歴史

日野江城跡

本城は健保年間有馬氏4代連澄により築城されたものと推定され
九州中世期城郭中最古に属する平山城で周囲に海水を導入した
特殊な城です。14代直澄に至る400年間有馬氏の本城で栄えました。

北有馬町の歴史
日野江城は健保年間の築城とされ、有馬氏が慶長19年(1614年)に 
日向国延岡に移封するまでの約400年間有馬氏の居城でした。 
全盛期には現在の長崎県、佐賀県など肥前国の大半を領有し21万石の戦国大名に 
成長した時期もありました。また、足利将軍からは大友氏、島津氏と伴に九州3屋形の 
1つとして、肥前館号をゆるされているほどの権威を与えられていた。 
長い有馬氏の歴史の中でも特に第13代の有馬晴信の時代には、有馬セミナリオ創立、 
天正遣欧少年使節のヨーロッパ派遣などをつぎつぎに実行。 
日本史上でも1大動乱期の戦国時代のことです。 
晴信は1580年代前半に佐賀の龍造寺氏と戦った島原の沖田の戦いにイエズス会の 
軍事援助などで勝利し、島原半島には平和が訪れました。 
その後、有馬晴信は豊臣秀吉の九州征伐で秀吉政権の統制下に入り 
1600年関ヶ原の戦いでは徳川方につきました。 
有馬氏は徳川家康公認の御朱印船貿易などで海外と積極的な交流を深めていきます。 
しかし、岡本大八事件に巻き込まれ、甲斐の国大和村で死罪となりました。 
その後、後を継いだ直純の時代に日向延岡に移封となり、約400年の有馬氏の 
栄華を誇った日野江場は廃城になりました。  
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金箔瓦の出土

平成10年8月、国指定史跡日野江城跡から金箔瓦が出土しました。 
金箔瓦は豊臣政権の中でも重要な位置を占める城郭に使用されており、いわば秀吉の 
お墨付きを得た事を示すステータスシンボルでした。 
金箔瓦が出土したことは4万石の小大名にすぎなかった有馬氏が秀吉と密接な関係に 
あったことを意味する重要な物件として極めて重要なものです。 

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原山ドルメン

「ドルメン」とはフランスの地方語プレトン語で、ドルは卓、メンは石のことです。 
支石墓とゆうのは朝鮮でなずけられたもので石で支えられた墓とゆう意味です。 
紀元前4世紀頃ドルメンを構造した原山人は米を作る事も布を織る事も知っていた 
文化人でした(縄文時代後期)  

日本最古最大の支石墓群で考古学上貴重な遺跡で有名です。
*外形は北九州のものと同系列ではあるが内部主体が違う
*多くは原山だけで見られる箱式石棺で小さなものである
*縄文式文化の風習で屈葬である
*立地条件が標高250メートルの高原にある
*100基を越す集団墓地である
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階段遺構

階段遺稿は現在5個所から検出されている
B構築された年代は16世紀後半から17世紀前半 のものと思われる。
階段の幅は排水溝を伴い約4メートル〜7メートルで、ほぼ直線的に 
構築されている。階段の1部には五輪塔の地輪が使われているため、構築されたのは 
有馬氏がキリシタンであった時代であると考えられる。 
また、今回金箔瓦が出土したことによって秀吉と密接な有馬晴信により構築された可能性が 
強くなったが五輪塔を使った階段に先行する自然石を利用した別の階段が
検出されており 晴信が構築した階段に先行して晴信以前に
すでに直線状の階段が存在していたと思われる。  
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天正遣欧少年使節

天正少年使節は、16世紀後半、信長や秀吉の時代にヨーロッパに渡り
ヴァチカンでローマ教皇の謁見を賜った日本人使節です。
使節はヨーロッパの人々に日本を知らしめ
同時にヨーロッパからわが国に珍しい文物を
もたらしました。活版印刷もその一つです。
使節がヨーロッパから持ち帰った一台の印刷機によって
わが国に初めて活版印刷が誕生しました。

遣使
伊東マンショ  
原マルチノ 
中浦ジュリアン 
千々石ミゲル 

派遣者
大友宗麟(義鎮) 
大村純忠 
有馬鎮貴
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有馬セミナリヨ

天正8年6月(13代有馬晴信の時)日本最初のセミナリヨ(教区神学校)が
日野江城下に建てられ、14〜16歳前後の貴族の子弟が日本文法や古典の他
ラテン語、ポルトガル語、キリシタンの教理等を学んだ。
後に遣欧少年使節として遠くヨーロッパに使いした、千々石清左衛門等は
このセミナリヨの生徒でした。有馬セミナリヨは、我が国西欧文化の発祥の地として
遠く海外にまでその名を知られています。
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昔、ぞうがいたんだって!!

昭和40年代初め、日野江城跡の畑地、砂擽層から1個の化石が発見された
この後同じ種類の像の歯、足の骨の化石が下浦口、願心寺裏の崖から出土。
ムカシマンモスゾウの一種で南方マンモスとも呼ばれる象の子孫で
シベリアなどで発見される1万年前の氷づけマンモスの先祖です。
又、昭和54年夏、出口公民館下の地層から、化石らしいものが発見され
これは70年前に絶滅したアゲホノゾウの上顎の臼歯、牙、肩の骨などの化石が
発見された。象類が生きていたのは、有明海や島原半島一帯が
大きな湖か、浅い海だった頃の話です。
(鹿児島大学地学教室、大塚先生のコメント)

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北有馬散策