川端康成が歩いた岐阜市の街をたどる 中山道加納宿 本郷町通りケヤキ並木 時計に会える風景 信長公騎馬武者行列
岐阜シティ・タワー43 梅林公園 ヒメコウホネが咲く達目洞


岐阜市散策

御鮨街道


街道とは歴史を今に伝える道。「御鮨街道(おすしかいどう)」は岐阜圏域にある歴史ある街道の一つです。
江戸時代、岐阜の城下町(岐阜町)を治めていた尾張藩は、清流長良川の鵜飼で捕れた鮎(あゆ)を「鮎鮨(あゆずし)」にして将軍家に献上していました。この鮎鮨を運ぶ道として使われていたのが岐阜街道(尾張街道あるいは名古屋街道)で、この街道はいつの頃からか「御鮨街道」と呼ばれるようになりました。

「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれているこの「御鮨街道・岐阜~笠松を巡るみち」を私も辿ってみようと思います。さあ、皆さまもご一緒にどうぞ!




長良川の鵜飼


長良川の鵜飼で捕れた幕府への献上鮎は、岐阜町の御鮨所(おすしどころ)で熟れ鮨(なれずし)に加工され、加納問屋場⇒笠松問屋場⇒笠松湊へとリレーされていきました。


江戸時代の長良川の鵜飼 江戸時代の御用鮎鮨の漬込み
江戸時代の長良川の鵜飼風景 御鮨所での御用鮎鮨の漬込み作業


 御鮨街道のスタートは、鵜飼が行われている長良川畔の川原町界隈から。

この川原町は江戸時代に長良川の船運の重要な湊として栄えました。
昔の紙問屋、材木問屋の面影を残し今でも当時の商家を偲ばせる格子造りが残っています。

鵜飼観覧船事務所
岐阜市鵜飼観覧船事務所

ここがスタート地点です。古い町並みの通称・川原町を西に進みます。岐阜市湊町1-2
玉井町付近
玉井町付近
旅館の十八楼やお菓子の老舗や岐阜団扇の店もあります。
川原町
川原町界隈

古い町並みが続きます。川原町は、湊町、玉井町、元浜町、早田などの総称です。
川原町屋
川原町屋
蔵を活かした飲食店です。小物もあります。明治時代は和紙問屋だった建物です。
川原町泉屋
川原町泉屋
川原町の西のはずれ、熟れ寿しなど鮎料理のお店です。
美登里橋
美登里橋
この橋を渡り右へ、法運寺の西側の道を南に向かいます。
西材木町
西材木町

南に進みます。古い家もあります。
久屋町
久屋町

この付近も古い町並みを残しています。


 鵜飼で捕れた鮎は、長良川に近い益屋町の御鮨所で熟れ鮨(なれずし)に。
林稲荷神社
久屋町から金華山の方角・東へ進み国道256号を横切ります。

⇐ このあたりは益屋町といい、古民家が落ち着いた町並みを感じさせてくれます。
現在ある林稲荷神社(写真左、鳥居がある所)あたりに、長良川の鵜飼で捕れた幕府に献上する鮎を”熟れ鮨”に加工する「御鮨所」があったといわれ、ここからが「御鮨街道」だという説もあります。 

正面奥は岐阜大仏のある正法寺です。この大仏はカゴ大仏で、高さは13.63m、天保3年(1832)完成した日本一の大きさです。胎内に木製の薬師如来像があります。

この寺の近くには、常在寺、妙照寺があります。

常在寺、妙照寺を見学した後、妙照寺から西へ約300m行き、左に折れ御鮨街道に戻り、靭屋町を南進します。
常在寺 1 常在寺 2 妙照寺 1 妙照寺 2
常在寺・・・ 斉藤道三の菩提寺です。 妙照寺・・・ この寺に松尾芭蕉が約1ヶ月滞在しました。



熟れ鮨(なれずし)とは

塩漬けした魚と飯を合わせ、その自然発酵によって酸味が生じた鮨のことで、今日でも日本各地には古い形のなれずしが郷土料理として残っています。
岐阜県のアユのなれずしのほか、滋賀県琵琶湖周辺では、鮒寿司、鮎寿司、ハス寿司やオイカワを使ったちんま寿司が作られ名物となっています。こと鮒寿司に関しては1年数ヶ月から2年をかけて作る本格的なもので現在は非常に高価な高級食品となっています。和歌山県のサンマのなれがし(これには20年物が存在します)、 日本海側にもアジなどを使ったなれずしがあります。
くさややドリアン同様、異臭食品で、慣れないと独特の臭気が鼻を突きますが、慣れると臭気を感じにくくなることもあります。
岐阜市内では長良橋近くの鵜匠・山下純司さん経営の
「喫茶 鵜」(岐阜市長良中鵜飼94-10)でも、鵜が捕った鮎を使った「鮎のなれずし」(1000円)を食べる事ができます。


岐阜奉行所跡の立て札 岐阜奉行所跡
尾張藩岐阜奉行所跡
御鮨街道の靭屋町より一本東の道で末広町から新桜町の辺りは、江戸時代に岐阜奉行所があったところです。岐阜町は元和5年(1619)尾張藩領になると代官が置かれ、元禄8年(1695)には岐阜奉行が置かれました。奉行所は北屋敷・南屋敷を合わせた東西60間(約108m)南北120間(約216m)余りの敷地に堀をめぐらし、敷地内には奉行所、道場、手代屋敷などがありました。


 靭屋町から南に歩くと米屋町です。この辺りは古い建物を生かした店舗などが見られます。
旧洋服会館 料亭・水琴亭 石原美術
旧県洋服会館
明治後期に建築、貿易事務所、県洋服会館を経て、現在は民間のレストラン。米屋町
料亭・水琴亭 
原三渓の愛した岐阜一番の老舗料亭・水琴亭です。元禄13年(1700)の過去帳があります。米屋町27-2
石原美術 
岐阜市都市景観重要建築物。大正13年築。旧日下部同族事務所として使用していました。現在は美術商。米屋町24番地


岐阜町本陣跡の立て札 岐阜町本陣跡
岐阜町本陣跡 
江戸時代、尾張藩主の岐阜御成の際に、本陣を勤めた賀島堪右衛門(庄蔵)家があつたところです。賀島家は米屋町から西筋の中竹屋町までを敷地とし間口20間、奥行30間ありました。この賀島家は明治24年、濃飛大震災で消失しました。

現在の建物は明治から昭和にかけて海運業で成功し「海運王」と呼ばれた羽島市出身の日下部久太郎氏が大正初期に建築したもので、約1200㎡の敷地に木造2階建て和館と木骨れんが造りの3階建て洋館があり、市の景観条例に基づく重要建築物に指定されていました。しかし、歴史的な町並みの核となってきた旧家「日下部邸」でしたが、和館は県外移築作業が近く始まります。米屋町


 米屋町から更に伊奈波神社を左に見ながら、更に南に進みます。
伊奈波神社
↑伊奈波神社
1900年も前に現在の岐阜公園近くに建てられた歴史ある神社です。斉藤道三の時代にこの場所に移されました。
白木公園付近
↑白木公園付近 白木町
この公園は第二代の岐阜市役所跡地です。


高札場跡 常盤町 →
この道路は御鮨街道と呼ばれ、昔の主要道でした。この辺りは岐阜町の入口にあたり、ここに法令や禁令の御触れ書を書いて掲示した高札場がありました。
高札場跡 1 総構え跡
高札場跡 2 ↑総(惣)構え跡 常盤町
かってこの道の幅いっぱいが岐阜町の総構えだったと言われており、今は半分が暗渠となっています。この北側は土塁があったとされています。


御鮨街道の道標 1 御鮨街道の道標 2
御鮨街道の道標  
この通りは江戸時代、将軍へ献上するための鮎鮨が運ばれたことから、御鮨街道と呼ばれていました。御鮨所(益屋町)で作られた鮎鮨は、この街道を通って江戸に運ばれていました。常磐町 さし源本店前


泉町付近
泉町付近
この辺りは昔の面影はありません。
小熊町付近
小熊町付近
岐阜の伝統工芸・岐阜提灯の老舗・尾関提灯も見えます。交差点には御鮨街道の道標があります。
御鮨街道の道標


金屋町付近
金屋町付近 岡本太右衛門邸 
岐阜市都市景観重要建築物。歴史ある民家がどっしりと、御鮨街道を見守っています。


金屋町から南に進むと美園町です。御鮨街道は美園町を更に南へ、元町へと進みます。御薗(みその)の榎(えのき)は、美園町を横切ってる若宮町通りを左に折れ、橿森神社の前にあります。→
御薗の榎
橿森(かしもり)神社前の御薗の榎 若宮町1
織田信長が開いた楽市楽座の市神として祀られてきました。この木は明治時代にかって御鮨街道の真ん中にあったものを移植された三代目。岐阜市指定史跡。
元町のY字路
若宮町通りを横切ると美園町、さらに南に進み国道248号を横切ると元町。ポケットパークのあるY字路を左(東側)に入ります。
東金宝町
東金宝町通りを横切ります。


曲がりくねる御鮨街道

中山道加納宿が近づくこの辺りから、御鮨街道は右に左に曲がり始めます。
曲がりくねっている理由ですが、意図的に曲がり角を作り、宿場全体を見通せないようにした有事の際の防御機構だったとか、
地盤をしっかりしているところを選んだためだとか、昔の街づくりの流行だったなどいろんな説があるようです。
JR高架をくぐると中山道加納宿の岐阜市加納地区です。


溝端神社の西側の道です。名鉄各務原線の踏切りを渡ります。

幸ノ町。踏切を渡り1本目を右に曲がります。

最初の四辻を左(南)に曲がります。

JR高架と喫茶店の前を西に折れます。

今度は、高砂町を西に進みます。

「高砂町3」の五差路を南に曲がり直進します。JR高架の向こうに中山道加納縮の北番所跡があります。

加納北広江町を南進し名鉄名古屋本線の踏切を渡ります。

江戸時代に立てれた「右 ぎふ道 左 中山道」と彫られた中山道の道標です
ここを東に折れると直ぐに岐阜問屋跡です。




 ここからは中山道を通ります。岐阜問屋は献上鮎鮨の最初の中継地点です。
岐阜問屋跡 岐阜問屋跡の説明板
岐阜問屋場跡   加納新町
現在は民家になっていますが、ここにあった熊田家は江戸時代、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物の運搬を引き受ける荷物問屋でした。
献上鮎鮨”は岐阜町の御鮨所を出発し、初めての中継地点で、ここ岐阜問屋場を経由し、御鮨街道と呼ばれてた現在の加納八幡町から名古屋へ向かう道を通り、笠松問屋場まで届けられていました。


鮎鮨は現代の鮨と違い、塩魚を飯とともに発酵させた熟れ鮨(なれずし)で、元来は魚の保存方法でした。古くは十世紀、延喜式にも美濃国の貢進品として、京へもたびたび贈られていたようです。

尾張藩が江戸幕府に献上する鮎は、長良川に近い岐阜市益屋町の尾張藩専用の御鮨所(御鮨元あるいは御鮎屋ともいっていた)で鮎鮨に加工されました。漬け込みは御鮨元の河崎喜右衛門家と河崎善太郎家が行っていました。
作られる時期は初夏から夏、使われる鮎は長良川の鵜飼でとれたものに限られていました。鵜飼で捕獲された鮎は御鮨元と尾張藩役人が立会って選別され御鮨所に運ばれました。そしてその鮎は、5月は2日2晩、6月~8月は3日3晩にわたって塩漬けし、そのあと水で洗って塩出しして、腹にご飯を詰めました。これを桶(杉桶で直径一尺一寸五分)に漬け込まれ、ふたを万力で強く押し込み、そのままの状態で縛り、江戸へと運ばれたのです。 献上品というだけあって鮎鮨づくりは厳しい定めのもと行われ、代官所が立ち会いし、身を清めた者だけが行っていたようです。

当初、当時の岐阜町が幕府領時代、 元和元年(1615)、大阪夏の陣の帰りに長良川の鵜飼を見物した徳川家康親子が、もてなされた鮎鮨をたいそう気に入り、毎年江戸まで献上するよう命じました。これが幕末まで続く献上制度の始まりでした。元和5年(1619)から岐阜町が尾張藩領になると、尾張藩から幕府への献上品となりました。毎年、5月から8月まで約4000匹分が、10回程度に分けられ岐阜から江戸まで4日から5日程度の時間で運ばれていきました。これは、当時としてはかなりのスピードだったと想像できます。また、岐阜の鮎の熟れ鮨は、将軍家のほか、各大名にも進物として配られていて質・量とも最高だったといわれていました。

江戸時代、献上鮎鮨は、岐阜町(岐阜市)の御鮨所から、伊奈波神社の参道を横切り、岐阜町南の堀を越え、楽市場(橿森神社の前)を南下し、中山道加納宿(岐阜市)に入り、そこで中山道と合流し、南広江、新町、柳町、荒町と進み、茶所(ちゃじょ)で中山道と別れ八丁畷と呼ばれる自然堤防上を南下し、笠松(岐阜県笠松町)へ運ばれていました。更に鮎鮨は木曾川を渡り、尾張の黒田(愛知県一宮市木曽川町)―一宮(一宮市)美濃路との分岐点の四ツ家(稲沢市)―名古屋―熱田―鳴海―池鯉鮒(ちりゅう)-岡崎から東海道の各宿を中継し、江戸まで運ばれていたそうです。

岐阜市歴史博物館(岐阜公園内)には、江戸時代の熟れ鮨の製法を記録している長良川鮎鮨図鑑が保管されており、当時の盛況な様子が伺えます。写真は岐阜市歴史博物館に展示してある熟れ鮨のサンプルです。


 加納新町から加納八幡町へ進みます。ここも中山道加納宿です。

専福寺(加納新町)

中山道加納宿の道標

善徳寺(加納柳町)

加納宿東番所跡(加納柳町)

自然石の道標(加納安良町
左 西京/右 ぎふ・谷汲

加納大橋
道標前の立花薬局を南に。荒田川に架かる橋を渡ります。

だんごや(加納八幡町)

ぶたれ坊と道標(加納八幡町)
江戸木曽路/東海道いせ路




 茶所のぶたれ坊のところで中山道と別れ、一路、笠松街道を南進します。
畷町
畷(なわて)町
ぶたれ坊前の道を南進すると、ここは美しい松並木があったといわれている畷町です。畷とは畦(うね・あぜ)とか真っ直ぐな長い道という意味だそうです。広重の加納城の絵はこの辺りから見たといわれています。
境川に突き当たる
境川に突き当たります。三叉路手前左に地蔵堂があります。 
境川は美濃と尾張の境を流れて昔の木曽川です。川湊もあったようです。左へ行く道は細畑一里塚に向かう中山道の近道です。この辺りは岐阜市下川手です。
並木
並木がありました 
年期の入った大きな並木が僅かですがあります。ここに水神様がありました。街道沿いを流れる境川を利用した大きな蔵のある舟問屋もこの辺りにありましたが今は取り壊されていました。村里町
旧家
古い黒塀と蔵のある大きな旧家
現在の家主は佐合産婦人科を営んでおられます。村里町
馬頭観音菩薩
馬頭観音菩薩 
旅の安全を祈願し、馬の保護神が祀られています。東川手
東川手2丁目付近
東川手2丁目付近
小高くなった道は南に向かって左に緩やかにまがります。
正面は国道21号
面は国道21号 
御鮨街道は左(東)側をくぐり迂回します。東川手
境川の堤防
迂回したあと、元の道に戻り、御鮨街道は境川の堤防を通ります。東川手
振り返ると金華山
振り返ると金華山 
御鮨街道でも比較的眺望のきくところです。東川手
県道14号に合流
県道14号に合流 
御鮨街道はここで県道と合流します。東川手
再び御鮨街道へ
御鮨街道はここで県道14号と別れ左に折れます。 西川手
間もなく笠松町へ
まもなく笠松町 
さらにこの辻を右に折れ南進すと、笠松の町に入ります。西川手




 ついに笠松の町に入りました。御鮨街道は更に南進を続けます。

笠松町は古くから木曽川の水運に恵まれ交通・経済の要衝として発展し、
美濃郡代笠松陣屋、県庁などが置かれ岐阜県政治発祥の地として栄えた町です。


笠松では「御鮨街道」のことを「鮎鮓街道」といいます。
笠松駅近くの交差点
この交差点を左(東)に行くと約200mで名鉄笠松駅です。
名鉄竹鼻線の踏切り
南へ直進し名鉄竹鼻線を渡リます。
秋葉神社の大イチョウ
秋葉神社には大イチョウが。御鮨街道を見下ろしています。
古そうな民家
古そうな民家が落ち着いた町並みを形成しています。


 笠松問屋場は献上鮎鮓の2番目の中継地点です。
鮎鮓街道・笠松問屋場跡  笠松町下新町73

南進してくると道の西側(左側)に古い大きな木造の建物がありました。
現在は味噌醤油を製造販売しているお店になっていましたが、ここが笠松問屋場跡でした。
この高嶋家、もともとは庄屋であったといわれています。


■碑にきざまれている歌
鮎鮨の 桶かつぎ 受けわたし
 人びとは 江戸への道を ひたに走りき
笠松問屋場跡
鮎鮓街道の碑 1 鮎鮓街道の碑 2
↑笠松問屋場跡
幕府への献上鮎鮓は、岐阜町の御鮓元から、加納問屋場を経て、ここ笠松問屋場で受けつぎ、一宮問屋場へと取り次がれて行きました。ここからは、主に笠松の農民が1回14人で運んでいました。境川が洪水のときは、徳田村の方の堤を通りました。


←上の写真の左(南)側に立っています。笠松では「御鮨街道」といわず、「鮎鮓街道」となっていました。


笠松陣屋・県庁跡 美濃郡代笠松陣屋・県庁跡

江戸時代、笠松には美濃郡代笠松陣屋が置かれ22人の役人が治水、裁判などの仕事をしていました。陣屋の敷地は約1町8反(17820㎡)木造平屋建で、外構えには陣屋に勤める役人の官舎が建ち並んでいました。
明治維新の際に笠松県ができ笠松県庁となりました。明治4年(1871)に岐阜県ができ、その翌々年に岐阜市に県庁が移るまでは、岐阜県の中心地でした。笠松町指定文化財(史跡)。

この場所は、鮎鮓街道からははずれていますが、笠松問屋場跡・鮎鮓街道の碑から狭い道を東へ入ると八幡神社があります。そこを更に東へ行ったところにあり、この辺りには格式ある古い民家や神社や寺が点在しています。


 笠松問屋場跡から更に南へ、突き当りを左に折れ次の四辻を右(南)に曲がり進みます。
笠松町歴史民俗博物館
笠松町歴史民俗資料館 
吉田初三郎著の笠松鳥瞰図や笠松町の伝統、商工業、政治などの重要な資料が展示されています。入館無料。毎週月曜休館。笠松町下本町87
杉山邸
杉山邸 
明治24年の「濃尾大震災」直後に建築され、築110年余を数える質実剛健な町屋風造りです。2006年に「国の登録文化財」の指定を受けました。笠松町下本町63
木戸跡
笠松も終わり木曽川が近づいてくると御鮨街道(名古屋街道)と伊勢路との分岐を示す木戸跡があります。 幕府はここに関所を置き、通る人を調べました。写真では右に上がると堤防で、いよいよ木曽川の笠松湊(笠松港公園)です。


 ここが美濃における御鮨街道最終地点・笠松湊です。
木曽川笠松船場跡の標柱 笠松湊(石畳) 笠松湊川灯台 京道・なごや道の道標
木曽川笠松湊渡船場跡  笠松町港町
ここは、かつて木曽川最大の湊でした。上流から木曽の木材が運ばれ、下流からは米、塩、海産物が入ってきました。船でお伊勢参りに行く人もいたようです。荷揚げされた物資は大八車によって商家の蔵に運び込まれていました。川湊から商家までの道のりは大八車が通りやすいように石畳が敷かれ、一部が現存していて、岐阜県重要文化財(史跡)となっています。幕府への献上鮨はここから船で木曽川を渡り、東海道をレリーされながら江戸に向かっていたのです。ここでは、京道・なごや道の道標、川灯台、松尾芭蕉の句碑などを見ることができます。


ところで、御鮨街道はどこからどこまで?
御鮨街道の起点をどこにするかいうことと同じように、終点をどこにするかも今のところ結論は出ていません。
例えば、岐阜町の御鮨所から笠松湊まで(約2里半)とするか、美濃路に繋がった地点(現在の愛知県稲沢市四ツ谷追分 御鮨所から約6里半)とだという考え方や、江戸まで熟れ鮨が運ばれただから、終点は江戸であるなどといろいろな見方があるようです。
木曽川



鉛筆今回の岐阜から笠松を巡る御鮨街道の旅、いかがでしたか。結構長かったですね。歩いた正確な距離は定かではありませんが、おおよそ10キロ程度ではなかったでしょうか。
今でしたら、鮎の輸送はクール宅配便を利用し、夕方に出荷すれば翌朝には東京に到着してしまいますが、江戸時代では今のようにはいかず、大変だったと思いました。でも、当時は当時なりの優れた知恵で、岐阜の鮎が幾多の難所をも通過し、江戸まで無事リレーされ僅か5日で届けてられていたことには私も正直、驚きました。皆様の感想は如何でしたか。
今回も最後まで熱心にお読み頂きありがとうございました。   2007.7.8(日)

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