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岐阜市散策
中山道加納宿
美濃路で唯一の城下町宿

江戸時代、人の往来で賑わった美濃の中山道加納宿(現・岐阜市)を、今回、私も当時にタイムスリップ、東から西へと歩いてみました。さぁー、みなさまもご一緒にどうぞ。
中山道(なかせんどう)は、ご承知の通り東海道とともに江戸時代の五街道の一つです。その前身を東山道とも呼んで古代から中世にかけて西国と東国を結ぶ重要な街道でもありました。
この街道の道程は、江戸日本橋から武蔵国(埼玉県)上野国(群馬県)信濃国(長野県)美濃国(岐阜県)を通り近江国(滋賀県)草津で東海道と合し、京都に至る69次、約132里でした。
加納宿(かのうじゅく)は、関ケ原合戦後、慶長6年(1601)に徳川家康自らが築城を指揮した加納城を中心とする中山道美濃十七宿で唯一の城下町でした。このため加納宿の東の入り口には六つもの枡形が設けられていました。
加納城は、金華山の岐阜城を廃し、そこの古材や石垣を利用し建てられ、その勇壮な姿は安藤広重の中山道加納宿にも紹介されています。
この城は合戦後の徳川氏が全国を治める上で、美濃国において最も重要な拠点として位置づけられ、初代の城主は長篠の戦いなど数々の戦いで手柄を立ててきた勇猛な武将で、家康の親戚でもあり信頼の厚かった奥平信昌で、信昌の夫人は家康の愛娘・亀姫でした。しかし、この城も今では本丸と一部の石垣だけを残すのみです。
加納宿は中山道53番目の宿場で、現在では静かな住宅地・岐阜市加納地区(JR岐阜駅の南側)です。町並みは普通の宿場の3倍の21町30間(約2.3km)、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く岐阜・熱田道(御鮨街道)と交わっており、交通の要になっていました。
加納宿は日本橋より105里4町(約412.8km)、東の鵜沼(うぬま)宿より4里10町(約16.8km)、西の河渡(ごうど)宿までは1里18町(約5.9km)。本陣1、脇本陣2、旅籠35、問屋2、宿建人馬50人50匹。江戸時代中期には、600〜900軒の家が建ちならび2000〜3000人の人々が生活していました。
かって、宿の繁栄を左右した飯盛女のこと、子供までが恐れたお茶壷道中など数多くの問題も起こした加納宿、話題はつきません。
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| 中山道加納宿の石碑・・・・・加納八幡町 名鉄茶所駅 名鉄茶所(ちゃじょ)駅に、「中山道加納宿」と書いた石碑が建っていました。ここが、今回のスタート地点です。 なお、名鉄茶所駅(ちゃじょえき)の踏み切りの東に黒塀の大きなお屋敷がありました。ここは岐阜市指定の都市景観重要建物・森川邸。このあたりにも"高札場"があったといわれています。 |
ぶたれ坊の顕彰碑と道標・・・・・加納八幡町 1本西のT字路の左西側の建物の前に、道標とぶたれ坊の顕彰碑がありました。ぶたれ坊とは江戸時代の2代目鏡岩という相撲力士。土俵以外の行いが悪かったことを改心して、寺にぶたれるための等身大の木造を置いて罪滅ぼしをしました。また、茶所をもうけ旅人に振る舞ったとも言われています。脇の道標には、江戸木曽路/東海道いせ路と刻まれていました。 |
高札場(こうさつば)とは
幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。
![]() だんごや・・・・・ 加納八幡町 名鉄の茶所踏切を西に進むと右側にあります。中山道はここを右に折れます。初めての枡形です。 |
![]() 加納宿/加納八幡町の地図看板 だんごやの植込みの中にあるだんごやから安良町の道標までの案内用地図看板です。 |
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![]() 八幡神社 加納八幡町 だんごやの裏(西)にあり、昔はここで行き止まりなっていました。加納城の鬼門封じとして祀られました。 |
![]() 加納大橋 だんごやから北へ進むと新荒田川に架かる加納大橋があります。 |
![]() 新荒田川 加納大橋からは川沿いに老舗商家の大きな蔵が見えます。 |
![]() 加納安良町の石道標 加納大橋を渡り少し行くとT字路、小さな自然石の道標があります。左 西京、右 ぎふ 谷汲。中山道と谷汲街道の分岐点で、2番目の枡形、ここを西に折れます。 |
枡形(ますがた)とは
本来は城内の「一の門」と「二の門」の間に四角い広場を設け攻め手の勢いをそらす目的の場所をいいますが、 宿場内の枡形は、意図的に鍵の手に曲がり角を作り、宿場全体を見通せないようにしたもので 有事の際の防御機構ともいえます。
![]() 石道標を西に折れ、城南通りを横切り直進します。 |
![]() 加納宿東番所跡 大きな道の手前に、加納宿東番所跡がありました。加納安良町。 |
![]() 3番目の枡形の東番所を左(南)に曲がります。寺が見えます。善徳寺です。 |
![]() 善徳寺・・・・・加納柳町。 浄土真宗本願寺派法性山善徳寺です。 |
![]() 善徳寺を右に(4番目の枡形)を折れます。 |
![]() 加納柳町を直進します。 |
![]() 大通りの手前に「中山道加納宿」と書いた道標が。道標には、"加納宿の中では中山道は、カギ状に曲がりくねっている"と。加納柳町。 |
![]() 大通りを横切ると秋葉神社があり、ここにも「中山道加納宿」と書いた道標がありました。加納柳町。 |
番所(ばんしょ・ばんどころ)とは
加納宿には3箇所ありました。宿へ出入りする人や物資の流入を取り締まるところで、旅人は番人に通行手形などを見せて入ったのではないでしょうか。
![]() 専福寺 加納新町 織田信長など戦国時代の文書が数多く残っていて市の指定文化財になっています。 |
![]() 加納新町です。西に進みます。 |
![]() 熊田家は、土岐・斎藤時代からこのあたりの有力者であり、江戸時代には全国から岐阜に出入りする荷物の運搬を引き受け"岐阜問屋"と呼ばれていました。将軍家へ献上される岐阜特産「鮎鮨(あゆずし)」はこの"岐阜問屋"を経て、笠松問屋まで届けられました。 今は小さな民家の軒下に、説明板があるのみで、注意をしていないと見落としそうです。道路の右側(北)の民家にこの案内板はあります。 |
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![]() 更に加納新町は続きます。 |
![]() 岐阜問屋場跡・・・・・加納新町 |
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問屋場(といやば)とは
伝馬所、人馬引継会所ともいい、各宿に一か所以上、問屋役の家または特定の家に設置され、二か所以上のときは交代で、人馬によって荷物の継立業務を行っていました。宿内の権力者で、その多くは武士の流れをくみ世襲でした。
御鮨街道(おすしかいどう)とは
岐阜街道の通称名。尾張藩より将軍家に献上する岐阜特産「鮎鮨(あゆずし)」は、岐阜町にあった製造所(御鮨所・おすしどころ)を出発して、この岐阜問屋を経由し、現在の加納八幡町を通って、岐阜から笠松まで運んだ街道のことです。江戸までは4日か5日程度というスピードで運ばれていたそうです。この御鮨街道は"歩きたくなるみち500選"のひとつにも選ばれています。http://homepage1.nifty.com/fuufuyuuyuu/sub24/osusikaidou.htm
| 岐阜問屋跡の直ぐ西の同じ並びに吉文字屋という屋号の佐藤薬店があり、ここが”中山道加納宿文化保存会”の案内所になっていて、加納宿の案内地図などがおいてありました。 さらに少し進むと小さな十字路になっていて、南西角が漢方の太田薬局(加納南広江町)です。道標がありました。「左中山道」、「右ぎふ道」と刻まれ、さらに明治初年に「左西京道」、「右東京道」と追加されたようです。すなわち、ここは中山道と岐阜街道(御鮨街道)の分岐点でした。名鉄の踏切を越え、ぎふ道を北進しするとJR高架手前には、”中山道加納宿北番所跡”があります。 なお、当時の加納地域は、まだ岐阜市ではありませんでした。昭和15年、岐阜市に合併しました。 |
![]() 中山道加納宿案内所 加納新町 佐藤薬店 |
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![]() 石道標です。5番目の枡形です。 |
![]() 左写真道標の説明板です。 |
![]() 加納宿北番所跡 ぎふ道を更に北進するとJR高架手前の吉野屋という八百屋があり、その右隣の秋葉神社に、ここに加納宿北番所跡がありました。碑は盗難にあいありませんでした。加納北広江町。 |
| 太田薬局前にある道標を左に折れると、直ぐに清水川に架かる橋があります。ここに加納藩の高札場がありました。ここは加納城大手門前にあたります。加納南広江町。 | ||
![]() 「加納宿高札場跡」を示す説明板です。 大正時代までガマと呼ばれていた地下湧水があった清水川に架かる広江橋東南端にあります。 加納藩の中でも最も大きく、石積みの上の高さは3.5m、幅6.5m、奥行2.2mあったといわれています。 |
![]() 標本木 清水川堤にある桜の標準木です。 |
![]() 清水川 今はコミニテー水路となっていて、桜とホタルの名所です。 |
![]() 水薬師寺 江戸時代、亀姫が黄金仏を安置したといわれている寺です。加納南広江町。 |
![]() 和傘の産地らしい清水川の橋です。 |
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徳川家康の長女 亀姫とは
永禄3年(1560)駿府にて築山御前を母として家康(19歳)の長女として生まれました。
亀姫は17歳で三河国、新城城主、奥平九八郎信昌に嫁ぎました。夫の信昌は関が原合戦の功績により美濃国加納城10万石城主となりました。亀姫は生涯信昌に一人の側室も置かせず、4男1女を生み、加納御前、加納の方と敬愛されました。夫・信昌に先立たれた後は、残された幼い孫たちの後見役として奥平家を守っていきました。
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亀姫ゆかりの光国寺(こうこくじ)・・・・・岐阜市加納西広江町 |
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![]() 加納城大手門跡 「加納宿高札場跡」を直進(南)、直ぐに歩道橋の下にあります。ここを更に直進すると加納城址です。ここが最後の枡形です。 |
![]() 最後六番目の枡形です。 直進すると加納城址、中山道は左折、加納本町に入ります。 |
![]() 加納本町1丁目の通りです。 多くの枡形をようしていた中山道も、ここから西へは真っ直ぐの道が続きます。 |
![]() 旧加納町役場 国登録有形文化財です。国会議事堂も造った京都帝国大学の教授だった武田五一(たけだごいち)が設計。:建物の強度不足が判明、現在は閉鎖中です。加納本町1丁目。 |
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| 加納城址本丸跡・・・・・加納丸之内 加納城は1603年、関が原の合戦後はじめて徳川家康によって築城されました。 現存の本丸跡は国指定史跡です。ほかに二の丸、三の丸、馬だし郭、大藪郭、周囲は荒田川を利用した堀をめぐらせて、北に加納の宿場町、西に武家屋敷、城下町を配した広大なお城でした。歴代城主は、奥平氏、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し、最後の永井氏の時代に、明治維新を迎えました。 |
岐阜和傘 加納が全国に誇る伝統産業に岐阜和傘があります。産業としての加納の和傘は江戸時代、永井氏が加納城主として移ってきた17世紀の中頃以降と考えられ、加納は城下町から宿場町、そして和傘の町として発展していきました。昭和の最盛期には、年間1500万本以上も生産されてきました。今は生活様式の変化により往時の勢いはありませんが、伝統の技はしっかりと受け継がれ、時折、傘の干し場の光景を観ることができます。 |
| 6つ目の枡形から西に向かい、加納本町1丁目から更に加納本町2丁目に進みます。 | ||
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| うなぎの二文字屋・・・・・加納本町2丁目 旅籠だった二文字屋は、は約380年前の創業元和6年。ここには左甚五郎が宿賃のかわりに、月夜に川原で兎が餅をついている欄間があることでも有名です。 |
加納宿当分本陣跡・・・・・加納本町2丁目 現宮田邸は広いお屋敷の家で、ここに当分本陣がありました。幕末の1863年(文久3)に当分本陣を仰付られたそうです。ここに建っている標柱には、「明治天皇御小休所跡」とも書いてありました。 |
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| 当分本陣を過ぎ広い加納桜道通りを横切ると、歩道の脇に木製の加納宿の道標がありました。 そこには、西 河渡宿、左 鵜沼宿と書いてありました。 ここから西が加納本町3丁目です。 |
加納宿本陣跡・・・・・ 加納本町3丁目 本陣は松波家が勤めました。建坪170坪、間口11.5間、奥行18間あったそうです。現在は青木邸となっている玄関先に、加納宿本陣跡と皇女和宮御仮泊所を表す1本の碑が建っています。和宮が宿泊したとき詠んだ歌が塀に取り付けてあるプレートに書いてありました。「遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立(たと)うかりけり」 |
本陣とは
街道の宿駅で、大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な旅宿のことです。
脇本陣とは
大きな藩で本陣だけで泊まりきれない場合や宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用されました。それ以外の時は一般旅客の宿泊にも供しました。本陣と同じく宿場の有力者が勤めました。
当分本陣とは
期間限定で当座、当分の間、各宿場の有力者宅を臨時の本陣と定めたところです。
皇女和宮(こうじょかずのみや)とは
皇女和宮はご存知のように、幕末動乱期に公武合体の切り札として政略結婚をさせられた孝明天皇の妹です。文久元年(1861)、将軍徳川家茂との結婚のため輿入れの長い行列(50km)は中仙道を江戸へ下って行きました。16歳の皇女和宮は 10月20日、京都を出発した後、10月26日、加納本陣の松波藤右衛門宅にて宿泊しました。
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| 西問屋場跡・・・・・ 加納本町3丁目 現在の松波病院の先祖、松波清左衛門が万治元年(1658)に任命を受け開業し、河渡宿から鵜沼宿までの人馬の出入りの継ぎ立をしていました。 |
加納宿脇本陣跡・・・・・加納本町3丁目 当時、間口9間半、奥行14:間半、建坪130坪。森家が勤めました。脇本陣は本陣の予備的施設。写真は現在の森邸。すぐ西側の道を右(北)に行くと正面が加納天満宮です。 |
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| 加納天満宮・・・・・ 加納天神町4丁目 文安2年(1445年)斎藤利永が沓井城(後の加納城)を築き、天神をその守護神として祀ったのがはじまり伝えられています。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、徳川家康が加納城を構築した際、天満宮が城郭内に入ったので現在の場所に移しました。境内の入口付近左手には傘祖碑があります。加納城初代城主奥平信昌、正室亀姫をはじめ住民の信仰は篤く、今に受け継がれています。 また、ここには市重要有形民俗文化財の「山車・鞍馬車」があります。大唐破風(おおからはふ)造り、高さは約5mの三層構造です。 |
加納宿脇本陣 跡・・・・・ 加納本町4丁目加納天満宮から加納本町通りに戻り、西へ少し行くと右(北)側に「中山道加納宿脇本陣跡」の石標があります。 石標は代々続く地元の資産家である木材関連の老舗・小林邸の敷地内東隅にありました。 |
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| JR岐阜駅から南に延びる加納栄通りを横断します。 | 加納栄通りを越えて加納本町6丁目に入ります。 |
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| 加納宿西番所跡・・・・・ 加納本町8丁目 秋葉神社内 しばらく西方向に歩くと道路の左手(南側)に秋葉神社が見えました。加納本町8丁目です。ここが加納宿西の入口「中山道加納宿西番所跡」でした。 |
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実は加納宿ではこんなこともありました。
お茶壷道中事件
江戸時代の子供までに怖がれていたお茶壷通行は1632年(寛永9)宇治から将軍家へお茶の献上が最初。この後、毎年三箇の茶壷行列が上下した。上りは東海道、下りは中山道と定められていたが1390年(元禄3)上下とも東海道になった。しかし、その後も中山道をときどき通っている。その中で、この加納宿でおきた事件は、1665年(寛文5)加納宿の久運寺を茶壷の本陣に指定し、本寺(正眼寺)から了承の通知も来たが、久運寺の住職が茶壷の本陣を断わるという一大問題がおき、加納藩主より住職を追放処分にするという事件がおきた。お茶を運ぶだけの行列が、大名行列より権威をもち、大名や沿道の人々に恐れられていた茶壷道中にまつわる話が、加納宿にも伝わっている。
飯盛女事件
中山道の旅籠屋は東海道筋と違い、旅籠屋だけでは生活が困難で、その多くは農耕を兼ねていた。文政文化の頃にると人の生活も豊かになり、宿場女も現れてきた。加納宿では1782年(天明2)頃から1801年(享和元)飯盛女の売上代から冥加金を宿に納付するため、飯盛女は宿駅財政を助け、駅繁昌の基となるとして公儀へ願継し許されてきた。ところが10年目の文化6年の願継には飯盛女は風紀を害するからと不許可になり加納宿は困った。そのため休伯の旅人が薄れて旅籠連中が立ち行かず、一時大混乱になるという事件が起きた。しかし願継に落着き、飯盛女の許可が出た。しかし、その取締りはそうとう厳重であった。
中山道加納宿の散策はこれで終りです。加納宿のあったこの地域は濃尾地震や戦災は勿論、江戸時代には何度も大火や水害などの天災にもあい、現在では当時からの古い建物はほとんどありませんが、古い道標や市や保存会の立てた標柱や案内板が、中山道沿いのところどころで見ることができ、往時を忍ばせてくれました。
お近くのみなさまは是非歩いてみてください。きっと、懐かしい古き時代が心の中によみがえる事でしょう。最後まで根気強く熱心にお読み頂き有難う御座いました。
2007.06.05(火)