長良川紀行  千本松原・治水神社                

千本松原 治水神社
千 本 松 原 治 水 神 社

薩摩義士の像 長良川大橋
薩摩義士の像(治水神社内) 千本松原より上流長良川大橋を望む

薩摩義士をまつる治水神社

昔から水と人との闘いが続いてきた。輪中や千本松原は水と人間との闘いの証である。
私は三重県長島町の「輪中の郷」を見学した後、長良川大橋を渡り対岸の美しい「千本松原」にある岐阜県は海津町の「治水神社」へとやって来た。ここは河口から私の車のメーターではおよそ20km上った所に位置していた。ここでの長良川は、河口堰や河口に近い事もあり、水は河川敷の際まで満万とたたえ、そこだけ時間が止まっているのごとくゆったりと流れている。実におだやかな風景である。この一帯は長良川を真ん中に東に木曽川、西に揖斐川が寄り添うように流れていて、全国を探してもこの狭い地域にこれほどの大河が3本も集中して流れているのは珍しいのではないだろうか。
改修工事地図長良川と揖斐川の背割堤に「千本松原」はある。そしてその堤防の揖斐川河川敷に、丸に十の字の薩摩藩の紋所も鮮やかな「治水神社」があり、85名の薩摩義士が祀られている。
宝暦治水の計画図をみて見ると、当時の川は未だ木曾川・長良川・揖斐川(伊尾川)の下流部では、輪中を取り囲んで網の目のように連なって流れているのが分かる。見方によっては、この三川の中に輪中という島が幾つに有るようにも見えるし、また現在の岐阜県羽島市南端で既に木曽川と長良川が合体してして、ここから下流は三川ではなくニ川であったようだ。
川床は、木曽川・長良川・揖斐川(伊尾川)に向かって低くなっており、この工事は三川の流れを分ける事に力がそそがれたようだ。工事が始まる前年の宝暦3年、江戸幕府は美濃に役員を派遣し、水害に悩む村々を調査し、輪中の村々から願い出を元に、薩摩藩に宝暦治水の計画を作らせた。この工事は言うなら徳川家が薩摩藩に対しての経済制裁だったに違いない。今も地元民は工事を命じた幕府よりは、むしろ多くの犠牲を出し工事を担当してくれた薩摩藩・鹿児島県に対しての感謝の気持ちの方がはるかに高いのである。人の人生においても、なにか考えさせられる所があるような気がする。昭和13年治水神社が出来て以来、春・秋の例祭日が定められ、鹿児島県の関係者らも招待し、今にいたっても毎年続けれているそうである。
私も神前で静かに手を合わせ、およそ250年前の薩摩義士達に心から感謝をし冥福を祈った。


岐阜と鹿児島は姉妹県
遠く離れた岐阜県と鹿児島県は、苦難を極めた薩摩義士の偉業をたたえるとともに、この絆を深めるため、昭和46年7月、姉妹県の盟約を結びました。

岐阜・鹿児島姉妹県盟約20周年を記念して平成3年に「薩摩カイコウズ街道」と名付けられた花街道に南濃関ヶ原線(海津市)を中心とした約35kmにわたって鹿児島県の木「カイコウズ」が植えられています。この花は初夏から初秋にかけて房状に鮮やかな濃紅色の花が咲くそうです。

   千本松原                                                   ●


千本松原 長良川と揖斐川の背割堤に連綿と連なる美しい松並木。
この松並木は宝暦5(1755)年、治水事業を完成させた薩摩藩士が涙ながらに植えたものである。江戸中期の宝暦4(1754)年、江戸幕府9代将軍家重は薩摩藩主島津重年に木曾三山川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水工事を命じ、油島の締め切り工事などを行わせた。いわゆる「宝暦治水」だ。現在の千本松原は油島の締め切り工事によって造られた堤防の名残である。

   治水神社                                                   ●
「宝暦治水」の工事責任者の薩摩藩家老の平田靱負正輔を祭神とした治水神社。
この神社は昭和13(1938)年に地元の人々の寄附で建立されたもの。
「宝暦治水」は平田靭負をはじめ947名の薩摩義士達が成し遂げた偉業で、治水史例の無い難事は約40万石という巨額な費用と多くの犠牲者を出し、その責任をとって平田靱負は自害したと伝えられている。
こうした薩摩藩の大治水工事も人々には長い間知らされておらず、明治30(1900)年油島締切堤あとに、はじめてこの功績が広く紹介された。
   宝暦治水の略年表                                              ●
木曽川、長良川、揖斐川(伊尾川)の三川から分派した小さな支流は、海津郡、安八郡を中心とした輪中地域を網の目のように流れ、毎年のように氾濫を繰り返し、そこで生活する人々を苦しめてきた。それを救ったのが、薩摩藩が幕府の命令で行った「宝暦治水」である。

宝暦3(1753)年12月  徳川9代将軍家重は、木曾三川の治水工事を外様大名薩摩藩主島津重年に命ずる
宝暦4(1754)年     1期工事  水害復旧工事  ・   2期工事  大槫川洗い堰・油島締切工事
宝暦5(1755)年5月   完成

地図日本の治水事業でも最も困難な工事といわれた宝暦治水は、木曾三川の完全分流には至らなかったが、今でもその偉業がたたえられている。


宝暦治水の二大難工事


大槫川の洗堰
川床の高い長良川の水が、大槫川へ強く流れ込むのを緩やかにするため大槫川の入口に作られたのが洗堰。
堰は今の安八郡輪之内町大藪と海津郡平田町との間に長さ177m、幅42mにわたって蛇篭などを使って作られた。

油島の喰違堰
油島新田と1962m離れた下流の長島輪中の松之木村との間に堤を築き木曽川と揖斐川のニ川を二分した工事。
この間で合流する木曽川と揖斐川(伊尾川)の川床は1.8mほどの差があり川床の低い揖斐川に水が流れ込み揖斐川沿いの村々に被害を大きくしていた。工事はここに上流から約990m、下流から約360mの堤を築き川を二分するものだった。宝暦治水のときは中門を開けておくだけで、喰違堰は出来ていなかったが、その後もこの工事は行われ堰が出来あがった。

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