9.5 きんさんぎんさん


 

お腹にあかちゃんがいる、とわかって、急にまわりのあかちゃんが目に付いた。スーパーに行っても、デパートに行っても、あかちゃんの存在にものすごく敏感になった。

"犬も歩けばベビーカーを押している人にあたる"くらいに、そこここはあかちゃんだらけで、妊婦だらけだった。

お腹にふたごのあかちゃんがいる、とわかって、まわりにふたごのあかちゃんを捜した。もしくは、すこし大きくなったふたごのこどもを捜した。しかし、そこここで出会うほどふたごちゃんは多くなかった。

そこで、急に私の意識の中でクローズアップされたのが、"きんさんぎんさん"だった。いわずと知れた、あのおばあちゃんたち。

きんさんぎんさんが過ごされた、100年以上の年月は、私などにはとうてい想像も理解もできない。でも、私には、その存在だけで、やさしくたくましい女性だと思えた。

テレビの取材のために、しんどい身体をおして、作り笑いもされていたかもしれない。写真は1000枚の内の笑っているただ1枚のものかもしれない。しかし、見ている私には、四六時中元気で明るく、1000枚分の1000枚が笑顔のおばあちゃんたちに見えた。

何といっても、その姿はどこから見ても"仲良しふたご"。

我が家のリョウとタイを、きんさんぎんさんに照らし合わせるなんて、ものすごく厚かましいお話で恐縮だが、是非ともおふたりのように"仲良し"でいてほしいと願っている。

だって、近頃のリョウとタイときたら……。

ヤヤッ!同んなじくらいの大きさの奴が隣にいるぞ!んー蹴ってやれ!「ドン!」「わーん!」

ヤヤッ!奴の髪の毛はやけにふさふさしているな!んー引っ張ってやれ!「ギィー」「わーん!」

ヤヤッ!おぬし、お尻が臭いぞよ!負けるもんか!「……」「……」(きばっている)

と、対抗心が早くも芽生えてきた。

おもちゃの取り合い、ごみ箱のあさり合いは日常茶飯事。どちらかが抱っこされていると、自分も抱っこしてもらえて当然と思っている。横にいる奴の持っているパンは、自分の手にパンがあるかどうかに関わらず、かっさらわなければ意味がないと信じているし、自分のお皿におにぎりが残っていても、横の奴のおにぎりにフォークを突き刺す。

食べている最中に、リョウがタイの耳をフォークで突き刺そうとまでしていた。仲良くしているように見えても、タイがリョウの口に指を突っ込んで、思いっきりかまれて泣かされている。

同じ年齢のこどもがひとつ屋根の下に暮らしているということは、24時間保育園状態で、本当の保育園はどんなだかわかりもしないが、保育園の先生はなんて大変なんだ、と感心することしきりなのだ。

ひとりでは絶対にしないことでも、ふたりいると気が大きくなってやってしまうことだってある。それがプラスに転じるか、マイナスとなるかはやってみないとわからない。危険なこと以外はあえてやらせてみるのいい、などと考えられるのも、ふたごならではだ。

1卵性でも2卵性でもふたごはふたご。ふたりはひとりずつなのだ。ワンセットだと見られがちだが、すでに性格の違いははっきりしている。少々の体重差があるので、力の差もあるのだが、度胸や勢い、悪さの程度でその差は埋まっている。

そういえば、たんすの陰に隠れて相棒に「ばあーっ!」ってやるようになってきた。自分のおせんべいを、よく似たもうひとりの奴の口に「あーん!」って食べさせてやっている姿も見られる。

なーんや、仲良しなんや。よかった。

当たり前だが、ひとりずつでお互いに尊重し合いながら、自己を大切に成長し続けてくれたら、憧れのきんさんぎんさんに近づけるかもしれない。

"ふたご"で思い当たる、きんさんぎんさんの他には、「ふたごやって言われたんですぅ」と、ふたご妊娠発覚と同時に打ち明けた、幼稚園に通う女の子のふたごちゃんのおかあさんや、前年に男の子と女の子のふたごちゃんを産んだ学生時代の友人くらいしか、"ふたご"関係の人は思い浮かばなかったのだが、冷静に見渡してみると、"ふたご"関連の人々がフツフツと湧き出てきた。

従妹の夫が"ふたご"だった。妹の友人もふたごちゃんのおかあさん。実家の町内には女の子のふたごちゃん。マサミツの公園でのお友達のおかあさんは「私が、ふたごなん」と教えてくれた。

なーんだ。結構いるじゃない!急に仲間意識が芽生えて、大きな気になってしまう私だった。

核家族化で、一緒に暮らす育児の先輩がいないとか、女性が一生に産むこどもの数が減っている少子化とか、さまざまな要因が背景となり、児童虐待や育児放棄が取りざたされているために、政府や自治体がホットラインのようなものを設置して、育児をする人の助けになろうと努力しているが、この「なーんだ、結構いるじゃない!」に気づくと、育児は少し楽になるんじゃないか、と思っている。

まあ、仕事も家事もぬかりなくバッチリやって、育児も手抜きをせずにできるスーパーおかあさんを目指したり、そうなることを望む口うるさい外野がいると話は変わるけど。

比較の尺度はどうあれ、「上には上を」の精神は捨てて、「下には下」を時々は見てもいいと思う。育児に関する上下ほどあやふやで、判断基準の不確定なものはないのを承知でね。

その点"ふたご"を育てている身としては、他に"ふたご"や"ふたごの親"が存在するだけで救われ、ホッとできるのでラッキーこの上ない(こんなお気楽は私だけ?)。

時々しか顔を合わせないマンションのおばさんが、

「甥のところにもふたごのあかちゃんがいるのよ」と言ってくれ、

年に2回ある消火設備点検(煙探知器が正しく作動するかどうか点検する)に来てくれる名も知らぬおじさんが、

「ボクもふたごなんです。なんでか知らんけど、まったく違う職業、正反対の性格ですわー」と、面白い成長の結果を聞かせてくださったりするだけで、もう仲間意識が芽生え、次の点検が待ち遠しくなる。非常に安易に友達が増えるみたいで嬉しい。

別に、帝王切開で生まれたのか経膣分娩で生まれたのか、体重差はあったのか、など詳しいことを尋ねるわけでもないし、育児の苦労話をするわけでもない。即座に握手をしたくなるだけなのだ。

きんさんは、107歳の天寿を全うされ、2000年1月23日に召された。

ぎんさんは、しばらく元気がなかったと報道されていたが、約1年後の2001年2月18日に天に昇られた。108歳だった。

途中の人生は各々の道を歩いてこられたことだろうが、生まれる時に一緒であっても、死ぬ時は別々なんや……。

リョウとタイというふたごの親になって、こんな当然のできごとにもしんみりしてしまった。

親としての立場から"ふたご"を語ると、どうしてもふたりが一緒に自分のお腹の中にいた時間のことを思い返し、妙に神妙になる。

いや、神妙というより、母親という種類の人間は、自分のお腹にあかちゃんがいた感覚や感情を、いつでもはっきりと思い出せるものかも知れない。

一時にふたりのあかちゃんを持っていたふたごの母親は、その感情もさることながら、あまりキョーレツな感覚を忘れたくても忘れられない特技を持つ。

マサミツは粘土のようにコネコネして、くちゃっ!と丸めてお腹に戻せそうな気さえする。

ところが、リョウとタイにいたっては、コネコネして丸めても、"コレもコレも戻すのか?"と、自問自答してやめてしまいそうだ。それくらい、ふたご在留中は重たかった。

そんな母親の思いとは反対に、ふたご当人からすれば、お腹の中が狭かったとか、アンタにいつも蹴られていたとか、都合の悪いことは全て忘れている。

この子たちは、世に出てきたのは、まぎれもなくひとりずつだったので、同じ年の同じ日に生まれた兄弟で、別の年に生まれた兄弟よりもよく似ていて、仲良しであり、ライバルでもあるという、なんともややこしい関係をたぶん続けていくのだろうな。

きんさんぎんさん並みに長生きせよ、とは言っても、実現する可能性は果てしなく少ないし、それを見届けることができるとしたら、私はオバケだろうし、寿命についてはとやかく考えないが、幼くして目の前からいなくなってしまうことだけは絶対にやめてほしい。

この"幼くして"というのは、親からすれば自分のこどもはいくつになっても"幼い"うちに入るのだろうけれど。

きんさんぎんさんは、100歳にして日本中のアイドルとなり、しゃべった、立った、歩いた!でニュースになった。

ふたごのおばあちゃん、あなたたちの仲間にリョウとタイも入れてやってね。近頃ふたごも増えているから、この子たちはちょっとやそっとで日本中のアイドルにはなれないけれど、すでに町内のアイドルではあるんですよ。

おばあちゃんたちが、どんな風に生きて来られたのか、尋ねてみたいな。でも、

「そんなん、あんたらと一緒だで、一生懸命やったね。戦争があったからねぇ、そりゃあ今とは違ったねぇー。ふたごやからって、特別なことはなかったねぇ。ひとりずつ、ちゃーんと人生があったからねぇー」

なーんて言われそう。

きんさんぎんさん、ありがとう。





                 

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