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| 長良川上流を見る、右上は金華山 | 墨俣一夜城横の長良川岸 | 長良川下流を見る、県道R31の長良大橋 |
太閤出世の地 墨俣
3月も終わりの頃、墨俣(すのまた)の桜が開花との話しを聞き、未だ伊吹おろしが吹きつける墨俣一夜城を訪れた。
岐阜からはバスで25分、県道31号線(旧国道21号線)の長良大橋を渡った所が墨俣町だ。町の直ぐ東側を長良川が流れ河口から約40km地点である。終点の墨俣で下車し、徒歩で10分で墨俣一夜城に着く事が出来る。
墨俣一夜城から2キロにわたって長良川に寄り添うように流れる犀川、その堤の桜トンネルは、期待に反し未だ3分咲きと言ったところであった。
墨俣は1530年(享禄3年)に大洪水があり、それを機会に揖斐川・墨俣川(長良川)・犀川・中州川の河川によって、一村もしくわ複数の部落を堤防で囲み(輪中)、水防共同体を形成したといわれている。
墨俣町南部にある鎌倉街道は源頼朝により鎌倉と京都までを結ぶ道として鎌倉時代に整備され、さまざまな文化の行き交う道としてにぎわった。緑と水が豊かなこの道は旅人の心を和ませ「十六夜日記」などの紀行文にも登場している。また1602年(慶長7年)墨俣町北部にできた美濃路は、東海道の熱田から分かれ、中山道の垂井宿に至る脇街道であった。この街道の宿場の中で、唯一川に挟まれていたのが墨俣宿。陸と河川が利用できるという地理的条件に恵まれていたため、江戸時代中期になると人馬の往来が更に増え、宿場町・長良川の湊町としても繁栄し、この地域の経済・文化の中心地であった。当時は「茶屋は皆長良川の堤にありて風景良し」といわれ、現在では「ぎふ・水と緑の環境百選」のひとつでもある。その頃の面影は、現在残っている古い町並みや鎌倉街道の碑・美濃路の碑・西行法師の歌碑・墨俣本陣跡・琉球使節通行記念灯篭・脇本陣の門などからも知る事が出来る。
今では想像もつかないが、私の知人は終戦後、親に連れられ、ここ墨俣からポンポン舟で犀川から長良川に出て桑名まで下り、よく潮干狩りに行ったそうだ。
この町の売り物は何と言っても「秀吉出世の地」、一夜城址である。今はここに一億創生でできた素晴らしい城がある。墨俣一夜城である。私は入場料を払い天守閣まで直行。ここから美濃(岐阜)の稲葉山城(岐阜城)まで距離は12キロ。今でも肉眼でその城のある金華山は十分見る事が出来る。
織田勢は秀吉による一夜城が出来た翌年、多くは舟で長良川を上り稲葉山城を攻め落したという。
難攻不落の稲葉山城を落とし、美濃・尾張をとった信長は天下布武の道を歩み出し、安土桃山時代へと動き始め、新しい局面を迎えた。一夜城は砦に過ぎなかったが、大きな歴史的役割を果たしたに相違ない。
私は一夜城の直ぐ横を静かに流れる長良川を見つめながら古き昔に思いを馳せた。
「交通の要である州俣(墨俣)を制するものは美濃(今の岐阜県)を制し、美濃を制するものは天下を制す」
長良大橋
日本百名橋のひとつ。岐阜県大垣市墨俣地区(旧墨俣町)と岐阜市を結ぶ長良川に架かる県道(岐阜県道31号岐阜垂井線)のトラス橋。当初は鉄道との併用橋として建設される。鉄道は橋の南端を走らせる予定であった。延長 382.7m、 幅員 15.4m 。
岐阜県安八郡墨俣町は濃尾平野の西北に位置し、長良川右岸に沿った町で平坦な地形となっている。東は長良川をへだてて岐阜市・羽島市と隣接。北は本巣郡穂積町と西と南は同じ輪中の安八郡安八町と境を接している。以前は、木曾・長良・揖斐の三川はこのあたりで接近したくさんの支流が網の目のように流れ込み、ここに中州を形成した。「すのまた」の地名もここに由来する。
墨俣一夜城
永禄9(1566)年美濃の斎藤勢がいる長良川べりの稲葉山城(後の岐阜城)の攻略の前線基地とするため、織田信長の命を受けた木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)は、このあたりに精通した川並衆を集め三昼夜半でこの低湿地に城を築いた。これが墨俣一夜城である。
現在の城は「ふるさと創生一億円」を基に立てられた金鯱がまぶしい歴史資料館である。天守閣の一対のシャチは雄が高さ120a、雌が同115a。計27`の大蔵省造幣局製の純金が使われている。5階は展望台になっており、犀川沿いの1000本の桜並木が一望でき、ここからの眺めは抜群である。
なお、謎に包まれていた墨俣一夜城の全貌が、昭和52年愛知県江南市の旧家(前野氏現在は吉田姓)から、伊勢湾台風で倉が毀れたときに発見された当時の資料「前野家古文書」により、全貌が明らかになった。当資料館ではその資料に基づき「墨俣築城への道」の展示をしている。
安八郡墨俣町墨俣城之越1742‐1 電話 0584-62-3322
休館日 月曜日(当日が休日の時はその翌日)・年末年始
名鉄岐阜駅から岐阜バス25分墨俣下車徒歩10分・名神高速 岐阜羽島インターより車15分
■ 一夜城 STORY ■
墨俣城は通称一夜城で知られ、最近までは幻の城として、その実態が確認しがたい時代が400年ほど続いた。
これは、旧家から偶然発見された信長と秀吉に従って終生戦いを共にしてきた前野長康を始めとする一族の記録、「前野家古文書」の中の”永録墨俣記”が基本になっている。
永録3年5月、桶狭間で今川義元を討ち取った織田信長は、その勢いに乗じて墨俣に塁を築き美濃攻めを行うが増水のため敗退。当時墨俣は無数の大小河川・沼地・深田で囲まれており、孫子の兵法に「死地又生地なり」とある通り築城は至難の業であった。永録8年暮れ、信長は密かに秀吉を呼び寄せ「短期間に少数の兵で築城をやれ」と蜜令。秀吉は直ちに蜂須賀小六の所へ行き「この機会を失えば、この世に出る機会もなしと存ずる次第、何卒御諒承あれ」と協力を依頼、ねねの弟・小一郎の頼みが加わるが、小六暫時口を閉じて語らず、しばらくして口開き、「墨俣のこと御引き受け申す」と。かくて墨俣陣の首脳である藤吉郎、小一郎、小六、長康の命を賭けた同盟関係が成立する。
墨俣押出惣勢子
一、前野長康 312人 一、日比野六太夫 250人 一、稲田大炊介 656人 一、山方衆 是は八層衆七層衆を含むものなり 河口久助 156人 梶田隼人 187人 長江半之丞 222人 一、草井船頭衆 48人 一、犬山船頭衆 75人 一、大工棟梁方 26人 一、青山新七 足軽鉄砲隊 74名 一、蜂須賀小六 手の者 133人 一、惣大将 木下藤吉郎 一、メ惣勢子 2140人是有。
永録9年1月2月3月七層八層の山々で桧と松を切り出し、4月5月6月に雪解け、五月雨、梅雨前線を利用し木曽川の支流・飛騨川を筏で流す。7月8月には松倉(川島町)において2間半と1間半に製材し、組立するばかりにした。9月12日午前2時、のろしを合図に松倉瀬上より、木曽川の一大分流・境川を墨俣まで川舟・田舟を使い綱で引張る。15粁のとろこを10時間かかって正午に着く。直ちに築城と戦いの準備に入る。昼間は馬柵、夜は城作り。「至極難儀に候。生涯30の砦、50の城を攻めたが、これほど苦しいことはなかった」と秀吉は述懐している。翌9月13日、小雨の中東北より稲葉山軍の500人ばかり攻め来る。9月14日、馬柵が大略出来上がる。敵軍2000の兵が攻め来るも、馬柵と鉄砲で守り通し敵は退却、築城と戦いは成功したが、尾張方は15%の戦死者を出す激しい戦いであった。
墨俣築城の規模は下の通り。
一、高やぐら・・・・・・5棟、これは2層、高さ21尺、間口4間半、奥行2間半
一、平やぐら・・・・・・3棟、これは高さ14尺、間口7間、長屋にて武者溜まり
一、土居・・・・・・・・・250間、これは高さ6尺。
一、高塀・・・・・・・・・136間、東北に向い取付け。木組の上、ぢかべに堅固に構える。高さ5尺。
一、馬止め柵・・・・・1800間、高さ6尺。前野長康受持。昼夜分かたず働く。
一、堀切り・・・・・・・350間。幅10尺ばかり。稲田の手の者仕る。在郷百姓衆合力600人。
一、信長公座敷・・・間口3間半、奥行2間半。
一、城木戸・・・・・・・大手、搦手口2カ所。
天の時を待つばかりとなった翌年の永録10年8月1日、信長一斉に宿願の稲葉山城攻略の陣触を出す。8月15日秀吉の組は沢井左衛門・山内一豊等の寄騎衆と共に、30余艘の舟で長良川を攻め上がり、水の手谷道より駆け登る。搦手の門より突入し、一番乗りを上げる。柴田勝家等の主力部隊は七曲道より二の丸を経て本丸へ。稲葉山城は早朝からの攻撃で、午前10時に落去。信長入城。信長は父信秀以来30有余年遠き道であった美濃攻略を果たす。
かくて天下平定の道は信長と秀吉この二人の英雄によって開かれ、戦国時代より安土桃山時代へと時は移りゆき、中世から近世へと日本史は転換してゆくことになる。
(墨俣一夜城歴史資料館発行資料参照)
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