崇福寺と道三塚

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岐阜市散策

織田家の菩提所・崇福寺と道三塚



バス停「長良川国際会議場北口」から徒歩2分、静かな住宅地に織田家の菩提所「崇福寺」、そこからさらに徒歩5分ほどのところに"美濃のマムシ"といわれた斉藤道三が祀られている「道三塚」があります。
崇福寺の境内からは金華山が見えます。その頂上には斉藤道三、織田信長の居城であった岐阜城がそびえています。
また、崇福寺の近くには、長良橋の下流で長良川右岸河畔にある「岐阜都ホテル」のほか、「岐阜メモリアルセンター」、「長良川国際会議場」、「県民文化ホール未来会館」、「長良川スポーツプラザ」など、スポーツ、文化、産業のイベントやコンベンションが、歩いていける距離のエリア内で同時に開催できる岐阜県が誇る大型複合施設の集積群・「世界イベント村ぎふ」があります。


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臨済宗妙心寺派  
神護山 崇福寺(そうふくじ)

織田家菩提所、有栖川宮家祈願所、快川国師ゆかりの寺。
本尊は延命地蔵菩薩、聖観音。美濃三十三観音霊場第十五札所。
崇福寺 1
永禄10年(1567)8月、織田信長が後の豊臣秀吉、木下籐吉郎の功により斎藤道三の孫の斎藤龍興を亡ぼし美濃に入るや、ここ崇福寺を菩提所とし保護した。
また、「安禅はかならずしも山水をもちいず心頭滅却すれば火自ずから凉し」と言ったことで有名な快川紹喜が住職を努めたこともある由緒あるお寺で、堂内には貴重な資料が展示されているほか、きれいに手入れされた庭では、秋にはドウダンツツジの紅葉が見られる。毎年10月第一土曜日、信長公の供養が行われる。

拝観料 大人 150円
岐阜市長良福光2403-1(崇福寺町2) пD058-231-2613
JR岐阜駅から岐阜バス「長良・さぎ山まわり」「三田洞団地」「八代」行20分「長良川国際会議場北口」下車、徒歩2分。


水上勉作 小説「その橋まで」
・・・崇福寺と水上勉・・・

水上勉の小説「その橋まで」にこの崇福寺が出てきます。
物語は昭和40年代、岐阜刑務所を仮釈放された男の主人公の葛藤を描いた作品です。
「岐阜刑務所(平成元年に長良より岐阜市北西部則武に移転)から仮釈放で出所した名本登は、保護司である崇福寺の住職・笹本愚堂と身元引受人の木工所経営者・太知喜三郎に迎えられ、17年ぶりにシャバの空気を吸った。・・・・・」 
(↓写真は岐阜市内の長良川に架かる長良橋)
長良橋


崇福寺から望む岐阜城 崇福寺 稲葉一徹寄贈の梵鐘
崇福寺から望む岐阜城
静かな崇福寺からは長良川を挟んだ南東に金華山山頂に聳える岐阜城が見える。
稲葉一鉄・寄贈の梵鐘
一鉄は戦国時代から安土桃山時代にかけての武將。大垣の曾根城を居城として西美濃三人衆として活躍。土岐氏、斉藤道三から三代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。 頑固な一面があり、そのことから号の「一鉄」にかけられて、"頑固一徹"の言葉が生まれたとされている。


崇福寺 1 崇福寺 2 崇福寺 4 崇福寺 5
崇福寺 7 崇福寺 8 崇福寺 6 崇福寺 9


崇福寺 信長親子の廟 織田信長公父子廟
信長・信忠父子の廟所は本堂裏にある。

←石牌は位牌形で、一つの石牌を左右半分づつに分けて信長・信忠父子の法名が刻まれている。
→墓地の右側には、4m四方の格子塀に囲まれた宝形胴葺屋根木造彩色の位牌堂 (岐阜市指定史跡)があり、父子の位牌が安置されている。また、その正面に入母屋胴葺の読経堂がある。
崇福寺 信長親子の位牌堂
崇福寺 血天井 霊を弔う血天井
本堂の血天井は信長の孫三法師秀信が慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前夜(約1ヶ月程度)西軍に属し、東軍の攻撃を受け岐阜城が落城した際、戦死した将兵38名の霊を弔うため城の床板を天井に張ったもので、今も黒ずんだ血痕が付着している。
なお、三法師秀信は数名の家来に伴われ、高野山に落ち延びたがかの地で若死した。
崇福寺 信長公愛用櫓時計 信長公愛用櫓時計
信長は外国の文化に興味を示すことが多かった。これはポルトガルから贈られた櫓時計。なお、文字盤は日本で取り替えたものである。
そのほか、崇福寺には国重美、市重文の美術品、寺宝などの品々が多数保存されている。


崇福寺 秋の満天星 1 崇福寺 秋の満天星 2 崇福寺 秋の満天星 3
崇福寺 秋の満天星 4 崇福寺 秋の満天星 5
秋の満天星(どうだん)
 地図リンク 崇福寺←崇福寺の地図


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美濃の国取りをした斉藤道三の墓  
道三塚(どうさんづか) 

昭和48年(1973)に放送されたNHK大河ドラマ「国盗り物語」の主人公・斉藤道三は、僧侶から油商人を経てついに美濃国を制した戦国時代の武将であるが、道三は斉藤義龍と長良川を隔てて戦い、弘治2年(1556)4月、長良川中渡しの合戦に打って出たが、道三方は敗れて大半の将兵が戦死した。道三自身も城田寺に退れようとするところを長井中左衛門、小牧源太、林主人らによって討ち取られた。
最初、道三の遺体は祟福寺の西南に埋葬されたが、塚は長良川の洪水の度に流され、天保8年(1837)常在寺第27世の日椿上人が現在の地に移して碑を建てた。現在はひっそりとした住宅地の一角に道三の墓もある「道三塚」となっている。
岐阜市指定史跡。岐阜市道三町。バス停「国際会議場北口」下車、徒歩5分。崇福寺の前の道を西へ「家具のツチダ」手前を北へ2つ目の小さな4つ辻南東角。
江戸時代から道三は極悪人として"美濃のマムシ"といわれ語られてきたが、今では、岐阜のまちづくりの基礎を成した道三の遺徳を偲び、昭和47年(1972)から岐阜市では、毎年4月上旬に「道三まつり」が開催されている。
道三塚 1 道三塚 2

2008.11.30(日)



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