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| 東海大橋 | 海津町秋江付近の長良川 |
長年の水との戦いを象徴する高須輪中
木曾三川(きそさんせん)とは、木曽川、長良川、揖斐川の3つの川の総称である。現在の千本松原や木曾三川公園センターから北には、揖斐川と長良川がVの字のように次第に接近しつつ南方の伊勢湾に向かって流れ、高い堤防で海津町を囲んでいる。長良川のすぐ東側には背割堤を挟んで木曽川が平行して流れている。
私は木曾三川公園から今度は揖斐川の堤防を北上し、海津町歴史民俗資料館へと向った。農家の家々を堤防より遥か下に見下ろしながら車をすすめた。ここは海抜ゼロメートルの地域だ。高須輪中の田畑の中をいくつかの大小の川が流れているのが見えた。そして堤防の近くには、あちらこちらに水防倉庫や排水機場の建物が目に付く。地元の人は長良川河口堰の運用、しゅんせつで長良川の安全度がかなり高まり、これからは安心して生活が出来るのではないかと笑顔で言っていた。
この資料館は町がニ十数億円をかけ造っただけあって、お城を見るような凄い建物だった。早速親切な案内で館内を見て廻った。高須輪中の事や低地の農業や高須藩の歴史など、分かりやすいく説明してもらった。江戸時代、この地方を守っていたのは高須松平藩で、3万石という小さい藩であったが、尾張徳川家の血を引く名家だったとか。三階の窓を開ければ、そこにははるか遠くに名古屋駅のツインタワーが見えた。
いま、このあたりは肥沃な土壌を誇る水郷地帯、幾度となく水害に遭い、長い間水との戦いで学んだものを活かし、近年では新しい農業が定着しつつあるようだ。池や堀つぶれをうめ、道や水路をつくり土地改良事業がすすんでいる。低地特有の堀田農業から別れを告げ、今では温室やビニールハウスでの速成栽培が定着した。きゅうり・小麦・大豆では岐阜県一の生産量を誇るまでなった。また、淡水真珠の養殖もされているとか。しかし今尚、この低地町では、治水予算にはかなりの犠牲を払わなければならない宿命も背負っている。町内河川の大江川や中江川の護岸工事を更に進めていく必要があるからだ。
この資料館の隣は、町がつくったプールと7億円をかけたという図書館があった。輪中の海津町にも、長い歳月、水と戦いながら代々から引き継がれたバイタリテイーが、ようやく日の目を浴び未来に希望が見えてきたようだ。木曾三川公園を近くにもつこの町は、これからは農業と観光の町に生まれ変わろうとしているのだ。
帰りはまた長良川の堤防へ出た。過去に何事もなかったかのようにこの川は広々とした平野をゆつくりと静かに、しかもどうどうと流れていた。しかし、どこか殺風景でもある。それは一部の堤防や河川敷を除き草木が少ないことだ。河川の安全性・経済性と自然保護は一見相反するようにも思われるがそうではない。自然と人間とが共生できる川、これこそがだれもが望み期待する川ではないだろうか。
岐阜県の最南端の海津郡海津町は揖斐川と長良川の下流にはさまれた海抜1メートル以下の輪中(わじゅう)の農業町、人口約1万5千人。「国営木曾三川公園」や「治水神社」などがある。町内を縦横に走る河川や水路や野池では全国でも名高い魚釣りのメッカ。また長良川下流のこのあたりは昔そのままの自然が残されてた野鳥の聖域だ。
長良川堤防沿いにはサイクリングロードがあり、周囲の景色もよく快適なツーリングが楽しめる。近年では「長良川国際トライアスロン大会」、「長良川カヌーフエスティバル」、長良川特設コースが舞台の「デレーケ記念レガッタ」など大きな大会もこの町で行われている。
海津市ホームページ
海津町歴史民俗資料館
田園地帯にそびえる城郭造りの資料館。高須輪中の大地形模型と解説ビデオが設置してあり、水との戦いが一目瞭然に分かる。また河川改修の歴史や輪中の農業と生活に関することなどを知る事が出来る。野外には冠水を除く排水機や、低湿地帯の生産性を高めるために工夫された堀田(ほりた)が再現してある。
海津町萱野205‐1 電話 0584-53-3232 休館日 月曜日(月曜が休日の時はその翌日)・年末年始。
堀田・・・江戸時代後期から明治時代にかけ、輪中地帯に造られた水田。堀田は、米が水に浸からないよう水田の一部を堀り上げて高く積む独特の農法。土を掘りあげた跡は「掘潰れ(ほりつぶれ)」と呼ばれる水路や池となり、舟の交通路として活用された。
海津町歴史民俗資料館 堀田(海津町歴史民俗資料館内) 水屋のある家
西に長良川、東に木曽川に囲まれた岐阜市の南に位置する町。天正14年(1586)の大洪水で新しく現在の木曽川が生れたが、羽島市はこの時に葉栗郡から羽栗郡へと改名され、また、尾張の国より美濃の国に編入されている。宝暦年間には、薩摩義士の御手伝普請による宝暦治水工事の大業が行われて、輪中地帯の真っ只中にある羽島市は多大にその恩恵を受けた。
羽島市にある三川分流碑
木曾三川の治水史に新たなエヒソード(岐阜新聞朝刊 1999.4.24)
岐阜県海津郡海津町出身で日本競馬の生みの親・安田伊左衛門氏が、明治時代にオランダ技師ヨハネス・デ・レーゲの指揮の下で行われた木曾三川分流工事の際、土地の強制収用で苦しんでいる農民達を救済するため、私財を投じ12回にわたる裁判を行い、示談に持ちこんだということが、1948(明治23)年に日本競馬会が発刊した同氏の伝記の記述で判明した。明治から大正にかけ治水史の中で語られる事が少なかった裏面史的エピソードとして注目される。
円 空
円空は寛文9年(1632)美濃国竹ケ鼻、現在の岐阜県羽島市上中町中に生れた。このあたりは輪中の中央辺に位置する水害多発地帯であった。水害で亡くした母を供養するため彫り始めたといわれる円空仏は生涯12万体の仏像を生みだし、人々の悲しみを癒し希望を与えた。
弥生時代までは海だった濃尾平野
濃尾平野の大地は、地殻変動によって古くから東高西低の形になっており、平野を流れる河川は西に集まり、養老山脈に押しつけられるように流れていた。およそ6000年前の縄文時代には、伊勢湾は大垣あたりまで広がっていた。その後山間部からもたらした土砂の推積作用が活発となり海は次第に浅くなり、沖積平野が形成されたと言われている。今から1500年前には標高5mまでが海で、濃尾平野と木曾三川の原型が形成された。しかし長良川・木曽川・揖斐川が網状に流れていて洪水の度に川の形を変え暴れていて、いったん洪水が起こると、一つの地域が三つの川の被害を受けいていた。人々は、弥生時代くらいからこの地に住みはじめ、それと同時に水との戦いも始まったのである。
御囲い堤で泣いた美濃
江戸時代の初期1608年(慶長13年)には、大坂城に余勢ををもつ豊臣秀頼をはじめ西軍大名の侵略を防ぐという目的で木曽川左岸に徳川御三家の尾張の国を取り囲むように徳川家康の命令により約48kmの「御囲い堤」(左地図)という大堤防が造られ、これは尾張の国を洪水から守る役割をも果たした。これは木曽川の左岸にある愛知県の犬山市から弥富町までで、尾張藩は対岸の美濃藩に対して「美濃の堤は尾張の堤より3尺低かるべし」として、大堤を作らせないようにしたのである。
そりにより美濃の国では対岸の堤防より3尺(約1m)低くしなければならなかった為、この地域の自衛手段として輪中(わじゅう)造りがますます発展させることになった。輪中造りのもう一つの理由は、洪水の他に伊勢湾の海水の侵入を防ぐ必要があったことだった。輪中はこうして自然堤防から尻無堤そして潮除堤へと発展していった。こうして1732 年には、いくつかの小輪中の堤をつなぎ連続する堤防をつくり現在の高須輪中が完成した。輪中の歴史はここに住む人達自身で造られ、人々は同じ輪中に住むものとして、村人の生命・家屋・田畑・家畜を洪水から守るという共通の意識で結ばれ、輪中独特の社会や気風・文化・知恵を作り出すようになった。中世末に形成された輪中の村連合は、治水だけでなく治安にに至るまでの共通利害を守る自治的組織であって、強力な政治権力をも支配させない排他的といわれる輪中根性の伝統は近世にも受け継がれていった。
明治になり三川分流工事完成後は高須輪中の米作量は飛躍的に上昇したといわれている。
下流における木曾三川の関係
昔はこれらの川は今のように分かれおらず、ことに岐阜県南部から三重県長島町にかけての地域では上流で大雨が降ると、先ず揖斐川が出水し、次いで長良川、木曽川へと東へと移り最高水位となった。
しかし、河床が木曾・長良・揖斐の順に東から西へ次第に低くなっていて、各河川から順繰りに出水した水が最も低い揖斐川に流水し、いつまでも減水しなかった。このためこの地域の堤防はしばしば決壊した。地元では昔から「四刻、八刻、十二刻」という言い伝えがある。この四刻、八刻、十二刻とは何のことかというと、揖斐、長良、木曾の三川の出水時間。上流で降った雨が下流にたどりつく時間を表したもので、江戸時代から言い伝えられてきたという。一刻は約30分だから、揖斐川では2時間、長良川では4時間、木曽川では6時間。上流での豪雨はそれだけの時間を経て下流の町まで押し寄せてきた。観測施設もなく堤防も不十分で、いったん洪水となれば手のつけられない暴れ川に変わる時代、当時は川の水のちょっとした変化がわが身を守る貴重な情報源であった。
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