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| 2005年12月31日(月) |
| 基本 |
常に「基本」に立ち戻る。還る。
昨日から早朝散歩をして、立ち帰る思い。自らの「基本」に則って一日を生きること。現在を生きていて、それが人生。一日という人生の枠組み。
一:十一時に寝て、五時に起きること。
二:食事と運動。頭は身体を土台として、身体の上に置かれている。身体があって精神があり、そのためにはまず食事と運動。
三:一日は予め立てた予定にしたがって計画的にすごすこと。時間の枠組みはできる限り守る。自らの基本として立てている一日の時間の枠組み、その枠組みに於ける営み。
四:急がないこと。ゆっくりと、しかし休まないこと。そのようであって可能なことをねばり強く追求し続ける。
五:できることをして、できないことは捨てること。
#田中秀央編「羅和辞典」(研究社)来る。ブックス・メディアン。
今朝ヨハネによる福音書の冒頭とホームズ判事の"THE COMMON LAW"の法諺を読む。
"de pace et plagis"は「打撃による平和」という意味だろうか。殺人、放火に対して、その行為者の身体を損傷する、放火を以て報いる、その権利を求めて訴える(上訴する)こと、なのだろうか? "feud(復讐、血讐)"の一種。
#上記辞書と市川三喜著「ラテン・ギリシャ語初歩(英学生の為)」(研究社)と呉茂一著「ラテン語入門」。まず前者。羅英対訳の新約聖書を読むのもいいかもしれない。基礎的な文法と変化を暗記する、対訳で読む。そのようにして読解の精度を上げていくこと。
#来年も早朝散歩をします。歩くことで身体を整える。歩くことは基本であって、同時に諸々の基本へと立ち帰る通路になります。歩くことで還る。元旦は演習林を歩く予定。
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| 2005年12月23日(金) |
| 仕事をする悦び |
年末、PCサポートの帰り道。ご依頼の件、上首尾に終わる。車を運転しながらしみじみと感ずる仕事をする悦び。喜んでもらい、私も喜ぶ。
自らの仕事が悦びをもたらすものであるというのは幸福なこと。
クリスマス、明日からの二日間は、いつものように書斎で閑かに音楽を聴き(バッハ「マタイ受難曲」とベートーベン「荘厳ミサ曲」ほか)、本を読み、赤ワインを飲み、書き物をする。
ただ今年はさらにベジタリアン志向が強まっているので、チーズはいいとしても、チキンは食べない。
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| 2005年12月15日(木) |
| ゴッホのポスター |

市内の某喫茶店で。壁は、違う絵に差し替えられていたのだが、
お願いすると出してきていただいて、椅子に載せ。
ロートレックと同時代人であり友人であり、
互いに認め合った、時代の芸術家としてのゴッホの作品。
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| 2005年12月15日(木) |
| この冬一番の寒さ |
独り寝の 夢を抱いて 寒の夜
#朝起きて。
湯たんぽの温もり。夢をみます。寒い冬の夢。
#今週はタウン誌のために「苫小牧ネット事情」を書かなければ。金曜の夜は「森林ボランティア」の一年の反省会兼忘年会(来年はもう少し参加の機会を増やしたい)。
#LAMYの万年筆が来ました。機能的な実用物書き道具。書いていると感ずる道具としての厚み、重さ。
万年筆と鉛筆で書く喜び。この歳になって手習い。ペン字、習字、スケッチ。
#図書館でゴッホの画集。ゴッホはロートレックの友人。レンブラント、ゴッホ、ロートレック、高校生の頃から惹かれてやまない画家。絵画と写真。
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| 2005年12月12日(月) |
| 閉館時のサンガーデン・喫茶店 |
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もう20年数年から(ワープロ専用機とPC)キーボードで専ら書いてきたのですが、この頃はアナログ回帰。鉛筆、万年筆で書きたくなります。ノートに使い捨て万年筆で書いているとなんとも言えない快い感じ。こころが動きます。キーボード書きには見られない。
子供の頃無理に左利きを矯正されたせいか、極度の悪筆。字を書くのは苦手でキーボードに移行したのですが、こころは手書き、ペン書きに戻ろうとします。
ペン先に無理な力をかけるのでこれまで何本も万年筆を潰してきました。まず、これから新たに書き方の練習。
ドイツの文具メーカーLAMYの実用万年筆。購入はネット。
ペンで書くことで、わたしの内から贈られてくる喜び。本を読みながらノートに書く時間、その楽しさ、喜びを感ずる。
#街の書店、店独自の趣味で選択した文具を揃えたら、それは魅力的な場所になるはず。わくわく感を覚える空間に。先にタウン誌のインタビューで書店主のお話を二回連続でお聞きしての思いも加わり。
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| 2005年12月11日(日) |
| マラルメの翻訳を読んで |
昨日図書館でマラルメの詩を翻訳で読んでいて、フランス語原文で読めないのをつくづく残念に思う。
ともにゲルマン語系である独英対訳のヘルダーリン詩集を読んでいても、詩の翻訳のいかんともしがたい写しがたさ見る思いがする(翻訳とはテキストAのテキストBへの写像として)。
マラルメの詩に対応する語(概念と音、形)と、語と語の結びつきが日本語にはないとしたら(二つの異なる言語の間にそれはそもそも存在しないはず)、翻訳で伝えることができるものは訳者の胸中に起こる味わい、解釈を日本語で記すこと。
#理想的な詩の翻訳として、片山敏彦「ドイツ詩集」。古本屋で偶然見つけた生涯の宝物。
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| 2005年12月10日(土) |
| 十二月の朝 |
「許す」ということについて。
マルコの福音書から。

Und wenn ihr stehet und betet, so vergebt, wenn ihr etwas wider jemand
habt, auf dass auch euer Vater im Himmel euch vergebe eure Uebertretungen.(MARKUS
11・25)
然り汝ら佇み祈るとき、誰かを怨むことがあれば、それを許せ。汝らの天の父も汝らの咎を許すのだから。
#少年時代に読んだキルケゴールの「哲学的断片」にあるソクラテスの立場と、その限界を超える「瞬間」の思想につながるのだろうと、漠然と考える。「許す」ということは宗教、信仰を必要とするのではないだろうか。親鸞の響き合う思想。
人間は宗教を必要とする生物。超えるために宗教を必要とする。
ここで、無力な存在(人間は力であり、且つ無力であるとして)にとってのニーチェとはなんだろうという思いを拭うことができない。ニーチェから「許す」ことは出てくるだろうか。欺瞞ごまかしではない、宗教的な地平へと開かれざるを得ない地点を人間は経験する。こころが生きるために許すということ。

#2001年に書いた古い詩のようなものを現在の思いに相応しいものにとこねくり回していると、どうにもならなくなる。削除して上記のみ。
やはり、新しい酒は新しい皮袋に容れるに如かず。
言葉の、私にとっての意味。
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| 2005年12月3日(土) |
| ホームズ判事 |
昨夜からホームズ判事の"THE COMMON LAW" (Oliver Wendell Holmes,Jr.,
Dover Publication, Inc.)を読み始める。
堂々とした建築物のような文体に驚く。法律家の文章。石と煉瓦で造られた構造物のような言葉。
#"EARLY FORMS OF LIABILITY"(責任の初期様式)にはラテン語の用語、引用が頻出する。ギリシャ語、ラテン語、フランス語は辞書を引ける程度の知識は必要。その前に辞書と参考書が必要。(12/20)
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| 2005年12月3日(土) |
| 詩の朗読会でのスケッチ |
この街の、画家で、若い頃には役者もされていた喜田村純さん。2000年の詩の朗読会。氏は中原中也の詩を。その折りのスケッチ。
氏の作品については、2003年旧千葉ギャラリーで。
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コラージュ 絵画 コンストラクティヴ
未だ(まだ)位置づけられない形たち
泡のように生まれ つくられて
制作の時間 その快楽(けらく)
彼が夢見てあるものは
カンバスに たてよこ並ぶ絵葉書が
物語り 画家の宇宙の コト語り
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「老優」
半ば視力を失いかけた老優は
中也を 歌う
「汚れちまつた 悲しみ」を
大道芸の 舞踏
大道芸の 露わ
これまでの老優の曲折
砕かれたもの 挫けたもの
無惨さ 残骸 残照
賑やかなあのころの 演芸の日々
汚れちまつた人生 大振りな回想
老優の衣服の分厚さに
異形の生き方が浮かぶ
彼の人生を思う
その豊かさと 愉快と
悲しみと あっけらかんとした
無頼を 思う
それぞれの悲しみがある
それぞれのよごれがある
老優は 稀な人生を
生き得て あるのだ
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| 2005年12月3日(土) |
| 昨夜、ぼくらの音楽をみていて、ふと走り書き |
総集編、向井秀徳と椎名林檎が向かい合って歌うのを聴いていて、走り書き。
意図的に意味を捨てた、単なるイメージの詩的スタイル。
ヒト 街を走る
キレイ 森 走る
空から 雪へ変化(へんげ)する
狐 落ち葉舞い
黄金色
娘 街出でて
森を それ模様に
たぶらかすのさ
後ろ姿が魅力的な
ムンクの /浜辺に立つ女
この闇を
キャンバスにしてる
十二月の 時刻
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| 2005年12月1日(木) |
| 一期一会 |
昨夕本を読みに、喫茶店に入る。
(壁にゴッホのロートレック風ポスターが貼られてある、「猫の置物の喫茶店」ではありません。あの店のカレーはそこそこ美味しい)
カツカレーを注文。
カツにごま油が使われていた。皿一面のカレーでご飯もカツも見えない。
塩辛い。とんがった味がする。
一皿のカレーから見えてくる風景がある。料理とは人間なのだ。料理からまた、それを作り供する人間が見える。一杯のコーヒー、一皿の料理はそれに携わる人間への窓であるということ。
このように見ると、客と店は一杯、一皿を介しての一期一会。
想像を広げると、この街、どこからも真剣勝負の音が響いてくるような。
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