったのだし、いまもそうあるしかないのだと思うがな。野木に限らず、多かれ少なかれ、みんなそうなんじゃないのか。俺自身を含めて。山で裁判官に会うことがあった。彼と話をしたのだが、その時もそう思った。ただ、これは俺の立場からいうのだが、彼が決定的に彼の人生を生きようとするのなら、その裁判官についていうのだ、彼が街も、法服も捨てて山守に転身したなら、どんなに幸せなことかと思ったよ。真実そう思った。だけどな、野木、お前は山守にはなれない。当たる、当たらないの八卦じゃないが、下手な占い師を演ずる訳じゃないが、お前は、仕事の帰りに俺の店に寄って本を読んで、街に出る、もう一年以上もそうだ、そうすることで成るものが、一番お前にとっての『山守への転身』なんじゃないか」。
真田とのこのような会話が反復される。
日曜の午前だった、二人の話を聞くのでもなく、佑美が真田に代わってコーヒーを煎れていた。「才能があるんだよ。演劇をやる奴はコーヒーの点て方も上手いということを知ったよ」と面白そうに話すことがあった。まだ十九歳の彼女は、高校を卒業してすぐ、真田の茶店でアルバイトを始めた。「押しかけバイトさ。ただ、佑美のおかげで自由がきくようになったのは有り難い。ふらっと、茶店を開いていても山に行ける。さすがに、仕事は生活の元だから、山だから茶店は閉めますとは、言えない。佑美が押しかけてきてくれて感謝しているよ」。佑美はなにも言わずに、にこにこしながら、その話を聞いている。「長村の紹介さ。高校の後輩でもあるし、長村の知り合いでもあるし、俺の都合も良くなる。俺がやっていて傾かない店だから、彼女がいると上向く。いいことずくめだ」
「舞台です。高校の演劇部の関係で、長村さんと知り合いました。真田さんと同じように、わたしもあまり迷わず、演劇を中心にすることにしました。『四角い円』に所属しています」。
長村は舞台をつくっていた。サラリーマンのかたわら、絵を描き、舞台をつくる。雪の日に、この小料理屋で二度目に沙璃と会ったときに、長村も一緒だった。長村が女友達と二人で、偶然にもこの店に来たのだ。
このようにして、形象の舞台が回っていった。
傍らの彼女が気になるようになった。どこかで会ったことがあるような気がした。二年前の冬の沙璃が連想された。彼女も、そもそも無縁な者同士が偶然に出会ったというのとは異なっていた。初めての街に立って、「ここに来たのはいつのことであったろう」と振り返る、既視感に似たものを彼女と出会ったときに感じた。沙璃と彼女が、時と空間を超えて、関わりを持っているような心持ちにもなった。「この一年以上、さながら過去の記憶、思いの蔵を巡っている。それからの妄念だろう」などと、心象の風景を見つめて、自らを嗤った。そうして、嘲笑と微笑の起こって、こころの強ばりが解けようとしたときに、彼女が彼に語りかけてきた。
「お話を聞いていたのですが」と、まっすぐに彼女は言った。
このように語りかけられて、はじめて正面からその顔を見た。若さとともに、成熟の香りを漂わせていた。
「二年前の雪の日のことをですか」と、応えた。
「ええ、春と冬との違いはありますけれども、お話ではまるでいまのこの店と同じように思えて、なにか、興味が起こります。というのか、失礼なものの言い方をするようで、お許しいただきたいのですが、おもしろくなったものですから。私も、東京から来ました。北海道に冬に来るときには、特に寒い夜には同じようにこのようなお店に来て熱燗を飲みます。とても美味しく、身体が温まります」
その時のことが彼女の問いかけをきっかけとして鮮明に思い浮かんできた。「あの頃からだ、このように、彷徨いのようなものが始まったのは」。沙璃とは三度会い、そうしてすれ違ったにすぎなかったのだが。しかし、確かにあの出会いを境に、彼の人生のそれまでとそれからが不連続に区切られた。「時間」ということを考えた。あの時にも「時間」を思い、いまも「時間」の二文字を思うようになる。
もう十年以上も前に、「彼女」と出会ったときに、「時間」についての奇妙な思いを詩の形に綴った。
個にある
固有の
「自分の時間は自分の個性」
という、
自分には自分の時間があることを
感ずることがある
それは、教科書に書かれ、
実験室で量られる、
物理学の標準的な時間ではなく
愛とか、哀しみとか、喜びとか、憂いとか
そのような自分に生じる諸々の動きと
切り離すことが出来ない、というのではなく
その動きそのものであるという
自分の時間だ
与えられた、一律の時間ではなく
いまここにこのようにしている自分を
そもそもにそうあらしめている
そのような時間だ
時間は個性的で
二人の人がいるときには
二つの時間が
彼ら二人に流れているのだ
ただ、愛という関係は
二つの時間を
一つの流れへと
否、
二つの時間が一つとなるときに
愛が成り立つのだろう
愛の関係が
二人の時間を生むという
真実とともに
愛は逆説であり、愛は二重であり
愛は時間的であり
その想念が、野木の内で未だに解決されていないものとして、響いている。
「わたしにもお酒を飲みます、熱燗で」と、カウンターの中の瑤子が言った。
「冬の熱燗と春の熱燗は違うものですね」と、彼女は誰に言うともなく言った。
「酒は」と、野木は言葉を継いだ。「よく思います。記憶と出会うために飲むのではないか、酒によって、記憶が再び交叉するのではないか」
「記憶、ですか、、、」、「違った響がします」、瑤子は言った。
「二年前のことでしたね」と、彼は言葉を続けた。
雪の降る日
「あの日はどうしたのだろう、仕事が終わって、どうも、その一日の興奮のようなものがあって、この街に出た。もちろん独りで。ぼくは酒を飲むときは付き合い以外はひとりで飲むことにしています。それがいい酒かどうか、あまりいい酒ではないとしても、そのように飲みたいのだから、社会に出てからは専らそのような飲み方をしてきた。学生の頃は友人と飲むことが多かったのですが。それは、もう遠い日のことであるのは、さすがにもう分かっている。言わずもがなのことを言うのですが。
それで、茶店に立ち寄った、その夜はそう長居をすることもなく、外に出て、何度か来たことのあるこの店に向かいました。外に寄り道をすることなく、ただこの店に一直線のように向かったのです。よくあるでしょう、寄り道しつつなどと、気持ちの方向が拡散していくのと、あるところに向かってどんどん進んでいくという、異なる気分の時が。まるで、長い間欲しくてたまらないものをようやく買うお金ができて、財布を握りしめて急ぐ、或いは恋人との待ち合わせに向かうときのような、それと同じような気持ちなのですが。誰にでもある経験のはずです。
その日はそういう気分だった。半年掛かりの仕事に一区切りつきということもありました。どこか高揚した気分だった。
よく、外国語を勉強し始めて、一冊の原書に取りかかる。それを辞書を引きながら苦労して読み、一日に一ページも読むことができない日が続き、数ヶ月をかけてようやく読み上げる。一つの作業を終わった祝祭的な気持ちになる。長く関わってきた仕事を仕上げる、区切りをつけることころには高揚が伴います。それまでの緊張とその裏にある充実した時間。それが片づいたことの、解除と解放。そのようなものがあるでしょう。
同時にそれは、対象を、方向を失うということでもある。その夜はそのような気持ちでした。雪の降る寒い日でした。ぼくは仕事場を離れて、地下の喫茶店に行った」
「喫茶店?」
「ビルの地下に喫茶店があるのです。古い友人の。高校が同じで、まあ、友人といえるでしょう、彼の喫茶店に、ふと息をつきに行く、帰りがけに立ち寄る寄る。そこに降りていきました」
「そうして?」と、彼女は問う。
その言葉から彼女の面を見つめたのだが、眼がキラキラと輝いていた。その眼が、野木に向けられて、促すようだった。酒を猪口についで、しばらく手に保ちながら、あの日に分け入って行こうとした。見知らぬ彼女と、カウンターの瑤子に語りながら、記憶に。
「そうだ、真田の茶店でも妙に落ち着かない気持ちだったのだ」。記憶が彼の前景に現れてきた。
店にはいると真田は、棚からレコードを出して、かけてくれたた。「マイファニー・バレンタイン」だ。もう、普段はCDだが、時々LP盤をターンテーブルに載せてくれることがある。それは真田の心遣いだった。野木は曲を聴きながら、、壁に掛けられた無音の振り子時計の揺れに目をやっていた。真田はいつもは、話しかけてくることは滅多になかったのだが。
「今日はなにか特別な日なのか、いつもと少し違うようにみえる」と、薄暗いカウンターの中で本に目を落としながら言った。「取り掛かってきた仕事が終わった」と、応えた。「それじゃあ、コーヒーだけじゃなくて」と、棚から赤ワインを取り出して、佑美にそのグラスをテーブルに運ばせた。真田にはそのような気遣いをするところがあった。自らもグラスにワインを注いで、それを読みかけの本の横に置いた。
「雪が降っていますから、寒いですから、温かくなります」と、グラスを置きざまに彼女は言う。「砂糖とハーブを入れたドイツ流もいいかもしれない」と、野木は言った。
傍らの女が佑美について聞く。
「この街には演劇集団が幾つかあります。彼女には、それは学校であり、表現の場です。そこは創作をする、絵を描く者たちが交差する場でもあるようですが。彼女は佑美さんというのですが、目から広がる表情がキラキラとしている。彼女が舞台を指向するのは、その形姿からなるほどなと思う。容姿、造作だけでをいうのではないですよ。ところで、あなたはジェコメッティという画家、彫刻家を知っていますか? 彼女の「眼」をいま言いましたが、ジャコメッティに次のような有名な言葉があります。確か、このようだった」
「ある日少女を描いていたとき、突然、生命はただ彼女の見つめる眼にあるのだということに気がついた。眼のほかの頭部はさながら死者の骨と変わるところがないのだと。
生き生きとした人間を彫刻に表現しようとする。その時、彫刻家は思う、疑い得ないほどに。対象の生命はその眼に由来するのだ、ということを・・・。ほかのすべてはただその見つめる眼の枠組みにすぎないのだと」
『時の空間』(三)
「長村が美術を担当した『四角い円』という劇がありました。台本は市内の創作同人誌のメンバーによるもので、題名は劇団名の『四角い円』だった。『四角い円』という名称は、多少奇をてらった趣はありますが、そもそもの矛盾を表しています。登場人物は四人プラス一人。長村は白地のキャンバスに四人が円を成すような背景を描きました。プラス一人の姿は、ただ気配としてそこにあるかのような描き方です。佑美さんはそのプラス一人の役だった。その絵を背景にして劇は進みます。そもそもの矛盾が進行していく。そうして、劇は始まりの時とほとんどなにも変わることなく終わります。最後のシーンでは、四人はキャンバスを身に巻き取るようにして舞台から消えていく。佑美さん一人が舞台に残る。舞台から観客のひとりひとりを見つめる。席に眼を走らせる。それから膝を抱えてうずくまる。幕は下りない。明かりが次第に落ちていく。闇の中で、彼女の表情が残像として残る。不可解な印象の固まりといったものが残される。彼女の眼です。眼が彼女の姿を現すだけではなく、舞台の成り行きを集約する。ジャコメッティの言葉に符合するものを感じました。台本の作者は別に彼の考えを真似たのではないでしょう。むしろ、このようにわたしは考えているのですが。ジャコメッティが微かな兆しとしてあるものをすくい取り、それを制作した、言葉にした、そのように見ることの大きな流れの中で、台本の作者はこのような劇を書いた、その役に佑美さんが相応しかった、ということなのでしょう」
「俳優は、時代に沿って相応し現れ方をするのかもしれませんね」と彼女はいう。
「個々の創作、舞台というものも、大小、有名無名に関わらず、時代の切実なものにいかほど触れ合うものであるのなら、その大きな潮流に棹さして成り立っているのでしょう。人の生き方についても同じようにいえるはずです」
「佑美さんの役について、彼女は劇の始めには気配というような位置づけだったのですね」
「この劇について語るのは本当に面白いのですが。アマチュアがそれぞれ思い入れを込めて作り上げたもので、位置づけとしては地方のささやかな創作活動にすぎないのかもしれない。しかし、観客としてはそのような尺度で作品を測ることなどくだらないことです。佑美さんについて、ですね、まずいるかいないかなのです。四人の絡み合いから始まる中で、彼女は姿をただ現したり、消えたりする。気配というのはそういうことです。四人が織りなす劇に彼女は組み込まれない。その外にあるようなのです。しかし、彼女がただそこにいる、消える、また現れる、四人は彼女にちらっと視線を送る、それで、四人の劇が微妙に移っていく」
「指揮者に似ている」
「そうなのかもしれません」
「観客との交流ではどうなのですか」
「呼吸というようなものが、ある方向に整えられていく、そのような感覚がありました」
「彼女によって」
「舞台によって、その舞台は気配としての彼女に気遣いながら、進んでいく。ですから、彼女によって、といってもいいのかもしれない」
「才能」
「ああ、才能、その眼、役者の存在」
「第二幕で、この劇は一幕四場なのです、四人の内の一人が彼女にある苛立ちを感じて、彼女を捉えようとする。その時に、非常につよい印象を残したのですが、効果的な、鳥のキィーという甲高い鳴き声が彼女の叫びとして起こる。キィー、キィーという音が舞台を覆う」
「鳥?」
「鳥の影がキャンバスを走る。音と鳥のような彼女の舞」
「それで?」
「その彼女を捉えようとした者は彼女の姿を失う。佑美さんはべールをまとう。彼には彼女の姿が見えなくなる。キィーとキィーという鳴き声がまた小屋中に響く」
「それから」
「後の三人には佑美さんの姿が見えている。捉えようとした彼にだけ、姿は隠されている」
「彼女は伸びやかにその役を演じる、のでしょう」
「真田の店でみる彼女の、その眼の力がその役の姿を覆うように、という比喩で形容したくなるのですが、役に身を移していく俳優の才能をみるようでした」
「舞台、小屋という異界」と、野木は思う。「異界であることによる、・・・」。
「鳥は」と佐和は言う、「昔話では、魂と結びついているのです。鳥の姿になったものが導く、鳥に導かれるという、童話の世界にはよく見られる、・・・」
このように舞台を巡って野木と佐和は語り継いでいった。
そうするなかで、彼女の匂いがいっそう強く感じられた。「偶然」について話題が移った。「わたしは偶然ということをよく考えるのですが」と、両手の指を組み替えながら佐和は言った。彼女の指は野木に見つめることを強いるようだった。指は物語を語っているかのようみえた。物語る手、物語る指がある。
「ジャコメッティの言葉。わたしもジャコメッティが好きです。テレビの番組で偶然に知りました。画家であり彫刻家である。それから興味が起こりましたから、インターネットで調べました。本も読みました。ですから、引かれた言葉は知っています。それから眼について。わたしもなぜかずっとこだわるものがありました。偶然です。それから」と言葉を継ごうとした。
「偶然って」と、瑤子がいった。「果たして偶然なのかと、わたしもお店をやっていてよく思うことがあります」
「ええ」と佐和はうなずく。
「いま、野木さんと佐和さんがこの場所にいます。二年前には沙璃さんが。いま野木さんは長村さんが関わった舞台について、『気配』と言われました。その舞台をいまこのお店に重ね合わせると、沙璃さんが気配として、プラス一人として同席しているというように思いを巡らせることもできるのですね。そのような趣を感ずることができます」
「鳥のような気配としての沙璃」。
空間はそれ自体ある様に変容し、姿をとることがある。空間は姿を持ち、姿を変える。わたしたちはそのように、空間を見ることがある。空間がそのような、イメージとして、姿を有するものとして現前することがある。また、特別な空間での特別な時間。空間と同じように、時間も姿を有し、姿を変える。空間も時間も個性を有する。「私」と特別に関わり、その関わりのなかで「私」にとってのという。そのような機会がふと訪れることがある。その特別な機会には、偶然は離れたものを引き寄せ、結びつける。その時、偶然は単なる偶然とは考えられなくなる。偶然は必然と見なされる。野木は佐和と瑤子と、気配としての沙璃を思う。時間も場所も、私性の色合いを濃くしていく。店の明かりが外を照らす。まだ眠らない街のこの店が私性を帯びていく。街灯が店を照らし、瓦斯灯のような光を店は放ち始める。そのような幻想の光景が、脳裏に走る。
「そういえば」と思い出されるものがあった。「沙璃さんとこの店で会った夜、長村もこの店に立ち寄ったのではないだろうか」と瑤子に言った。
「そうでした」
「一人ではなかった」
「友人の女性と」
「面識のないひとで、彼女とは話をすることもなかった」
「あのころは、長村さんは何度かあの方とご一緒に見えられることがありました」
「名前は」
「さあ、その後お見えになりませんから、なんというお名前だったか」
「ただ、微かな記憶なのですが、お二人で真田さんについて話されていることがありました」
「真田はぼくらの共通の友人だから」と、野木は言った。
真田の茶店と瑤子の店を繋ぐもの、往還する結ぶ糸のようなものがあった。さらに、"The House of A"があった。これらはあたかも彼らを繋ぐ糸の結び目のように見られなくもなかった。野木は佑美の強い眼を思った。その眼と、二年前に長村に伴われてこの店に来た女性の眼の印象にどこか繋がりを認めた。
眼を"The House of A"でみた長村の線画に向けた。長村が『四角い円』の台本の作者の童話のイメージを描いたものだ。その日に出会ったホームレスの姿と重なった。
このような物語だった。その話を野木は佐和と瑤子に語り始めた。
−−−−−
夜に、ささやかなクリスマスの食事の品を買いにもう普通ならば団欒の卓を囲む頃をかなりすぎて彼女はアパートの近くのコンビに向かった。外は十二月の暮としては暖かくコートの襟をすぼめるほどの寒さではなかった。根雪は遅れて灰色のむき出しのアスファルトが違和を感じさせていた。Eriはいつものように買い物篭を下げて出掛けた。住宅街は人もまばらで静かな灯りがともっていた。
もう、それぞれの家では父と母と子供たちが時の余韻を楽しんでいる、或いは、子供のいない若い夫婦、恋人達は時間がその密度を深めていく、そのように聖夜がそのヴェイルを街にかける頃だった。
彼女の昨年はそうだったけれども、今年は仕事を終えて一人ささやかな飾りを卓に載せる、イヴのワインとこの夜のために予約をしていたピザやケーキ、食事の品を取りに行く。篭が歩みにつれて揺れる。
コンビニには少し疲れたような店員と数名の客、肩を触れ合うように寄り添う二人連れがいた。わずかの間に人々は来て去っていく。クリスマスの樅の木が置かれていた。赤や青や緑の豆電球の点滅が異国の夢に繋がるように思われた。彼女の幼い日の絵本の記憶に結びついていくように。
「ジングルベル」と一人胸の内で繰り返す呟きに品を篭に入れ外に出た。
いくらか歩いたときだった。来るときには気がつかなかった通りに座り込んでいるホームレスの姿が眼に入った。人通りの少ないその光景は彼女を不安な気持ちにさせた。足早に通り過ぎようとした。そうして歩みを早めたけれど、彼とすれ違ったその刹那にふと彼の姿をみやるのだった。この夜にそのようにしているホームレスの彼を気遣うものがどこかそうさせるように。すると、彼女の眼差しを受けた男の薄汚れたコートに淡く明るく浮かび上がる輝きがあった。赤く白く彩られた姿のようなものが現れた。彼の顔はみえなかった。驚きに手は篭を離れ、道の上に転げ落ちた。
「お嬢さん」と彼は言った。
「すみません」とEriは答えて落としたものを拾おうとした。彼の前に転がっていったものがあった。彼女と彼の距離は数歩にすぎなかった。
ワインはしかし割れることはなかった、壊れる音はしなかった。ただ、彼の声が響いた。
「メリークリスマス」と彼は言った。
「メリークリスマス」とEriは応えた。
その時に光の影に隠れていた彼の眼を彼女はみた。怖い眼ではなかった。ホームレスの姿はたとえみる者に悪意はなくともどこか得体の知れない不安と怖れを抱かせるものなのだが、彼の眼は怖れを拭いみつめる者をどこか素直なこころもちにするもののようだった。
Eriは落としたものを篭に入れ、もう一言「良いクリスマスを」と彼に向かって言い立ち去ろうとするのだけれども、ふと、「お腹が空いているに違いない」とその時思う気遣いが彼に向けられた。
「よろしかったら」と振り返り、彼にパンとチーズを渡そうとした。それは明日の朝のための。「有り難う」と男は言い、次に彼は、「厚かましいのだけれども」と、「寒いので、これから、どこか、夜を過ごすところを探そうと思うのですがワインをいただけませんか」と静かな穏やかな、その姿からは違和を感ずるような声で重ねて言う。
「ワインがなくては」と彼女は思うけれども、そのように請われて彼のクリスマスの夜を思い、「違うものですますこともできるから」と彼にワインを手渡した。
彼は「メリークリスマス、お嬢さん!」と礼と会釈をするのだった。その言葉は何故か暖かく彼女を包んだ。
アパートに帰りドアを開けるとストーブも照明も消してあったはずなのに、部屋は暖かく明るかった。不思議だけれども消し忘れたのだろうとEriは思った。
テーブルに篭の中のものを広げようとした。すぐ食べることのできるものばかりだった。冷蔵庫からビールをと、そう思いながら。すると、先ほど彼に渡したはずのワインがあるのだった。「何故だろう」と不思議な心地がした。その外に、綺麗な手のひらに乗るほどに小さく折りたたまれた本が入っていた。「どこから」と、「不思議なことが」と訝るけれども、「贈り物なのかもしれない」とも自然にも思われた。
山小屋にあるようなアルコール・ランプをテーブルに置き、その外の灯りは消して一人の食事をした。先ほどのホームレスとの出会いを思う。赤ワインがゆっくりと身と心を和らげていく。次々に懐かしい音楽をかけた。ワイングラスが重なり暖かさが身を包んでいった。
なにか安らかなこころもちになり、「ジングルベル」の音楽を、クリスマスにはよく聴いたそのメロディーを口ずさみ、懐かしいものに向かって「あの頃へ」と吐息が漏れるように呟きが起こった。
眠りが、夜が帷を降ろしていった。
夢が訪れてきた。部屋は白銀に、星々の、さまざまな光に彩られていった。馴染みの顔が、輪を成すように訪れる。映像が訪れる。Eriはそれぞれ異なった色の石を掌に載せる。石はそれぞれの小さな姿に変わっていった。
次に、一台の乗り物が訪れてきた。
「あなたが呼んだのです」と馭者は言った。
「何処へ」と、彼女は尋ねた。
「あなたの場所と時間へ」と彼は答えた。「あなたの故郷へ!」と。
「あなたの声を聴いたことがあります。あなたの眼を知っています」とEriは言う。
音楽が風のようにすぎた。
夜は更けて、彼女の眠りは深まっていった。
白銀の装いの朝が訪れた。彼女の頬は赤く、白く、輝いていた。
外を見ると、踏み跡一つない雪の景色だった。昨夜から雪が静かに降り下りていた。時折風が旋毛のように渦を巻いた。家々の窓が明るくなりはじめていた。「眠り」がその臥所に帰っていった。「朝」が持ち場についていくのだった。
レースのカーテンを開け放つと、外に立つ人がいた。コートに身を包み、まっすぐに背を伸ばしていた。
彼は、彼女の窓を見上げ、「メリークリスマス!」と言葉を投げ掛ける。
「メリークリスマス!」とEriは答えた。
「あなたのクリスマスです」と彼は言った。
「今日のクリスマスは」と、彼女は言いかけた。
雪が彼を包んだ。
「あなたのクリスマスです」と、姿は消えて、言葉が、どこからか聞こえてきた。
彼女は、昨夜の夢の姿だった。テーブルの上にあの小さな本がページを開いて置かれてあった。夢の物語が、綴られていた。
朝の光が射し込んできた。
『時の空間』(四)
【ベンチ】
次第に寒さがつのってきた。彼は、もうどのくらいの時間がたったろうか、じっとベンチに座っていた。帰る家はない。家族も失われている。ただ時間の中に浮かぶ日々を送っている。時間を呼吸し、時間に人生を譲り渡している毎日を過ごしている。懐かしい日々も懐かしい語らいも、思い出という場所にさえ置きがたい、ある暗い、彼に用意された特別の部屋に住まうだけになっている。確かに、彼はベンチに座って、彼の前を人々は通り過ぎていくのだが、そのベンチあって呼吸している彼は、本当にそこに存在しているのかどうか、怪しいものだ、そう彼は自問することがある。
たった三年前には幸せな家族に幸せな仕事があった。しかし、そのような日常に亀裂が一筋入ると、次に引き寄せられるように次の亀裂が入った。岩盤の上にあると思っていたものが、その背景をむき出しにして彼に現前して、砂の崩れるように、渦を巻いて飲み込むように彼は飲み込まれていった。
【コミュニティ】
「時代のせいさ」とコミュニティの仲間にいう。コミュニティーが作られていく。誰も皆、話す相手を必要とするのだし、人の集まりから形作られていくものがある。「これまでと違った生き方をするように背中を押されたようさ。あちら側にすんでいるときは、そこだけが世界で、その隣にこちら側の世界があるなんて思いもよらなかった。ある時、ぽんと背中を押されてあちら側からこちら側に移動させられたら、そうだ、させられたんだ、好きこのんできたわけじゃない、あちら側だけが世界ではないことに気づかされた。ま、二つの世界をみることができるようになったので、あちら側にいるときよりも賢くなったのかもしれない」と。Kさんはあちら側では技術者で管理職だった。「知らなかったものをずいぶん知った。冬に何気なくつけるストーブ、ポットの暖かいお湯、豆を挽いて入れるコーヒー、TVをみながらのうたた寝、あちら側にいるときには何の変哲もない日常の一齣のコマ送りで、感動なんか一々するほどの手触りなんかないようなものだった。さながら、流れる川の小舟。水とのふれあいとか、水の中のことなど、気にするほどの深い漕ぎ方などしないものだ。こちら側にポンと置かれて、あちら側を眺めるようになるまでは」といってトンと頭の後ろを叩いて笑った。こちら側にきてKさんは生きるための最小限の活動の他は街の図書館で本を読んで過ごしている。夜は、様々な「敵」から身を守るためにも、コミュニティーの基地に帰る、そのような日々だ。失ったもの達の形のない家のようなコミュニティー。「心配なのは」とKはいう。「この街の俺たちにも近寄らない、たった一人のホームレスだ。こちら側のさらにあちら側。さすがに、こちら側でさらにポンと背中を押されてあちら側に送られるのは恐怖だよな」と、二人の仲間に同意を求めるように言った。
「難破して、船から放り投げられて漂流しているようなものだ」。タナベさんが言葉を継ぐ。Kさんは、ガスコンロでケットルのお湯を沸かしながら、タナベさんに頷く。傍らでユリさんが、編み物をしている。Kさんは本を読み、タナベさんはものを作り、ユリさんはひたすら毛糸を編む。組み立て式の板で囲われた簡易な空間の真ん中に組み立て式のテーブルがあり、灯油ランプが燃えている。ハリケーン・ランタン。テーブルを取り巻いて、テントが三張り置かれている。「じゃあ、ここは漂流ボート?」とユリさんが笑う。「ずいぶん危ないボートだ。も一つ、目的地が、あるのかどうかもはっきりしない」とKさん。「漂流ボートのコーヒー」と、ケットルのコーヒーを二人のカップに注ぐ。「家のようで家ではない家のコーヒー」とユリさんは応じる。「家のようで家ではない家の変容」と、Kさんのこころの奥底で唸るように呟く。稲妻のような光が身を切り裂くように走る。その稲妻は彼らを照らすランプの炎に転化して彼ら三人を照らし、ユリさんの編み針が光る。タナベさんはランプをじっと見つめながら、コーヒーを啜る。屋根のない板囲いの上をヒューと風が走る。
【彼】
彼はこのコミュニティーの輪の外にいる。夕暮れ時に目を合わせた者を思い出していた。ほんの一瞬だった。野木が彼をみた。彼も野木をみた。一瞬にすぎなかった。その一瞬が彼の脳裏を離れなかった。それは、彼の空白な時間をどこか揺らした。ベンチに座る彼にとって周りの街はただ無色にすぎていく、彼に無縁な動きにすぎなかった。かつて彼自身その動きの中にいた記憶は記憶の遮断された思いの届かない部屋に封印されていたようだった。同じ時間、同じ空間にいるようで、しかしそうではなかった。彼はその時間、空間とはもう繋がっていなかった。透明な硝子、エーテルであちら側とこちら側が隔てられていた。彼はその硝子をを超えて、エーテルの中をあちら側に飛んでいくことはできなかった。あちら側からこちら側に押されてくることは、落ちてくることはそう難しいことではないのだが、その逆のドアは限りなく閉ざされ、通過することは極めて困難なことだった。
一度この道を辿り門を入ると、帰る道への希望は捨てた方がいい、そのように異界に住まい、飼い慣らされてしまう習性を身に染みつけてしまったというのか、どこか帰るという意欲を自ら折ってしまった、そのようにして彼はいた。「帰る道はないのだ」と、彼は思う。そうして消耗と終局へ向かう時間の運行に身を委ねている。
野木の存在がその無風な世界を揺らした。彼は首をかしげた。辺りを見回した。街のベンチの周りを人々が通り過ぎていく。ふと、懐かしい香りに接したような気持ちになった。親子が連れだって歩いていた。同時に、空腹に疼きを覚えた。昼から、ベンチが置かれてある公園の水しか口にしていなかった。
野木との視線の交換に彼は何かをみたのだ。ある同質のニオイを嗅ぎ取った。こちら側に押されてくることで、彼の嗅覚はそれまでになく鋭くなった。ニオイがあちら側の人間の真実を伝えてくる。姿はニオイを帯びているのだ。そのニオイは存在の音楽のように。ある音楽を彼は野木に聴き取ったのだ。相互に流れるものがあった。交換されるものがあった。その一瞬に彼から野木に向けて返されるものがあった。
彼はベンチを起った。
【店】
「長村によれば、この童話の作者は『ただ情景であるものを描きたかった。意味はない。意味などはむしろ積極的に削除しようと、ただクリスマスイブの夜に、ちょっと不思議なことがあった、そんなメルヘンを書いたみたかった。つまらないといえばつまらない。くだらないといえばくだらない、ぼくは自身疲れていて、だからこのようなものを書いてみたかった。ただこの童話はあまり愛着を抱くものではないのです、一度書いたら二度はごめんな作品。おそらく、一度は書かなければならない物語ではあって』と言ったそうです」
「作者のどこか疲れ、というのはなるほどと分かるような気がします。疲れから生まれた物語。それから、疲れたらこのような物語を書く、というのは・・・、どこか扉を開けるような」
「さらにこのように。『石を拾って、紙に放った、とでもいうのかな、この作品を書いたときに個人的な問題がぼくを消耗をさせていた。そのようなときには、こころの内部の河床に奇妙な石がひょこり現れてくる。すると、それをつかみ取って文字に形象変換をして貼り付けたくなった。このような比喩でいうとそぐうのですが』と。ぼくには何となく分かるような気がします。」
「Eriにはモデルがいるのですか?」
「ぼくは長村を通じてしかしらないのですが、ただ想像の産物で、たまたま街を歩いていてふと気になった女性に物語を振り付けたというのだそうです」
「ホームレスは?」
「彼もまた、同じく街で出会った人だということです。その二人を非現実的な童話的な相で結びつけてみることで、作者の疲れの裂け目から現れてきたものが、その姿を文字の形に写された、という」
「作品は別にして、興味深い成り立ち」
童話を巡る野木、瑤子、佐和の言葉の織り成しにの彼方に、同じ街で、まだ眠ることのない彼の姿があった。
野木は、童話を題材にした線画をみていた折に長村がいった言葉を思い出した。「隣人なんだよ。ぼくらはその隣にいて、そちらへ移行することができる、それへと自らを変換することができる、隣人。ホームレスとぼくらは、表面と裏面、実と影、そのようにとらえると、彼らの存在の重力を感じることができる。想像することで、その存在の重力がぼくらを押してくる」
「あちら側とこちら側をつなぐレールが引かれているということなのか」
「おそらく」
「非日常と日常がある時に裏返る」。視線がふと長村の影に向けられた。黒々とした強い影が長村の足下にうずくまっていた。
「ホームレスの存在を問うことで、ぼくらの環境である時代の姿が見えてくる。影から本体が見えるだろう。ホームレスという影が段々と濃い時代に移っている。ぼくはこの時代をそのようにみている」
「良いことと思うのか、それとも・・・」
「一つの必然。走り始めたら走れるところまで走る。そのようなものだと思うね。この世界。変更可能な道が視野に入っていても、走る方向がより大きな流れなら、そちらの方には行けないし、行かない。行くのは限られた本能に駆られた少数の者だけだ。その大きな流れが滅びの道であってもね。屠所の羊さ。ITが、一つの方向を決めてしまっているのさ。それと人間の欲望」と長村は語った。
夕暮れに出会ったホームレスの姿が脳裏をかすめ、長村との会話に重ね合わせて彼のことが思われた。彼を取り巻く空間は、奇妙に屈折していた。透明な空間がプリズムによって異なる形に折り重ねられていた。その空間の内に彼は住まっていた、アルコールが作用するのか、そのような情景がリアルに繰り広げられた。子供の頃にみた、「宇宙家族ロビンソン」のシーンのように。空間にバリアを張る。透明で強固なシールドによって区切られ、閉じられる。
「そういえば、沙璃さんというお名前と透明な玻璃の空間は、イメージとして響き合うものがありますね」と瑤子はいう。佐和は脚を組み替える。アルコールに醸された匂い。脚を接し、佐和の熱が伝わってくる。その温もりから、野木は封印されていた記憶の部屋に降りていく。
二年前の冬の沙璃とあのホームレスは、透明な媒質、エーテルのイメージを媒介にして結びつけられる。
「佐和さんの物語を聞かせてほしい」と野木はいった。
【彼】
何枚もの重ね着をコートに包んで夜の街を歩いていく。浮浪者のような汚れた姿ではない。オドオドと怯えながら街を行くのではない。しかしその無色で無関心で周りから区切られた異形はあちら側にある者にすぐに知られる。あちら側は彼から一定の距離をとる。関わりを避ける。彼も、関わることを避ける。あちら側とこちら側の二つの世界が並行して流れていく。
肩に軽い衝撃を彼は感じた。コツンという音がしてコロコロとゴムボールのようなものが転がった。振り向くと背後に人間の小さな群れがあった。その群れの目が彼に向けられていた。
「俺たちのボールがお前に当てられたんだから、拾えよ」と群れの前面にいる二十歳前後の男が叫んだ。敵意とからかいのぎらつく目だった。闇の中のリカオンのような複数の目が彼に注がれている。
彼はボールの転がった方向と彼らに何の感動もなく視線を向けた。風が彼に吹いて、風の中を行く、そのように一瞬立ち止まった後、彼らはそもそも存在しない者であるかのようにまた歩き始めた。彼は空腹を感じていた。食事が必要だった。
群れはすると彼に襲いかかった。一人が背後から彼の肩を鷲づかみにした。彼の身体が反応した。くるりと反転し、そのリーダーらしい男の手を外して、腕を取り、男の身体を左手で引きつけながら投げた。アスファルトに打ち付けることはしなかった。男は裏返しになり、背中と頭はアスファルトからわずかに浮いていた。それから彼は男を路上に落として押さえつけた。目をじっと、何が起こったのか理解できないで呆気にとられている男に注いだ。目が怯えていた。一瞬の間にぎらつきは失せていた。それをみて、ふと空腹と同じような生々しい生の感覚として、胸の奥から怒りが突き上がってきた。「自分で投げたボールは自分で拾うことだ。誰かに痛い思いをさせたら、自分も痛い思いを味あわなければならない」といい、膝で腹を圧した。くぐもるうめき声がした。群れの他のもの達は一瞬の出来事に動かない。
身体がぶるっと震えた。生々しい感覚が彼を貫いた。孤独な彼の空間に亀裂が走った。次の瞬間に、それはすぐにふさがれてしまうのだが、この偶然の訪れは、彼の位相をわずかにずらした。冷え冷えとしたいつもの場所ではない、温もりへの通路。これからの時間に身を置く、どこか場所を思った。
『時の空間』(五)
新しい年が明けた。雪の森を歩いていた。冬装束の木々の間をサクサクと踏んでいく。街とは異なる透明な冷気が胸に吹き込んでくる。温かい息は霧状に拡散していく。ザックには食料、燃料、衣服、テントなど道具一式が入っている。数日はこの自然の中で過ごすことはできる。夜には樹木と獣たちの取り巻く中で、コッヘルで湯を沸かし、コーヒーを淹れ、澄んだ夜の中でウィスキーを飲もうか。そう思いながら、森の中のひっそりとした小さな沼に向かっていた。何年ぶりだろうか。冬のこの森をこのように歩くのは。ウサギや狐、リスだろうか、足跡が見える。死と隣り合わせの冬をしのいで生きようとする木々を含めた生命の気息が伝わってくる、外衣から皮膚を通って肉に伝わろうとする寒さに、街の中ではない森では、彼はそこに生きる一つの生命として自らを感ずる。
昨年の三月と同じように、森にはいるときに真田の店に寄った。
「新年は森を歩くことにする」
「あの森か?」
「そうだ。森の中で数日、ゆっくりと考えたい。節目のようなものをと思ってね」
「逆だな。俺は一週間ほど旅行をする」
「Tさんのところか?」
「そうだ。佑美と一緒だ。娘にとっては母親のところに。彼女から招待状が来ている。三人で、佑美にとっては初めてのことだ。佑美が俺の娘だなど、本当に驚きだった。十九年ぶりの親子の対面だ。しかも、相手はいつも目の前にいたんだ」
「普通なら気づきそうなものじゃないかといわれそうだが、まさかそんなことは思いもよらなかった。長村以外は」
「彼女が長村に連絡をして、ということだから。フリーの父親と母親とフリーの娘が突然現れたというのは、少なからずどころじゃない驚きだったよ。そもそも、別れてから彼女とは二度と会うことは無いだろうと思っていたのだし、娘がいるなどということは想像もしていなかった。出会って、しばらくつき合って、今風のつきあいじゃない、濃い目のつきあいだったが、それから別れて、その後は何も無しだ。俺の方は、そうだった。ネットで彼女は佑美と俺のことをウォッチしていた。長村のことも、ネットでだ。陶芸をしているだろう、彼女。陶芸の繋がりと長村は接点があった。それで長村を介して、野木ともあの小料理屋で会ったというのだ」
野木はあらためてもう三年に近づこうとする店での記憶をたぐる。彼女、Tとの微かな接点だった。それまで気づくことがなかった野木に向けられる意図めいたものが、生々しいともいえるほどの感触で時間を隔てて伝わってくる。視線だ。佑美に特徴的な、佑美の本来的な役者性と切り離すことができない個性的な眼差しから送られて来るもの、それと質を同じくするような無色でも透明でもない、軽くも希薄でもない、かといって決して重たくも嫌なものでもない情感の、意味の込められた眼差しだった、そう野木は遡り、追うように体験する。知らずに深く錨を降ろす出会いというものがある。体験がある。真田とTとの再開に和して、野木は彼自らの「店」を介した不思議な出会いと、さらに、街で出会ったホームレスと、それからの不思議な因縁について思いを巡らせる。彼の話になった。
「閉店の二時間ほど前に俺の店に来た。服の汚れというのではなく、一目で違う、在る場所が異なるということは分かる。以前から店の前の通りで何度か見かけていたから、彼を知っていた。しかし、それまで一度も店に入ることはなかったんじゃないかな。少なくとも俺のいるときには。ドアを開けてすっとなにも言わず一番奥の席に着いた。音もさわりもなく、すっと滑るように。足が何センチか宙に浮いているような身の動かし方だった。足の配り。背を屈めるのでもなく、おどおどするわけでもなく、ただ普通のひとりの客として入ってきた。そうだよな、山の帰りの泥の付いたパンツで黒いコーヒーを飲みながらジャズを聴くのが俺の店だから、彼の独特に区切るものの他には違和感というものはそもそも無いはずだ。佑美はもう劇団に行くのでひいていた。注文を聞くと、なにか温かいものを、といった。食事ですかというと、頷いて、温かいご飯とスープをいった。空腹なのがみてとれた。顔を俺に向けなくて、視線は内と外に同時に向かっているような、彼が住む世界の風景に向けているのかもしれない、不思議と印象的な表情だった。酒はのめますか、と俺は聞いた。そのように語りかけたくなった。彼は頷いた。ワインを温めて出した。ふっと息をついて、静かに飲み干した。美味い、俺にいった。身体が温まってきただろうから、赤ワインをボトルで置いた。スープと肉類をと、彼はいった。それとチーズを。ゆっくりとチーズを口に運びながら、ワインをのんでいく。料理を出した後、俺はいつものようにレコードを回し、読みかけの本に戻った。そうして、気配の微妙な変化に自ずから気が向かった」
客は彼だけになった。彼は真田に話しかけた。閉店の時間が近づいていた。
「マイルスは昔、よく聞きました。もう、すっかり昔になってしまいましたが」と。
「同じ世代なのかもしれませんね」と俺はいった。
「そうかもしれません」
「店でお会いするのは初めてだろうと思いますが、何度かお目にかかっています」
「ジャズ喫茶、気になる存在ではありました。締め切られているドアと、どこか開かれているドアがあります。どこかそこを通りたくなるような」
そうして、ふとどこか彼のチャネルが開かれたのだろう、その日のことを問わず語りに語った。その時に、ホームレス仲間の、あの「コミュニティ」についても。
「コミュニティについて」と、野木は真田の言葉をなぞった。真田の店を結び目として繋がっていくものがあった。さながらWebの繋がりのように。その後、「コミュニティ」と野木はある関わりを持つことになる。
閉店の時間が近づいていた。彼は背負っていたバッグからパソコンを取り出した。無理を言って申し訳ないのだが電源を借りられないかと。うっかりしていた、はじめにいうべきだったのだがと、彼は言った。
「時間を少しぐらいずらしてもどおってことはありません。十分充電をしてください」と、真田は応えた。
「ご心配になるから敢えて言うのですが、ごらんの通り私は家を持ちません。剥き出しの街が住処です。しかし、生きるためのささやかな仕事と収入は、このPCを通じて得ていますから」と彼は言った。「プログラマーだったのですよ。環境が変わって会社からは弾かれてしまいましたが、生きるために最小限必要な収入程度はネットを通じて確保はできるのです。命を繋ぐ糸のようなものです」と。真田はいまの時代、そのようなこともあるのかと思った。すると、一つの疑問が起こる。ではなぜ彼はあちら側にいるのか。敢えて聞くことはできかなったし、彼も話そうとはしなかった。電源に繋いでバッテリーに充電をしながら、彼はメールをチェックした。次に口座の残高をみた。会話はとぎれた。その小さなノートパソコンの画面に向かいながらキーボードを叩きはじめた。奇妙な光景だった。分厚く重ね着をした、ホームレスの男が、流れるようにキーボードに指を走らせている。身体はほとんど動かない。肩を揺することもなく、頭を振ることもない。まるで彼の周りにはなにもなく、ちっぽけなノートパソコンとその背後のネットだけが存在しているように、ただ彼の肘から指先までが休むことなく動いている。いままで真田に向けられていたこころの向きは、一気に断たれるように不連続に引き上げられて、パソコンに向かっている。そうして、彼を周りから区切る透明な壁の内に彼はこもり、彼という存在は、そう真田には思われた、その希薄の度合いを強めていく。おそらく、彼にとっては真田の存在はそのように方向を変えるとともに遠く離れていき、希薄化の度合いを強めていっているように思われた。真田は、そのような彼という存在を身近にしてどこか自らの身を置く場所が変容しはじめているような錯覚をも感じるのだった。
そのようにして、彼は指をぴたりと止めた。彼にある流れのなにかが一つの区切りを迎えたように。PCの電源ランプは充電が終了したことを示している。ふっと、彼は息をついた。メールへの返信、エディタ上によどみなく書かれた行が残されていた。閉店の時間はすぎていた。
「コーヒーを飲みますか?」と、真田は言った。
「少し疲れました。キリマンジャロを」と彼は言った。
「ご迷惑を」と、つづけた。
「いや、気ままな店ですから。私は堅苦しいのが嫌いで、自由に生きるのが、時間でも、人間関係でも、仕事でも、それでこのような商売をしているのですから、構いませんよ。家に帰らないでこの店に泊まることもあります。山が好きですから、寝る場所など選ばないのですよ。それは別として、まだ寒い中、あなたはいつもどこを寝場所としているのですか。街は寒く、物騒でもある。この頃は変な、危険な者たちも徘徊するようになっている。ニュースで、ホームレスを襲う、という事件をみるようになっています」
「その日その日で。同じ場所、というのはありません。むしろ、同じ場所に居ることはできない。公園のベンチの上で、ということもあります。駅の待合室、通路などもあります。追い出されれば、どこか、適当な場所を見つける。テントもシュラフもありますから。そのほかの必要なものをロッカーに預けてもいますから」と彼は応える。
「ネット喫茶ということもあります。街には様々な場所があります。渡り歩く。文字通り、渡り歩く。いつまで、そのように歩いていられるのか分かりませんが、歩ける内は、歩いているはずです。突然なにかに見舞われて倒れるか、歩くことが嫌になって、どこか深く休むところを見つけるか、そのようになるまでは」と、彼は表情の無い口調でいうのだった。ある悲しみが伝わってきた。得体の知れない悲しみだった。あっ、と真田は思った。彼自身、どこかで、ある瞬間味わったことのある、同質の悲しみ、その瞬間を呼び戻させるような響きが、彼の言葉にはあった。彼の顔を見た。表情は無かった。目は静かに、ただ沈んでいた。視線がさらに通っていこうとするものを遮る壁があった。みられることを拒絶する、関わること、気遣いを拒絶する、それは強い力で跳ね返してそうするというのではない、ある空白の圧力でそうするという、そのような拒否を風圧を受けたように思われた。「そうなのか」と、ふと答えが返ってきたように、真田には思われた。住む場所をもつことができる仕事、ささやかであってもと彼はいうが、それからの収入があり、彼はホームレスとして街を渡っている、その意味のようなものが、一瞬その風圧を感じて真田の前に置かれた。彼をいまあるように成す、そのようなものが彼に起こったのだ。多分。ただ弾かれた、会社という場所から弾かれただけではなく、どこか、彼を断ち切るような、こちら側にあることを断ち切らせ、あちら側に送る、そのようななにかが、彼をみまったのだ。
野木の彷徨いをふと、真田は思った。一瞬、野木の姿と彼が激しく交差した。線と線の交差。生きる中で現れる線。赤い、黄色い、黒い。線が色彩をもつのなら、多様な線をひとりひとりは描く。無数の線が街に渦巻いている。そこに在り、そこを歩む人間の数だけの線。その線の同質。そのようなイメージが脳裏をよぎった。
野木は彼を見て、彼は野木を見たのだ。それは単なる線的な交換ではなく。その日に、公園のベンチいて、野木が通り過ぎた。彼は野木を見て、野木は彼を見た。その記憶が、雪が降るように降りていく。
真田は、「童話作家」に冗談めいて言ったことがある。「線形ではないんだよ」と。童話作家は笑った。「線形」は、いわば隠語だった。
「真田さんは、ロケットを作ったんですよね、高校時代。真田さんの友人、という人に聞いたことがあります。真田さんはロケットを作って飛ばした。しかし、『ロケット』、比喩で言うのですが、はそれで終わった。なぜか、ぼくらはしらない。だから、『線形』は、ぼくには、その脈絡から、新鮮です。線形ではありませんから。ぼくも、生きるということも、人と人との結びつきも、いわゆる線形というものではないということが段々と分かりかけています」童話作家は情報技術を仕事としていたから。限られたサークルの隠語。
「確かに、線形ではないですよね。方程式も、そもそも無い。創るんでしょ。ぼくはそのような立場です。童話も創りますが、そのほかも創ります。ま、窮屈なこの街で。窮屈を馬鹿馬鹿しいと翻訳することもできます。しかし、ぼくはこう思うようになってきました。窮屈でも馬鹿馬鹿しくもない場所など、どこにあるんだろう、と。そのような場所を探して世界中を歩くとします。どれほど歩けばいいのか、空想してみます。そうして歩いた果てに、そのような場所は見つかるのか、疑問です。ま、ぼくの乏しい想像力では。強いてあるとしたら、透明で人間的なものの希薄な空間。高山のてっぺんか、理想郷の島。しかし、そのようなところで、ぼくらは本当に自分にある有相無相を生きられるのだろうか」
「ながくなりました」と、彼は言った。「これから寝場所を探すことになります。来る前に、雪が降っていました。しかし、三月の雪です。この冬は、どうにかしのぎましたから」と彼は言いながら、ザックを背負い、店を後にした。真田は、ネルソンのCDをかけた。ウィスキーが飲みたくなった。今夜は、店で眠ることにした。ふと、佑美のことを思った。舞台の上の佑美の姿が思われた。誰かに似ているような気がした。真田は首を振った。アルコールが身体に回り始めた。
真田との会話が反復された。森閑とした中に、鳥の声が聞こえる。ザッツという、枝が雪を揺する音がする。「熊は安らかに穴蔵で冬眠し、夢を見ているだろうか」と、そんなことも思う。「コミュニティ」の三人を思う。真田と佑美とTの再会の時間を想像する。「そんな、簡単じゃないんだがな」と真田は言った。簡単じゃないさ、と野木はつぶやく。思いっきり、森の冷気を肺に吸い込む。白い息を吐く。佐和の白い身体と、彼女の肉の感触を思う。彼女が綴った物語を反復する。「選んだのですよ」と佐和は言った。あれからの時間は迷宮のように思われた。瑤子の店を後にしてから。佐和と絡み合いながら長い水管を流れていく。様々に交歓をしながら。時間の中を。佐和の黒い髪が、野木に絡まる。衣服を纏う時とは異なる二つの生き物として、戯れ合う。唇をつける佐和の皮膚のひとつひとつが、野木に返されてくる。「あの店に来たのは偶然なのかもしれませんが、偶然は偶然という言葉でそう割り切ることができないこともあります」と、佐和は言った。「すれ違ったのよ」という瑤子の言葉が佐和の肉の響きに挿入されるように反復される。「始まったばかり」と、謎めいて佐和は言った。そういって生き物のような脚が、野木に絡まってきた。
汗がうっすらと滲んできた。木綿など来ていたら、夜は越せないな、と野木は呟いた。汗は身体から流れ出して、流れるだけ身が軽くなるような気がした。汗をかくために歩くのかもしれないな、と。歩いていると、身が街の人工からより自然へと、余分なものを削ぎ落としながら返っていくような気持ちになる。木々は生命と精神を、彼に明かしはじめる。植物には神経細胞というものはないけれども、電気的なコミュニケーションは存在する、草草は、木々は音楽を聴き、音楽に応える、それは、昔の人々が感じ取り、物語に変えて伝えた認識だったのだが、いまは自然の現象として測られる。野木は木々の囁きを、彼自身ひとつの自然として聞くように思う。佐和の身体を聞いた。木々の言葉が森には満ちあふれているとして、動物も植物も互いに、聴き合い、語り合う。アニミズムは身の真実であることを、野木は聞き取る。
「彼らは」と、「コミュニティ」の人々が思われる。「私を心配してくれているのですよ」と、真田に「彼」は言った。「しかし、私は居ることができない。彼らは彼らを生きているのだし、私はどこか、このようでしか、彼らの方に行くことはできないのです」と。「コミュニティ」はコミュニティとして、離陸を始めていた。タナベさんとKさんとユリさんは、あちら側からこちら側に向けて新しい形を送ってきた。贈り物のように。戻るというのではなく、あちら側からこちら側へ訪れてきた。彼らはひとつの、これまでにない形を、繰り広げ始めた。
『時の空間』(六)
【窓Ja!】
コミュニティの仲間達は寂れた街の商店街に小さな店を構えた。「窓Ja!」という名称。
「『窓』がいまの時代、ものすごく大事な機能を果たすようになる」とタナベさんはKさんとユリさんに提案をした。
「ネットの時代だろう、ネットとリアルを繋ぐ『窓』が必要とされるんだ。PCはOSからしてウィンドウズ(多くの窓)というのだろう。窓の向こうにいろんなものがある。PCは向こうのいろんなものにつながる『窓』というわけで、PC内にとっての窓、PCからネットに向けての窓というわけさ。そんな『窓』にしようと思う、だから『窓屋』が相応しいと思うんだが、字面がよくない、それで、「そうだ、その通り窓」というので、「窓Ja!」というドイツ語の”Yes”にあたる”Ja”を『屋』の代わりに置く。そうして『窓Ja!』。肯定としての”Ja!”もこめて」
「窓ね、『あちら側とこちら側の窓からみた私たち』という引っかけも、皮肉っぽくていいわ」とユリさんが同意する。
「ユリさんが賛成してタナベさんが提案するので、ぼくは異議はない」とKさん。
コミュニティは小さなつながりを媒介にして少しずつネットワークを形成していった。歯抜け状態が進行する商店街であっても、そのネットワークがなかったら、コミュニティは「窓Ja!」へと道を切り開いていくことは容易ではなかっただろう。一旦あちら側に移ったものたちが再び離陸しようとし、こちら側に帰ることためには、圧倒的に押しつけ、押しつぶそうとする重力に抗しながらする必要がある。こちら側にいるものが離陸するのに比べ、二重三重の困難に打ち勝ち、押してくるものを払いのけることを強いられる。三人の小さなコミュニティで形成されていったものが次第に退くことを知らない力になっていった。ユリさんの編み物の評判は広がっていった。はじめは毛糸の支援があった、自分たちが着るものを編んだ。その出来栄えが人々に注目された。支援をするメンバーから個人的な注文がユリさんに来るようになった。それがコミュニティの日々を支えた。注文は途切れることがなくなっていった。ユリさんは自分の編むものが必要とされ、編む彼女が必要とされることに深い喜びを感じた。タナベさんはユリさんの成り行きを見ながら、それまで忘れていた技術者としての情熱が再びかき立てられていった。コミュニティのこれからの営みに結びつくような技術、周辺の知識を意欲的に吸収するようになった。図書館での時間は、その意味を変えていった。Kさんはコミュニティの住環境の整備を受け持った。より快適な移動組み立て式の「家」や「家具」の制作に励んだ。これまでの技術に工夫がさらに加えられていった。それまでにない、独自のスタイルの非固定的な生活環境の考案が成されていった。タナベさんはKさんの工夫、考案が商品としての価値を持つものであることに気づいていった。ユリさんの編み物、Kさんの制作物、タナベさんの経験と電気・情報に関する知識が織りなされ、次第に独特な形を現していった。幸福な三角形だった。
「街と他の地域、世界を結ぶような多機能『窓』を、街の一角に創る。『窓Ja!』ではユリさんの編み物、Kさん考案の製品も販売する、ぼくはITに関することを担当する。どう使うかがますます問題になるからね。それと、PCはいつも手をかけないと次第に使えなくなるものだから、水道、下水があれば配管についてのサービスが必要とされるのと同じで、街の中で不可欠な仕事にますますなるだろうから。さらに、この街の内外のネットで媒介する機能も持たせる。ネットは顔が見えないから、AとBを媒介するXも必要になる。直接的なものには直接性故のリスクや代理が必要な面があるから。それを『窓Ja!』が受け持つ。コミュニティはネットを介して様々な人々、会社などと結びつき、媒介者としての役割を果たす。それが『窓Ja!』で、いままでこの街にはなかったものだ。ぼくらがこちら側からあちら側に移って、あちら側からこちら側を見ることができて、そうして見たものが大きな資源になっている」とタナベさんは言う。
「窓のあちら側とこちら側。『道の駅』というものはあったけれども『街の窓』という発想はこれまでになかったものね。『窓』を通じて見る、『窓』から外に繋いで、外から窓を通してつながる。こちら側からあちら側に移って、またこちら側に通うようになった私たちには『窓』というもの、よく分かります」とユリさんはいう。
「『窓Ja!』の造作も柔軟な、必要に応じて簡単に作り替えができるようにしたいな。柔軟に変えるというのを基本にしよう。風呂敷のような発想。鞄ではなく。鞄は風呂敷にはなれないが風呂敷は鞄にも頭巾にもなれる。マスクにもなる。自在だ。自在で自由な造りにしよう。それがコミュニティ流。ぼくら三人が偶然街で、彷徨いながら出会ったときのことを思い出すよ。この街に流れてきて、この街で流れていた。ひどいものだった。『窓Ja!』を創る初めに、あの頃のことをもう一度思い出してみようよ。いまは、ぼくらはずっとましな『家』のようなものを持ち始めているが」、Kさんはいう。
確かであったと思われたものが壊れて、崩れて彼らは押し出され移動したのだ。そのあちら側で三人は一つのコミュニティをつくった。寒空にふるえる鳥たちが互いに寄り添うように。結びつくことでそれまでになかった形がつくられていく。
商店街の一角に新たに位置を占め始めた「窓Ja!」の外観は他の店とは異なっていた。形も色も造りも横並びの店々に対して異彩を放っていた。「自由に柔軟に変えることができる、可変的な空間」がKさんの基本的な考えだった。「窓Ja!」はなによりも「繋ぐ空間」でありたい、それまでは見ず知らずに置かれていたものたちを、人と人、モノとモノ、ビジネスとビジネスを媒介する空間であり機能であるような空間、それをデザイン、造りで表現しようとした。
「他の店と照らしあって変化する、というのは面白いと思うよ」とタナベさんはいう。
このようにして、一つの空間のとも綱が解かれていった。時代を流れる風が「窓Ja!」を運んでいった。
【和解】
Tが目の前にいた。うっすらと年輪が刻まれていたが彼女は彼女として変わらなかった。別れた時と同じように彼は彼女に手を差し出した。手を握った。温かい熱が通い合った。真田の手に記憶されて時の中に失われることのなかった彼女の手だった。ほぼ佑美の年齢と同じ年月が越えられた。あの日のバス停の光景がよみがえってきた。佑美と同じ目と瞳を見つめた。
「また会えるなどとは思わなかった。永遠だと思っていた。俺はあの時に決断した、そう納得して疑いは切り捨ててきた。しかしこうしてまた君に逢えた。この時に感謝する。自ら納得はしたけれども、君を忘れたことはなかった」
「長い日々でした。あの時から多くのことがすぎていきました。すぎていったものと、そうではないものがあります。あなたとまた逢いたいと、私は思い続けていました。私は私の生き方をしかできない、これからもそうなのかもしれませんが、私なりに、ある時あなたは私に向けて『固有な』と言いました、あなたを思うことをやめることはありませんでした」
「あの時にはああなるしかなかったと、いまも疑うことはない。正しい決断だったと、君は笑うかもしれない、しかし決断、ということは決定的な意味を持っていたから、その逆はなかった。おそらく君も俺に深く同意したはずだ」。Tは頷いた。変わらない彼女の表情だった。彼は彼女を引き寄せて頬を重ねた。鼓動と鼓動が響き合った。真田は再会に、彼女を二度と離すことはすまいと、こころに決めるものがあった。懐かしい香りが響いてくるようだった。その姿から響いてくるもので、真田はTに出会ったのだ。彼女が山を登ってきて、彼は山を下っていた、その姿をかつての日に彼は認めたのだ。澄んだ空間で彼らは出逢った。
「和解したいと思う。俺は人生を生きたし、君もそうだ。君と佑美とこれからを生きたいと思う」。離れて、佑美がいた。
【佑美】
想像の舞台の上に父と母を置いた。自らは観客席と舞台の上を行き交った。母の焼き物を手にする舞台にいる、父と母が生きた時間を踊りによって描こうとする。いま目にする現実の二人と想像の内に変容された姿がその視線の奥で結ばれた。彼ら二人を彼女の様式で生きている。「雪にこめられて時は熟していく」。この言葉をどこかで入れようと、佑美は思う。
父と母を残して街に帰った。街の、舞台が恋しくなった。街に帰って童話作家に父と母のことを話したかった。
「ぼくらの時代とは違った時代というものがあったのだな」と彼は言った。「ぼくらの時代には、君のお父さんとお母さんと全く同じ人がいるとして、全く同じシチュエイションで、果たして同じような成り行きを生きるだろうか、という疑問。時代の出会い、というものがあるよね。舞台はだからいつも同じではない。繰り返し異なる、同じ台本の造形。」
「わたしも、父と母のようには生きないと思います。いまの世の中、どこかなにかが一枚一枚はがれ落ちるようにはがれて、壊れていっているでしょう。そのようななかでは、私達の出会いも成り行きも、大きなところで決められているのかもしれません。」。
童話作家は目の前の佑美から、舞台の上の彼女を思った。空間と台本と演出、俳優によって一度限り現れる世界。「大きなところで決められているのかもしれません」。確かにそういえるかもしれない。しかし、彼女によって舞台は創られる。母親Tに似た、黒く強く、意味を帯びた目を見つめていた。「目」で繋がり、結び合う関係の網というものがある。目が紡いでいく。彼は佑美をじっと見つめた。
「父のです」と、本に挟まれた手書きの詩を開いた。
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【身も心も】
もう、昨日となったが、目覚めても鮮やかに残る夢を見た。夢に頷くものがある。たまたまTVで耳にした宇崎竜童の「身も心も」が聴きたくなって、CDからテープに落としたものもラジカセで聴く。夢を言葉にしたくなった。
宇崎竜童の「身も心も」のテープを
エンドレスでかける
今朝の夢を思い出す 夢の女を思い出す
あれは 誰なのだ 訪れてきて 別れていった者は
膝に あなたを抱え
口づけし 躊躇われ 腕を回し
愛撫し しかし すぎてゆく
庭に遊ぶ者達がおり
別れていく者達に うつむいて すぎていく者がおり
顔を見合わすことすらすることもなく
夢が 別れの時を告げる
内なる時刻が その訪れを告げる
すぎてゆき 帰り 壊れ 開いていく
別れに 深くうなずく者がおり
「身も心も」を聴く者がおり
遠くに向かって 声を放つ者がいる
このテープを回しながら、眠る。
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真田がTをどのように生きてきたのかが分かった。彼は、「佑美と没落してもいいかな」と低く呟いた。
【店】
「記憶」と瑤子がいう。「時間」と長村が応える。店には彼ら二人しかいない。時たま掛け合いのように言葉を交わす。「時間が結晶化する」。「結晶化?」。「時間の質。霧、モヤ、カスミのように流れる時間、液体、粘度、固体、一気に結晶化に向かう、白熱。二十年の空白が一瞬に形に」。「分からないわ、でも、そう言うのならわたしの、霧とか靄とか霞の時間を、長村さん、描いて。絵にして見せてください」。「表情を描けばいい。瑤子さんの折々の表情を写せばいい」。「じゃあ、いまの表情はどうでしょう?」。「霧の中」。「記憶の霧」。「どんな記憶?」。「いわないわ」。
長村は瑤子をスケッチする。水のような指。朱い唇。そうして一年前の瑤子とは異なる表情に気づいていく。描きながら見えてくる。写真が対象の隠れた姿を露見させるように。見たものを描き、写すのではなくて、描き写すことによってその「姿」が引き出される。
「見せてください」と瑤子はスケッチを手に取る。「長村さんの言うこと。自分の知らないわたしを長村さんが写している。確かに、この姿、結晶の時間のわたしじゃ、ないわ」。「ぼくの時間もどこかサラサラ定めなく流れている。サラリーマンを一次休業しようかなとも思う。一度立ち止まって、野木の二番煎じではないけれどもこれからの半分の人生をどう生きるか考えてみようかなと。陽水の歌、『人生が二度あれば』。『あれば』じゃなくてどうも『二度ある』。二度の人生をどう生きるのか、ぼくらの同世代の課題(challenge)かもしれないな」。「長村さんはこの店に来てくれますか、これからもずっと?」。「来ると思う」。「そう。それなら、長村さんが一時サラリーマンを離脱するのなら、わたしも一時暖簾を下ろして、休業同士、同好のよしみ、どこか暖かいところで期限を区切って時間の空白をすごしてみません?思い切って」。「賛成、一票」。「決まったわ」。カウンターの花が柔らかなほの白い光を受けている。
【彼ら】
漆黒の闇の中で折りたたみのストゥールに座り、ガスランタンを灯していた。頭上の星の燦めき。スキットルのウィスキーを飲んでいた。横にテントが張ってある。ダウンでスッポリと身を包んでいるけれども、次第に寒さが染みこんでくる。皮膚から肉に、骨に。冬の山や森に入るときにいつも思う。「寒さが身にしみる」。その言葉のように、文字通り。
ランタンの光にほの照らされる、ひっそりと彼を囲む木々に目を向ける。木々も野木をじっと見つめている。この沈黙の中で無数の目が野木に注がれている。生命がひとつの生命に。この森の中では彼は単に一個の生命にすぎない。街の中の特権ははがされている。一本の木、一匹のウサギと同じ一線に置かれる。「苛烈な自由」と、その中で不必要に身に帯びさせてしまった余計なものが削られていく。
「すぎさって、通過した」と、彼は思う。「取り敢えず通過した。かろうじて切り抜けた」と。ガスランタンの音を聞く。凍えた手を当てる。暖まった血液が心臓に送られてくる。キタキツネが闇の中で遠巻きに彼をうかがっている。アルコールが全身に回る。野木は深く眠りたくなった。この数年間のさ迷いが反復された。ガスランタンを燃えるままにしてテントに移った。シュラフに潜り込んだ。引きずり込まれるように眠りに落ちていった。
その時間、ベンチで「彼」は眠っていた。穏やかな死が「彼」を訪れた。ノートパソコンのデーターはすべて消去されていた。後には、何一つ残さなかった。
夢の中で、「運命」と、野木は呟く。【完】
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