4.7 感動のエデンの東


 

リクライニング布団で横になっていてばかりで、だんだん退屈してくる。

トイレにはたびたび通わねばならないし、3度の食事以外にも、ぬるくなったお茶に氷を入れに行くとか、マサミツのおやつを一口横取りしに行くとか、理由をつけて動いた。

"動いた"という表現は正しくない。"動けるかどうかためした"というのが本当のところだ。

「よかったー。まだ立てる。まだ歩ける。」自分ではそう思っていたが、はたから見ればリハビリ状態に見えて痛々しかったらしい。

実家は一戸建てなのでエレベータはないから、トイレに行くときには階段を使った。結婚する前はこの階段を一日に何度も何度も昇り降りした。何を急いでいたのかは覚えていないが、たいていは走って昇り、走って降りた。ゆっくり階段を踏みしめることなどなかった。こうして、「さあ、階段の最初の一歩!」と心で掛け声をかけて降りると、いつも同じ足から下りたり上がったりしている自分を発見した。

そのとき、めがねはかけていなかった。

私はド近眼である。身のまわりのことは、めがねやコンタクトレンズなしでできるので、布団に寝てばかりいる今は、めがねはケースにしまったままだ。

まさにその時、階段の最後の一段を踏み外した。「ドン!」手すりをしっかり持っていたので、こけはしなかったが、片方の足に思いもよらぬ体重がかかり、心臓がバクバクし、お腹に振動がきた。やってしまった!!!

やっぱり、動くのはやめとこ……。

動けるかどうかためして、「まだいけるやん!」とちょっといい気になりすぎた。じじちゃんにもばばちゃんにも夫にも、階段を踏み外したことは黙っていよう。もう、絶対おとなしくしていよう、とこの時誓った。

それからは、あーちゃんの持っている文庫本を読むことに徹した。

本だけに集中していられる時間を持つのは、何年ぶりだろう。結婚してもしばらく派遣社員を続けていた私は、バブルの終盤には3つの会社をまたにかけ、一匹狼で曜日ごとに京都市内をかけずり回っていた。契約期間があい前後して終了し、バブルもはじけ、ながーい夏休みにひとりきりで家にいた頃、夫の買いあさっていた本やマンガを、片っ端から読みふけった。仕事がしたくて、帰宅したての夫に向かって、

「だれかー!仕事ちょーだい!このままやったら脳ミソくさるぅー!」と毎日わめいていた。

それ以来、久しぶりの活字中毒だ。

あーちゃんは、お蔵入りになっていた推理小説をドン!とリクライニング布団の横に積み上げてくれた。

それからというもの、出産の前日まで合計21冊もの小説を読んだ。ほとんどが殺人を伴う推理小説だ。ほとばしる血、グサッ!(ナイフで殺す)バーン!(ピストルで殺す)にはまった。

「なに読んでんの?」大きすぎるお腹でトドのように横たわり、本ばかり読んでいる私に、ばばちゃんは聞いた。

「殺人もん。めっちゃおもしろい。」と言ったとたん。

「やめとき。あかちゃんが血の気の多い子になるえ!」

そういえば、そうか。妊娠中はモーツァルト聴け、とかいうもんな。でも、おかあさんの気持ちのいい音楽だったら、ロックでもいい、とか何かに書いてあった(はず)。別に、殺人ものでもええやんか、と思ったが、ちょっとだけ気になったので、一息ついて「カモメのジョナサン」を読むことにした。

この有名な小説を私は36歳になった今、初めて読む。

しかし、最悪だった。なにが最悪って、このジョナサンって名のカモメは、ものすごく向上心が高いのだ。ハンパじゃない。

自分にはこんなことができるかもしれない。もっと速く飛べるように練習しよう。がんばろう!と、努力に努力を重ね、ついにはワープもできるようになる。

こういうのは、38週まで早産しないように、破水しないように、がんばるんだー!と言い続けられている私には、「もうやめてくれー」の世界だ。カモメにまで努力を強いられることはない。がまんして読み終わったが、ものすごく疲れた。きっと、あかちゃんも疲れていたと思う。

「カモメのジョナサン」の帯には、「"ふたご"のあかちゃんをお腹に持つ臨月を目指す妊婦さんは読まないでください」と明記してほしい。

そういう理由で堂々と、最後には必ず事件は解決し、犯人もあばかれる、気分そう快の殺人・推理小説に、こころおきなく戻った。

「法律事務所」はトム・クルーズの主演で「ザ・ファーム」という題名で映画化された。小説は映画とは終わりかたが違って、またおもしろかった。「ペリカン文書」もジュリア・ロバーツはどんなふうに演じたのだろうと思わせるほどよかった。

そうこうしているうちに、とうとう臨月を迎えた。

誰がここまでたどりつけると思っただろうか。9月21日。36週に入った。

あかちゃんの推定体重は2814グラムと2245グラムであった。合計5キロを超えたことは、さておき、小さいサーチャンも、「誤差があっても2000グラムを超えている」と先生が明言されたときには、診察室でバンザイしそうになった。先生の言葉は、

「妊娠中毒症もない。むくみもない。貧血もだいぶんましになった。よーがんばってる。子宮口は2〜3センチ開いてるなー、ふわふわしてて、糸一本でもってるようなもんや。」と続く。

こんな状態なのに産まれないのはなぜか?不思議に思って質問すると、

「陣痛が来いひん(来ない)からや。」いったん陣痛がきだしたら、あとは速い。陣痛は、歩いたり運動したりして来るもんでもないらしい。なんだか、ドッと疲れた。さっきの合計5キロ超えたというのが今ごろ襲ってきた。

そして、追加の一撃。

「小さい方がごくごくおっぱいを飲める力をつけるために、37週に入っておいた方がええな。安静を続けて、また、来週。」

「エーッツ?!まだですかー!」そんなんありー?!お約束の"36週"も"2000グラム"もクリアしたじゃない?まだ産まれたらあかんのー?

その会話を聞いて、付き添いで来たばばちゃんが先生に向かってひとこと。

「まだ平気で歩いてますし、寝たり起きたりしてますし、いける気ィします。」

なにをいってくれるんだ!アンタが「いける!」と答えてどーする???どこからその自信はくるんだぁー!アンタの娘はそんなにがんばれないぞー!

精神的なものがどれほど肉体に影響するのかは、よくわからない。ストレスがあるからこそ、人間は成長できるし、内面から強くなれるとも聞いたことがある。肉体的にギリギリの状態におかれている私がどこまで耐えられるか。"出産"という形で終わりは来るが、"来週"を提示されることは"終わり"とは等しくないので、精神的にがんばる方法がわからなくなっていた。

大きな子宮に押された膀胱は、尿をたくさんためることができず、暑くて汗をたくさんかくにもかかわらず、頻繁にトイレに通った。

トイレにすわると、普通はホーッとして、出すだけ出す(あからさまで失礼)。しかし、"ふたご"のあかちゃんがお腹にいる妊婦は、トイレでも緊張しなければならない。

「落ちてきたらどうしようー。」何が落ちるって?あかちゃんだ。

"単胎"のマサミツをお腹に持っていた9ケ月の頃も、もちろんトイレで緊張していた。でも、「比」ではない。なにしろ、今、あかちゃんの出口である子宮口が直径2〜3センチも開いてしまっているのだ。それを自覚するのがトイレの場だ。

ぶ厚い「なんとか安産」の本に「臨月の緊急事態」というページがあって、そこのイラストが、便座に座る度に頭にちらつく。

便器の中にあかちゃんが描いてあって、その子が目をまんまるにして、横に「ブクブク」とある。

「うっそー!こんなことがあってたまるかー!」と笑い飛ばしていたのはマサミツの出産予定日の頃だ。今は、笑い飛ばせない。真剣にそうならないように緊張し、軽い祈りもする。無事にジャーッと水を流せたときには心から「はぁー。よかった。」である。

私は、普通ならどうでもよいことまでに神経をつかったので、すっかり疲れていた。その疲れを吹き飛ばすかのように小説を読んだ。推理小説の中に「エデンの東」が混じっていた。4冊もある大作だが、今しかない、と読破を目指すことにした。ジェームス・ディーンが好演した、スタインベックの名作だ。はずかしながら、これもこの歳になるまで読んだことがなく、映画さえも観ていなかった。ただ、テレビで放送されていたときにチラッと視界に入ったのだろうか、ラストのラストで彼が、父らしき人が横たわるベッドの側で泣いている場面だけを覚えていた。それと、ジェームス・ディーンは"ふたご"のひとりの役だということは、なぜか知っていた。

これや!今、"ふたご"を産もうとしている私が読むべきものはこれしかない!

読みはじめるとこれが長いんだ。ジェームス・ディーンの3代前のじいちゃんの時代からはじまる物語だった。「いつジェームス・ディーンは出てくるんだ?」なかなか、それらしき人物が現れないが、面白かったので期待しつつ読み進めた。

ついに、まぎれもない"ふたご"のおかあさんの出産シーンにめぐりあえた。

「もうひとり出てくるだぁ!」と、出産を手伝いに来た黒人の農夫が叫ぶ。

息をのんだ。これは「なんとか安産」の本にも「はじめての出産」とかいう本にも載っていなかった貴重な"ふたご"出産の光景だ。"ふたご"の妊婦必読のページだ。

「やっとアドバイスにありつけた。ありがたやー!!」けど、「こんなんかー!どうしよう!」きたるべき瞬間をイメージトレーニングしてしまう。

そして37週の検診を受ける。9月28日。

「もういつ産まれてもいい。空振り陣痛(ウーッ産まれる!と思っても陣痛が途中で消えてしまう)でも、帰りなさいって言わへんから、いつでも来なさい。とりあえず。また、来週。」

シャワーも1日1回OKになった。歩き回ってもいい許可が出た。ただし、破水には要注意だ。立つだけで子宮口がグーッと押されている感じがする。もう限界の限界かもしれない。もう一度「エデンの東」の出産シーンを読んでおこう。

本の帯に「"ふたご"のあかちゃんがお腹にいる妊婦さん必読の書!」と印刷すべきだなぁ。

「エデンの東」のキャルとアーロンはまったく違った運命を歩いていく。さてはて、ウーチャンとサーチャンはいかに。

まず、無事に産まれることね。もう、いつだって「ふたごちゃん!いらっしゃい」。





                 

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