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大垣輪中を学ぶ


岐阜県大垣市は濃尾平野の北西、西美濃の中心に位置。人口は約15万人。
地形は岐阜県内三大河川の一つ揖斐川が市の東側を流れ、市域には多くの河川が網目状に流れる水郷地帯で、ほぼ全域が海抜3〜4mの低地です。また、良質な地下水が豊富で、古くから「水の都」として有名です。
1530(享禄3)年に揖斐川の大洪水があり、揖斐川は杭瀬川筋から東よりの現在の河道に変わりました。
大垣市は揖斐川の中流域に当たります。今まで北東に流れてきた揖斐川は、岐大バイパス国道21号線新揖斐川橋あたりから南に進路を変え、ゆるやかに蛇行しながら伊勢湾へと向います。
濃尾平野輪中地図大垣市には古くからの住民と水との戦いに関する「大垣輪中」について知ることができるミュージアムが2ヶ所にあります。「輪中生活会館」と「大垣市輪中館」です。
「輪中生活会館」は輪中地域の典型的な地主建築の民家を復元したものです。「大垣市輪中館」は、輪中の成立とその暮らしを分かりやすく展示した施設です。
”輪中(わぢゅう)”は、低地に暮す人々が、洪水から自分達の田畑や家屋を守るために村の周りを堤防で囲んだもので、先人が壮絶な水害と戦いながら苦労の末に作り出しました。輪中をもう少し詳しくいうと、木曽川三川地区の低湿地帯に存在する集落と農地を縫合する囲い堤を持ち、水防組織体を作って外水および内水を統制する治水共同体、またはその存在する範囲をいいます。
私はこの二つの施設をそれぞれ館長の案内で見学しました。
木曾三川はそれぞれの川が網の目のようにつながり合って、島のような地域に輪中が造られ、明治のはじめには82の輪中が濃尾平野にあったそうです。岐阜県においては、北は現在の岐阜市、西は養老山地の麓の養老、南は河口付近に至るまで実に広範囲でした。その一つが大垣輪中というわけです。
私はここより下流の高須輪中のことは以前から知っていましたが、濃尾平野の木曾三川水系において大垣輪中がこんなに大規模な輪中の集まりであったことは知りませんでした。これは私にとって驚くべき発見でした。




大垣輪中の歴史について、それぞれの館長のお話や展示物から学んだことを要約すると下記のようです。

昔からこの地域は水害が多く、特に尾張藩が1609年に完成した対岸美濃の諸堤は、「お囲い堤より低きこと3尺たるべし」とした差別により美濃側の水害が倍加し、輪中開発が進行していったと思われ、揖斐川の流域で主な輪中が作られたのは、1600年から1700年ごろといわれています。
まず、揖斐川や杭瀬川の出水から大垣を守るために大島堤・前田堤・笠縫堤が造られ、その後、下流地帯でも江戸時代初期に造られていきました。
大垣輪中のように輪中の中にいくつもの小さい輪中が重なってできたものを複合輪中といいますが、古宮輪中・禾森輪中・伝馬輪中・今村輪中などの小さな輪中の多くは、大垣藩の低湿地の新田開発で排水路の堤防や部分的な堤を造るなかで成立していきました。

輪中に住む人は洪水から守ってもらおうと堤防上に「水神」を祀りました。これらの「水神」が立地する場所の大半はかっての決壊地でした。また輪中は、集落や高地の周囲を堤防で張り巡らせているだけではなく、自分達の輪中は自分達で守るだという「輪中根性」が次第に芽生えました。
水屋
技術が十分でなかった江戸時代には、自然に逆らうことを避け被害を少なくして、河川の合流点に水勢をゆるめる”遊水池”を設けたり、”堤防の切割”を実行したりして洪水に備えてました。屋敷の一部を石で積み上げたりして高くしたところに”水屋”も建てられました。

輪中内の低い水田地帯では、洪水や甚水による不作を避けるため、田の一部を掘って積み上げ、高くして耕作をしました。これを”堀田”といいます。掘ったところは沼となり、田の行き帰りはここを舟で行き来していましたが、1954年から1969年の埋め立て干拓(土地改良)事業で沼は埋め尽くされ、今では全く見られなくなりました。

度重なる洪水に立ち向かい大垣の治水に尽したひとたちには、戸田氏鉄、清水五右衛門、伊藤伝右衛門、金原明善、金森吉次郎らが上げられます。 なかでも大垣に着任した氏鉄公は、治山治水の施策を基本とした施政方針を樹立、第一に開墾を取り上げ、山の植林を進めるとともに、乱伐を止めさせました。また、金森吉次郎は治水・治山に尽くし、大垣輪中を水害から守るため一生を捧げ、今も大垣城の南側に銅像が立っています。
堤防で囲んだ輪中地域は、洪水による堤防破壊だけでなく、輪中の中に溜まる水にも絶えず悩まされてきました。天明4(1784)年にようやく完成した横曽根東と鵜森北の揖斐川の川底下に木造トンネルを埋め、揖斐川の下流に水を流すという大工事「鵜森の伏越樋」は、途中失敗もあり莫大な費用を要したため、責任を感じた責任者の伊藤伝右衛門は自害したというできごともありました。

水害との闘いに明け暮れた大垣
明治29年大洪水の水位を示す大垣城石垣木曽川初め西美濃の輪中地帯は永年に亘って水害との闘いに明け暮れていました。なかでも、慶安3(1650)年の「慶安寅年の大洪水」は岐阜から養老まで一面の海となり洪水史上でも稀の災害でした。それにも増して大洪水が明治29(1896)年にありました。そのときの水位を示すものが、大垣城天守閣石垣の北西角に印されています。このようにして水害から守るため、西美濃特有の堤塘に包まれた輪中組織が発達しました。
しかし、輪中ができてからも洪水による堤防の決壊は絶ず、住民の苦しみは昭和時代に至っても消えませんでした。 昭和34年の伊勢湾台風、また昭和36年の第2室戸台風により水門川の決壊では、大垣市内の約3分の2におよんで浸水するなどの大きな被害を受けました。
また、昭和51年9月に長良川増水のため、安八町で堤防が決壊し、大垣市内でも各地で河川があふれ、床上4541世帯、床下9725世帯が浸水して53380人が被害を受けました。

大垣市における近年の水害と輪中に根付く水防魂
大垣市西南部の荒崎地区は水害常習地帯。
平成14年7月9日深夜から10日にかけ、台風6号の雨雲と梅雨前線の影響で激しい雨に見舞われ、増水した揖斐川支流の大谷川洗堰から荒崎地域に水が溢れ出し、2138世帯、約6000人に3年連続の避難勧告が出されこの荒崎地域だけで450戸の床上浸水、床下浸水の被害となりました。この洗堰からの越流は国道21号の北側、洗堰から約4kmも上流側まで氾濫した。
一方、荒崎地区の最南端で荒堰に最も近いのに浸水を免れた地区がありました。十六輪中と相川の向こう側の十六大野輪中という二つの輪中です。いうまでもなく集落や農地をぐるりと囲む輪中堤に守てはいたのですが、江戸中期から水害に苦しみ、村の存亡を賭けて水と周辺輪中との水論を闘い、明治初期に宿願かなってこの輪中堤を成立させた十六の人たちの苦難の歴史がありました。洗堰越流の朝、十六輪中では町内の男子総出で水防活動を展開、土袋5700袋を積んで輪中堤を守りきりました。水との苦難な歴史の中ではぐくまれた住民の総力が結集した結果ではないでしょうか。

大垣市における水防体制
大垣市の場合は、揖斐川・水門川など14河川の延長は76kmにおよび、大垣輪中水防事務組合が管理に当たっています。水防活動に必要な資材機具を保管している建物を郷倉とか諸式庫といい、市内の堤防の上に40ケ所あります。排水機は大小20ケ所にあり市民を洪水から守っています。

大垣市輪中生活会館 大垣市輪中生活会館(旧名和邸)
平成9年開館。輪中地域の地主建築の民家を復元したものです。様式は、母屋・住居式水屋1棟・土蔵式水屋1棟・納屋1棟・門・防風林。
母屋:玄関を入った土間の上部には、上げ舟があり、庭には舟つなぎの木(柿の木)がありました。また、家の上部には滑車が取り付けられていて、水害の時は家具を引きあげ水から守るようになっていました。
土蔵式水屋:盛土の高さは約2m、家宝や家財道具が収納。
住居式水屋:盛土の高さは1.6m、洪水の時はここに避難します。

大垣市入方2-1723 .0584-89-6787 入館料 無料


大垣市輪中館 大垣市輪中館
平成4年開館。輪中の成立と暮らしを分かりやすく展示した施設です。館内には洪水のときに水から仏壇を守る上げ仏壇(上げ仏壇)を再現したものや、輪中での米作りや漁の様子などを知ることができます。

大垣市入方2-1661-1 .0584-89-9292 入館料 無料 
大垣輪中のホームページ http://www.ogaki-city.ed.jp/open/kdata/waju/index.htm


揖斐川の川づくり・・・・・安全な川と豊かな水辺環境を目指す
昭和40年頃までの揖斐川中流部は、洪水のたびに流れが変わり、湿地や川原、ワンド(本流と連続している池やたまり)が多い川でした。水辺にはあまりヤナギ林はみられず、湿地の河原にはヨシなどの水辺特有の植物が成育し、ワンドにはたくさんの魚類が生息していたと考えられます。
このような、湿地やワンドに代表される環境が、本来の「揖斐川らしい姿」なのです。
近年、川の流れが安定したことにより、湿地やワンドが減少し、揖斐川らしさが徐々に失われつつあります。それにより、揖斐川中流部は安全に洪水を流すための断面積が不足しているのが現状で、出勤水位を超える洪水がほぼ2年に一度の割合で発生しています。
国土交通省では現在、大垣大橋付近から福束大橋付近の間で、安全な川と豊かな水辺環境を目指し、河道掘削や樹木伐採などの治水対策に合わせ、揖斐川らしい環境を再生する事業を行っています。

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