デジタル情報化時代 の 文学研究 と 大学教育 

  以下の内容は、2000年11月に開かれた日本文学協会大会の二日目の発表を、 「日本文学」2001年4月号に掲載したものである。


    一 はじめに

 いまや情報リテラシー教育の必要性はもとより、国策としてIT革命が声高に叫ばれる時代である。急速に進むデジタル情報化の流れは、大学改革の動きと連動して、個々の研究や教育環境を否応もなく縛りつつある。こうした現況は、私たちに何をもたらし、何を失わせるのか。問題は複雑多岐だが、そこから目を逸らすことは許されないだろう。

 少子化による大学間の競争の激化は、グローバル・スタンダードの外圧と相俟って、日本の大学をアメリカ型の市場原理の強く働く機関へと再編していくだろう。文学研究や文学教育もまた例外でありえず、デジタル情報として公開され、商品化されていく趨勢は避けられないと考える。その様相を、このところ展開の著しいバーチャル・ユニバーシティや電子図書館、オンライン・ジャーナルなどを軸に考察していきたい。さらに、デジタル情報化社会の3C、コミュニケーションとコラボレーション(共同作業)とコンプレヘンション(理解)が生成する情報共同体ともいうべきものが、既存の共同体とはどのような質的な差異をもっているのか、それらが私たちの研究や教育をいかに変貌させていくのか、についても予見をのべてみたい。デジタル情報共同体が成熟しうるか否かを含めて、いまこそ情報化について思索を深め、コンセンサスを得ることが切実に求められているのではないか。

    二 教育の情報化

 さて日文協の大会のパネラーになるようにとの話があった時に、まず頭をかすめたのは、なぜこの話が私に来たのかであった。聞くところによれば、会場校のスタッフであるというお手軽さもあっただろうが、九九年十二月に国文学研究資料館で「源氏物語とニューメディア− 接点と期待− 」の題で、『源氏物語』のデジタル情報化の流れについて講演した(1)ことが理由として大きかったようである。そこで今回は、文学教育や研究にとって今日的なテーマと思われる「バーチャル・ユニバーシティ」「電子図書館」「オンライン・ジャーナル」など、その講演で予想したことが叶ったか、叶わなかったのかを中心に、この一年の展開を概観してみたい。そこから一人の古典文学研究者からみた文学研究の未来、デジタル共同体へと話を進めることで、情報化時代の教育と文学の問題に私なりに切り込んでみることにする。発表の一部は、「情報のあり方を国語教育や文学研究に利用する際の有効性・利点と弊害・困難さ」(2)について考えることにも繋がるが、現況と見通しを総花的に、断片的に述べるにとどまることを予めお許しいただきたい。

 まず、この一年の変貌については、デジタル情報化のスピードはもとより、IT革命という名の下で、それが国策化したことに驚きと違和感を禁じえない。七月の沖縄サミットでの「IT憲章」、九月の「IT基本法案」、十月の「日本新生のための新発展政策」と次々に施行されつつある。ITに対して、戦略会議といった大げさなメタファーを使った会議により、国家規模でとり組み、国民を一つの方向に走らせようとする発想じたいが、デジタル情報化時代の特性やコミュニケーションの本質とはそぐわない印象は否めない。ともあれ、、そのような動きは周知のことと思われるので、ここで深入りはしないで、教育という場でどれだけ情報化のプロジェクトが進行しているのか、を見ていきたい。二〇〇一年に総合的な学習、二〇〇三年からは高校での情報の必修が始まるが、すでに小学校から大学教育まで、情報化を取り入れた授業の試みは盛んであり、今後われわれの身にも大きくふりかかってくることは間違いない。IPA(情報処理振興事業協会)の促進する教育情報化事業(毎日新聞八月二八日朝刊)を参照すると、小中学生から大学・教員研修・企業や社会人教育まで対象も幅広く、内容も多岐にわたるフロジェクトが、IT革命を基盤として推進されていることがわかる。こうなると、教育や研究は一昔前にいわれた聖職のイメージで捉えられるものというより、もはや競争原理から逃れられないビジネスの一つとして意識されることになる。極端な言い方をすれば、そこにはビッグ・チャンスもあるし、失業もあるというわけである。後で述べるバーチャル・ユニバーシティでも、ビジネス・モデルという言い方がされることがある。このビジネス原理が教育や研究におよぼす価値観の変質は、いまのところは外圧だが、われわれの内側に浸透していかないとも限らない。ビジネス原理で合理化される今後の教育や研究のモデルに対して、われわれは、どう身構えるべきなのだろうか。それは既存の制度や教育体制と、ITによって繰り広げられる教育が、どういった関係性のもとに位置づけられるのか、という問題でもある。大枠として以上のような見通しを持ちながら、より具体的な問題に入っていきたい。

    三 個々の大学改革

 個々の大学改革のスピードも、情報化と連動しながら、思いのほかペースを早めている。国立大学の独立行政法人化の問題や少子化による大学間の競争の激化は、グローバル・スタンダードへの要求と相俟って、日本の大学をアメリカ型の競争原理の強く働く機関へと再編しつつある。急速に進むデジタル情報化の流れは、そうした大学改革の動きとも連動して、個々の研究や教育環境を否も応もなく縛りつつあるようである。
 一、二の具体例を挙げてみよう。この一年、学内LANを使っての文書のペーパーレス化が、各大学で進行しているようである。勤務先の大学を例にとると、学内の会議の通知や議事要録はメールで通知され、その他、学内の連絡事項も、大学の学内LANからホームページをチェックして知る状況になった。もっとも、このような事態は、じつは昨年の資料館の講演でも予想したことではあった。つまり朝、大学へ出勤したらレターボックスを確認するのではなく、まずパソコンの電源を入れ、Eメールで会議の通知を確認し、大学のホームページの新着情報を見たり、といったくらいは、じゅうぶん予想していたのである。しかし、それは率直にいって、二年後くらいを念頭においてのことであった。

 ところが、勤務校では、教員が全員Eメールを使うわけでもなかったのに、二〇〇〇年六月に事務サイドから見切り発車的にその通知があり、九月から本格的に始動しはじめた。こちらの想像をこえたペーパーレスの速さだったのである。たとえば、大学の名簿を見ると、国語科教員でメールを使う人口は、一年前と較べてそう変わらないので、切り捨てられるオフラインの教員も当然いるわけである。しかし、大学の事務サイドからは、オフライン教員にたいするケアは乏しく、百人近くいる部全体の掲示版に一枚の通知を掲示するだけである(3)。学内LANをつかってペーパーレス化が進むのは、避けられない動きともいえるが、それにしても資料館で話した時点では、それが急展開して、いわゆるデジタル・デバイド(IT格差)と結びつくまでは想像できなかったのである。

 また情報公開法が二〇〇一年四月から施行されると、大学教員がいかに教育や研究で業績を上げているか、すでに始まっている大学のホームページ上のデータ公開にいよいよ拍車がかかるだろう。もとより、そうしたガラス張り状況が、教育や研究の改善について及ぼす効果は一概に否定はできない。しかし一方で、すでに米国でも現れ始めているような、教育や研究の質より量を優先させていく、つまり量が質を駆逐してしまう危険性を一方でははらんでいるのである。また、そこまで行かなくとも、長期的な視野に立っての教育や研究よりも、短期的に目に見える形で成果が上がるものが優先される傾向を生みだしかねないのである。

 ペーパーレスにしても、教育・研究の情報公開にしても、下から横からの変革であるより、上からのお仕着せの改革であるという問題点を多く抱えている。それに限らず、特に国文学科の改廃といった切実な問題で、そこに属する構成員が十分に考える時間を与えられていないことにも限界を感じる。ともかく、こちらも意見を出していくという姿勢が必要なことはいうまでもないが、こうした対抗手段として、ニューメディアの横断的なコミュニケーションを使うことも考えられないかとも思う。資料館での講演では、たとえば大学間を超えたメンバーを募り、メーリングリストを作って、各大学の改革についての横断的な情報交換ができたならば、といった提案をしたりもした。ニューメディアを上からの改革のツールよ終わらせるのでなく、対抗手段のツールとして活用していく、という発想の転換である。

    四 バーチャル・ユニバーシティ

 さてITを使った教育の推進ということで、いま注目されているネット学習、オンライン・エデュケーションに話を進めたい。文部省の奨励のもとに、大学間でバーチャル・ユニバーシティ(略してVU)の動きが活発化している。VUとは、通信衛星やテレビ会議、インターネットを利用した、場所と時間を選ばない遠隔地教育であり、メディア教育開発センターが中心になって構築されたSCS(4)の活用も行われている。かつて、筆者がVUの存在を知ったのは、 村井純氏のWIDEプロジェクトのスクール・オブ・インターネット(SOI)の試みであった。現在では、慶応大学、青山学院大学、中央大学、日本大学、会津大学、東京工業大学、一橋大のMBAコースをはじめ、全国規模で展開している。文学部関係では、早稲田大学、帝塚山学院大学のTIES(5)、園田学園女子大学のインターネット大学などがある。

 VUの動きが急展開したのは、九九年十一月の大学審議会での「情報通信技術の活用による教育提供を推進するための方策」を受けてである。
 文部省も二〇〇〇年秋の大学審議会の答申をめどに、二〇〇一年春から単位認定の方向へと動きを進めており、そこにはグローバル・スタンダード(国際基準)による国を越えたVUによる単位互換制度も視野に入っている。
 VUはアメリカやヨーロッパで先行したもので、有名なところでは、カルフォルニア大学のVUや、ウェスタン・ガバナーズ大学という公立大学の団体から成るVUのみの大学がある。

 VUの理論的バックボーンを知るには、M・トロウ『高度情報社会の大学』(玉川大学出版部、二〇〇〇)が参考になる。M ・トロウは、エリート大学から、マス大学へ、そしてユニバーサルな大学、つまり、大学在籍者が50パーセント以上になる社会へというトロウ・モデルを提唱した人物である。彼は、ユニバーサル・アクセス型(万人が希望に応じて生涯のいくつかの時点で高等教育がひらかれようになるシステム)から、ユニバーサル・パーティシィペション型(万人が特定の場所や時間の制約なしに学習の機会を得られるようになるシステム)に展開していくと考えている。つまり、今日の在籍型の社会人教育や生涯学習から、参加型の高等教育へ推移していくということを予想している。後者が、VUと密接に関わり、その特徴をよく表しているだろう。

 柳田洋一郎氏は最近、本誌の子午線欄に、このVUが定員割れの学科には福音であるという一文を寄せている(6)。なぜなら学生の年齢・地域・性差の枠がはずされ、受講生のパイがふえるからである。たとえば女子短大の講義であっても、VUのシステムを使って高齢や妙齢の男性が受講することができれば、改廃を迫られている学科が成り立っていくこともできるというわけである。

 たしかにVUにはこうした長所があるが、両刀の剣という感もいなめない。それは成果を上げようと思ったら、かなり大変なシステムなのである。
 VUの授業の方法には同期型(リアルタイム型。テレビでいえば生中継型)と非同期型(録画型)がある。同期型の授業では、授業は通信衛星やSCSの利用、学生からのリアクションにインターネットの利用が多い。非同期型ならインターネットだけで良く、次世代インターネットならば、同期型も可能になるといわれている。しかし、教室の対面型ではない授業で学生を九十分引きつけておくためには、同期型でも非同期型でも相当に中身の濃い授業が要求される。その点は、たしかにFD(教授法)の向上にはつながるかもしれないが。内容も専門性の高い授業よりは、一般教養のようなものに適している。

 積極的にVUを活用している早稲田大学のメディアネットワークセンターの村岡洋一氏によれば、バーチャル・ユニバーシティで商品として価値のあるものは、一部の講義に限られるという。テレビの番組制作と同じで、個人ではできない共同作業もあり、これまでと違う授業の組み立て方も要求される。結果として、講義やスタッフの淘汰が促進されることにもなろう。教科書や教材をデジタル情報で、たとえばフロッピーやCD−ROMやDVDで配布することも可能である。しかし魅力的な教材作りの手間はかかり、講師にはデジタル編集者の能力も要求される。教材作りは、著作権にも引っ掛かりやすく、慎重にならざるを得ない。また、授業の理解度をたしかめるため、一回一回にレポートを書かせるスタイルが主流で、レポートや試験の回数、受講生の人数の多さも大きな負担となる。

 日本経済新聞では、最近「ネットを通じて、世界から一流の教育が日本に流れてくる」為、日本の大学が苦しい立場に追い込まれていく」と報じている(7)。海外との単位互換を前提としたVUを展開するとなると、単位認定のシステムはもとより、言語や文化の差異といった壁もある。そもそもVUでいうグローバル・スタンダードは、アメリカン・モデルであるのだから、アメリカン・スタンダードの強要ではないかという批判も成り立とう。それは、後述する電子図書館やオンライン・ジャーナルの問題点とも重なってくる。

 また採算の点では、早稲田大では、授業料のほかに一人ワンコース2万円位のコストがかかるという。早稲田大では、今のところ大学側が負担しているが、果たして、授業料の他にそれだけ払う学生はいるだろうか。にもかかわらず、あえてバーチャル・ユニバーシティを選択するならば、自分の大学では欠けている授業を補うなど、コストを超えた必要性があるからであろう。
 もっとも興味深い点は、早稲田大学のデジタル・キャンパスは、まず文学部で始まったということである。文学部の教育・研究こそデジタル化に相応しいという逆転の発想である。村岡氏によれば、文学部の教員たちは学生に見せたい貴重な本、美術品、写真を多く所有し、それらがデジタル化に適していた点、またデジタル化の現実を見据える理系の教員と較べて、デジタル化に夢を持つことができ、それが、今のところデジタル・キャンパスの成功といえる結果に繋がっているという(8)。

 また、VUは受講生からの評判もおおむね良好である。井桁貞義氏は、九九年秋に早稲田大学で全国8大学と連携して行われた複合型遠隔授業の時の学生の反応をまとめている(9)。学生の意見では、講義内容以上に、他大学の学生との交流が新鮮であるとか、講義が教師からの一方通行でなく、あとで講義についての感想を交換できるなど双方性が魅力という意見がそこでは目立つ。目先の変わる新鮮さ、班ごとに情報を共有してグループ学習が可能であるところなどにも高い評価が集まっている。また、VU自体の強みは、不登校や入院中、障害者の教育にも有効であるという点にある。不登校の高校生を対象としたネット上の「アットマーク・インターハイスク−ル」(東京・渋谷)が計画されているとも仄聞する(10)が、高校レベルのオンライン・エドケーションを大学が取り入れられれのならば、高校レベルの補習を大学側が自前で行わなければならない事態も改善されるかもしれない。

 しかし、だからといって高等教育において、VUが万能であり、学生はVUの空間だけで満足できるのかというと、必ずしもそうではないだろう。アメリカと日本のVUの共同学習で、一回、学生がじかに交流する機会をもったところ、その後の授業が良好に展開したという例もある。実際に会う体験が、バーチャルな学習共同体を支えたという逆説がここにある。ギルドとおなじく人が集まるという場所、という大学の本来の意味を考えても、VUだけで大学という実空間が消滅してしまうとは到底思われない。VUがやがて大学という実空間を駆逐していくという想像は、極論にすぎるだろう。今後、考えるべきは、大学教育の中での、VUの位置づけなり棲み分けである。VUとは、自分の大学では欠けている授業を補ったり、離れたキャンパスの授業を受けたり、大学教育の隙間を埋めるべきものなのか。VUによって、高等教育の選択肢が広がったことは間違いないが、これから、VUと大学の共存の論理がさらに問われ、突き詰められていくことだろう。

   五 電子図書館と電子出版・オンライン・ジャーナル

 さて、VUと大学の共存とアナロジーな関係にあるのが、電子図書館と既存の図書館の関係である。
 一昔前の図書館は紙に情報が固定されていたが、電子化されたデータを扱う電子図書館は、コンピュータとネットワークだけで事足りるという利点があり、注目を浴びている。電子図書館の難しい定義(11)については省略するが、アメリカで先行し、民間で有名なところではグーテンベルク計画(12)がある。日本では、国会図書館、学術情報センター、郵政省、大学では奈良先端科学技術大学のプロジェクトが先行していたが、このところの急展開し、国立機関の電子図書館の充実と、それに刺激を受けた私立大学の電子図書館が隆盛が著しい。それは、九六年七月の学術審議会の「大学図書館における電子図書館的機能の充実・強化について」の答申を受けた動きが、最近になって顕在化してきたからといわれる。

 大学図書館でみると、各大学が所有する貴重資料をWEB上の画像データベースで公開する動きも盛んである。その筆頭に挙げられるのが、京都大学附属図書館の電子図書館である。その他、東京大学・九州大学・東北大学・奈良女子大・東京学芸大学など、国立大学で始まった画像データの公開は、私立でも盛んで、早稲田大学・青山学院大学・慶応大学・国学院大学など増加の一歩をたどっている。発表の中では、京都大学・東北大学・東京学芸大学の古典籍の画像データをモニターを通じて見ていただいたが、画像データについては、文学研究の問題とも深く関わるので、詳しくは次章にゆずることにしたい。

 さて、電子図書館で扱われるにふさわしいのは、どのような資料だろうか。電子図書館全般でみると、たとえば辞典・百科事典・全集などはネット上に移行していく傾向にあるといえる。版を重ねていく辞典や、出版すると高価でかつ場所を取る全集などがデジタル化に向いているわけである。ちなみに京都大学附属図書館では、広辞苑第四版のCD−ROMを学内LANで提供しているという。
 電子図書館の問題点として、しばしば指摘されるのは、著作権と課金についてである。すべての著作をデジタル化して無料で提供することは、著者や出版社が許すはずもない。デジタル化された情報を有料で提供するか、無料で提供するかの判断は、著作権も絡んだ難しい問題である。また『今昔文字鏡』のようなCD−ROMも出てきたが、いまのコンピュータ・システムでは変換できない外字の問題もあり、用例を多く引用する辞典類のデジタル化のネックになっている。また紙で残した方が寿命が長いか、デジタル情報で残した方が寿命が長いか、比較すると、紙のメディアでは、紙質により差が出てくる。一方、デジタル情報の寿命が永遠かといえば必ずしもそうではないらしい。
 ともあれ今後は、本の種類により、紙のメディアで残すべきか、デジタル情報でのこすべきか、あるいは両方で残すのがふさわしいのか、その選別が問題になっていくだろう(13)。

 なお、現在の図書館・博物館そのものは、電子図書館に取って代わられ、アーカイブ(保存庫)化していくという予想に対しては、慎重に判断したい。たしかに現在の図書館・博物館・美術館が、ある程度はアーカイブ化していくことは避けられない事態かもしれない。しかし専門書や一般書すべての資料が電子化が可能で、電子図書館だけで十分機能していける体制が整ったにせよ、それでよいのかはまた別である。
 それは、本が配置された図書館のもつ付加価値である。つまり、探しにきた本と別の本と出会うことによって、知りうる情報や喚起されるイメージをわれわれが手放してよいものかどうか、という点である。必要な情報ばかりでなく、プラスアルファの情報やイメージとの出会いが、いかにわれわれに創造的に働きかけるか、その作用を忘れてはならない。その意味で、図書館を純粋にアーカイブ化してよいかは、別に議論されなければならない(14)。

 その議論は、電子出版と紙の本の棲み分けや書店の役割とも深く連動する。電子出版が進むと、本がなくなり、すべてデジタル情報化されるという論調もあるが、おそらくそうはならないだろう。目下の動きを見ていると、インターネットと既成の出版メディアとが融合して、相互浸透した展開を示しているからである。たとえばネット上の人気作家田口ランディの『コンセント』『アンテナ』が活字化されてベストセラーになったことは、よく知られている。また絶版になった本をデジタル情報にして配信する「電子文庫パブリ」(徳間をはじめ9社)や、ネット上の受注に対して製本し販売するオンデマンド出版(新潮社や角川書店)がスタートし好調だという(15)。筆者の専門に関わるところでは、講談社ウェブの源氏大学コムで、瀬戸内寂聴の現代語訳や講演のオンデマンド出版も始まっている。ネット上で出版計画を進める「出版ネット市場」が、二〇〇〇年十月に開設されたという情報もある(16)。それは個人が出版の企画を登録し、編集者が選択し、読者の投票によって出版を決定するという方式で、それにより費用負担のない自費出版も可能になるという。

 CD−ROMなど、パッケージされたデジタル情報が雑誌や本につく場合にしても、一昔前はパソコン系に限られていたが、現在はさまざまなジャンルの本に広がっている。紙のメディアと、ニューメディアのメディア・ミックスの身近な例といってもよいだろう。 以上のような現況からすれば、現在の電子出版は勃興期であり、この過渡期の混乱がすぎれば、すべての本が電子化されていくという論調は、やはり性急で乱暴すぎるのではないか。大量の情報の海のなかで、かえって紙の本の情報が価値が見直されるということもある(17)。紙の本の情報への信頼性は、われわれの中でまだ揺らぎ切ってはいない。
 VUと大学の実空間、電子図書館と図書館、電子出版と紙の本、すべてに通底する問題だが、前者の拡大が後者の領域を脅かす面をもつとしても、後者を排除しえないであろうし、それが生産的なことかどうか、とくと考えてみる必要があるだろう。新世紀にむけて、それぞれが共生するルール作りが模索されていくべきではないか。

 それにしても、電子出版の浸透は、パッケージ系にしても、オンライン系にしても、読書という行為そのものを変質させていくだろう。また、本や雑誌というモノを購入してお金を払うのに対して、情報にお金を払う、情報の対価という新しい消費者意識の形成を、一方では促していくことも否めない(18)。本は持つ時代から利用する時代に移行しつつあり、電子出版も、CD−ROMなどのパッケージ系から、インターネットを利用したネットワーク系に主流が移りつつある。オリジナルとコピーの区別がつきにくいデジタル情報では、オリジナルのCD−ROMの値段の付け方が高くなることもあり、その分、購買層から敬遠され、部分部分が利用できるネットワーク系が歓迎されるといたことも起こるのであろう。
 さて、電子図書館や電子出版の話の流れから、オンライン・ジャーナルについても、一言ふれておきたい。一般雑誌のネット上の移行について、ここでは立ち入る余裕も知識もないが、書籍に準じて考えられる側面が多いはずである。それでは、研究者にとって切実な課題である学術雑誌のネット上の移行はどうなのか。
 やはり、アメリカで先行するオンライン・ジャーナルだが、国立情報学研究所(旧学情)でオンライン・ジャーナル・システムが公開され、理系雑誌の検索と印刷が可能となり、 理系では進行しつつあるようである。文系のある学会がそれを利用して、過去のバックナンバーの公開を検討中との情報もあるが、やはり文系全般でみると、学術雑誌では実現が難しい段階である。かろうじて紀要レベルでは、大学の附属図書館の電子資料として実現化されつつあるが。

 VUや電子図書館に比べて、オンライン・ジャーナルが予想したほど展開がなかったのは、一つには講読料金が冊子体に比べて割高になったり、閲覧が将来的に保証されるかという不確定な要素もあるからといわれる。だが、より本質的な問題としては、オンライン化された学術情報が、紙の雑誌や書籍と同等に評価されるような環境が必要なのに、まだその環境が整っていないためではないか(19)。オンライン・ジャーナルをどのように評価したり引用するのかというルールが確立していないし、紙の業績とデジタルでの業績が同時に出た場合、どちらにプラィオリティがあるか、といった問題も起こってくる。

 また学術雑誌をスキャナーで読み取って公開する方法は過渡期のもので、本命はデジタル化したフルテキストといわれるが、フルテキストだと、論文の改竄・剽窃が容易になるというデメリットもある(20)。デジタル化された論文を適当に書き換えて、不埒者が自分の業績として発表してしまうことも可能になり、疑いだしたら切りがない。それは、個人のHPに自分の研究業績を発表した場合の問題点とも重なっている。発信者からすれば、文章の訂正や注の加筆など、容易に手を加えられるという利点もあるが、勝手にダウンロードされ、アレンジされて、別の業績として発表されてしまう危険性もあるわけである。

    六 古典研究者からみた文学研究の未来

 デジタル情報化時代の現状と問題点を、バーチャル・ユニバーシティや電子図書館、オンライン・ジャーナルを軸に追ってきたが、次に古典研究者からみた文学研究の今後の可能性について予見をのべておきたい。一年前の資料館の講演では、画像データを使った本文研究や、挿絵・絵巻の研究、海外とのコラボーレーション(共同研究)の展開を予測した。今年に入っても、国文学の電脳化はさらに進行し、研究のリソースがデジタル情報として公開されていく傾向に拍車がかかっている。いくつか例を挙げると、皇学館大学の深津睦夫氏のサイト「電脳式国文学研究入門」ができたり、『電脳国文学』(好文出版)、中村康夫『古典データベース入門』(臨川書店)といったテキスト類が充実したり、菊池真一氏の「日本文学関係テキストファイル等」など個々の電子テクストのリンク化が進んでいる。

 電子図書館の章でも述べたように、古典籍のデジタル・テキスト化の動きはますます活発化しているわけだか、その場合、画像データで提供されるのがよいのか、デジタル化されたフルテキストの方がよいのか、あるいはその並立かという問題がある。
 スキャナーによる画像データは、フルテキストと呼ばれるデジタルテキストと、コストの面で大きな差がある。画像データは、安い値段でできるが、十倍のメモリを食い、それに対して、フルテキストは費用は十倍かかるが全文検索が可能であるといったことがある。たとえば民間の電子図書館ともいうべき青空文庫では、そのコストの問題点をボランティア的な入力により解決したという経緯がある。
 しかしまた、古典籍などの画像データの魅力というものも捨てがたい。それは、紙の本の持つ身体性、物質的なメッセージを全てではないにしても、ある程度は画像が伝えてくれるからであろう。挿絵の画像データなども、読み解くべき情報として貴重である。発表の中では、京都大学・東北大学・東京学芸大学の古典籍の画像データをモニターを通じて見ていただいた。

 目下のところ、各大学のお宝展示ともいわれるような(21)画像データを、美術品のようにながめたり、書誌学の対象とする以上に、どのように研究に有効に活用していけるのか、その可能性は未知数というほかかない。それらを貴重な文化資源として、今後どのような研究が展開できるか、互いに知恵をしぼって模索していく必要を感じる。
 しかも、この検討は急務であって、具体的なイメージを早急に出すことによって、画像データベースも有益な対象が優先され、使い勝手のよいものとして、構築され整備されていくだろう。たとえば、紙の本のように頁を捲るように構築されれば良いのか、それとも必要な箇所が瞬時に表示されるような検索機能がついたものがよいのか、等の検討である。手持ちの資料を画像データにして公開する予算なり技術が保証されるならば、次なる課題は、それをいかに創造的な研究に参与させるかの指針を得て、データ構築にフィードバックさせていくかである。だから、その構築には、それぞれの分野の専門家の判断が加わることが望ましい(22)。ただ予算がついたから、やみくもに画像データにしてみました、というのでは、あまりにお粗末な話である。新しい画像データであっても、参照されなければ、書庫の奥深く古典籍が死蔵されていることと変わりがないからである。

 一方のフルテキストとよばれるデジタル・テキストは、検索機能がついたデータベースがほとんどで、便利なものだが、これもどのように有効活用できるか、まだまだ検討の余地を残している。文学テクストのデータベースは、かつてはシェクスピアの語彙研究に使われ、源氏物語のデータベースも、正編と続編が紫式部一人の作であるのか、という同一作者説の検証に使われた経緯がある。複合語彙検索や、複数の作品で同じ語彙を横断的に検索する場合、紙の本の索引より、デジタル・データベースの方が格段に便利なことはいうまでもない。しかし、デジタル・データベースを使って、従来の盲点をつくような目覚ましい研究の成果を出せるかどうかは、今後の研究者のアイディア如何にかかっている段階ともいえる。データベースとnグラム統計処理を組み合わせて、平安和歌でのジェンダー差を炙りだす近藤みゆき氏(23)や、『源氏物語』と『古今集』のデータベースを突き合わせて、従来見落とされていた引歌表現を博捜した近藤泰弘氏(24)の成果は、現段階ではむしろ貴重な例外といえるだろう。

 デジタル・データベースについて、言わずもがなのことを付け加えれば、データベースは、その道の専門家よりも、門外漢や初学者がより有り難みを感じるものだが、だからこそ使い方を誤り、なかなか必要とするデータにたどり着けないといったジレンマを感じることがある。データベースは、学部の学生から手軽に使えるものだからこそ、その構築には配慮が必要だし、また使い勝手がよくなるように改良を重ねていくべきものだとも思う。
 今後の可能性については、デジタル・データベースを駆使する研究ばかりでなく、元の紙の文献や画像データと複合的に比較し、その関係性を問うような視点が、新たな研究領域の拡大を促すであろうし、その進展に期待もかけたいところである。一方で、何もかもデジタル・テキストにしてしまえば良いといことではなく、研究用のコンテンツも、また紙のメディアとデジタル空間のどちらに残るのがふさわしいか、文化資源の再配分の問題として慎重に選別されていくことが望ましい。

 ところで研究機関の提供するデジタル・データばかりでなく、研究者やその卵の院生世代のHPが提供するデータも、無料HPサービスなどを利用して増加の一歩をたどっている。HPのスタイルを私なりに分けると、研究コンテンツ型(データベース・文献目録など)と、研究・教育のショウウィンドゥ型(経歴や業績など)とその複合型に三分類できるようである。
 
 問題点としては、たとえば個人のHPのコンテンツの信憑性はどうやって判断するかといったことが挙げられる。ネット上でいえば古いサイトや、アクセス数の多いサイトが信頼できるといわれたりもするが、信頼できる紙のデータとの往還によって解決しなければならない問題もあるだろう。
 ことは日本文学に限らないが、インターネット・カオスといわれる情報の過多のなかでは、情報の専門化と大衆化の二極化、言い換えれば階層化やハイブリットが進んでいる。そのなかで何が必要な情報かを判断する力をどのように培うかが、いま切実に問われているのだともいえる。情報のイデオロギー性もふくめて身元を洗い、それを批判し吟味するメディアリテラシー教育の必要性が今後ますます高まっていくことだろう(25)。

    七 デジタル情報化時代の共同体

 現在の日本文学研究は、解釈共同体ともいうべき研究会や学閥によって、研究の方法や解釈の方法にしても、ある共通理解の上に成り立ってきたように思われる。デジタル情報化社会は、解釈共同体の枠組みを壊しながら、情報共同体の時代を生み出すのではないか。時空間の制約を超えた国内や海外との共同研究の進展が期待されるところではあるが、この情報共同体の生成についても、必ずしもプラス・イメージで捉えられない面をもつ。最後に、デジタル情報化時代が生み出す情報共同体についての問題点を洗い直して、整理しておきたい。
 かつては、モノを対象とした工業化社会について、単一方向からの情報の流れからなる指示・命令(コマンド)と、管理する者と管理される者との間での制御(コントロール)とチェックの3Cがいわれ、現代社会でも支配的な仕組みといわれている。これに対して、デジタル情報化社会の3Cは、コミニュケーション、コラボレーション、コンプレヘンション(理解)といわれる(26)。それでは、工業化社会のつくる共同体と、デジタル・コミニュケーション時代の作る共同体の質の差異とは何だろうか。そもそも共同体とは、時とともに拡大・成熟したり、縮小・退化したりして移りゆくものである。しかし、情報共同体は、モノを媒介にした工業化社会の共同体以上に、変化の激しい世界である。

 身近な例をあげよう。筆者が楽しんだ初期のパソコン通信やインターネットの共同体は、電脳の祝祭空間であり、各領域の敷居が低く、発言しやすいことが魅力的だった。そもそも参加する人が少なかっただけに、そこでは隣接する分野の研究者など、思いがけない領域の人との出会いがあり、既存のメディア、既存の共同体とは違ったコミュニケーションの質感の新鮮さを楽しんだものである。それが、Eメール人口が急増し、iモードが普及し、無料HPサービスが浸透してくると、参加するデジタル情報共同体の多様化・分散化・専門化が急速に進行していった。
 目下、パソコン通信のフォーラムは空洞化しつつあり、そこでの発言も一時の熱気がない(27)。インターネット上の専門的なサイトがふえて、パソコン通信愛好者たちも、自分の関心により合致したサイトの電子掲示版に拠点を移したり、自分でサイトを開くことも多くなった。

 また、情報共同体といっても、既存の共同体を補強するだけのデジタル・コミュニケーションもある。かつて会社の組織で利用するイントラネットという閉ざされたデジタル・コミュニケーションもある。かつて会社の組織で利用するイントラネットという閉ざされたデジタル・コミュニケーションが流行したが、現在も学生のサークルやゼミのHPなど、非公開のサイトが思いのほか多い。それらは卒業生をまきこめる利点があるものの、おおむね閉鎖的、排他的である。こうした非公式サイトでは、怒りのメッセ−ジの応酬、いわゆる「フレイミング」とよばれる現象は起こりにくいので、発言に際して疑心暗鬼になったりということもない。各成員が、実名であるにせよ、匿名であるにせよ、ある程度、相手を想定しながら、安心してコミュニケートできる利点がある。しかし、イントラネット的なコミュニケーションの快適さに慣れて、そこで自足してしまってよいかどうかは、また別の問題である。真に創造的なデジタル・コミュニケーションの輪は広がらないし、それでは情報共同体の成熟もおぼつかないのではないか。

 水越伸氏によれば、インターネットを使って発信していこうとする初期の関係者から、効率よく情報を収集受信しようとするような現在の関係者へと代わりつつあるという(28)。じつは自戒をこめて引用したが、たとえば私のHPに寄せられる質問のなかにも、卒論のテーマに関する参考文献を問い合わせるといった、自分で情報収集する努力を怠っているとしか思えないようなものがある。情報の安易な受信者に終わるのではなく、またイントラネット的な情報発信で満足しないで、外部に向けて、創造的な情報の発信者になるようなリテラシー教育が、情報を批判し吟味するメディアリテラシー教育の必要性と同時に求められているのではないか。

 終わりにデジタル情報化時代の夢というか、期待を述べて結びとしたい。一つは、若い世代の研究者のHPを通じての活動が、研究そのものの権威を相対化し、流動化させていくことへの期待である。また、海外の研究者との交流により広がるデジタル情報共同体の成果にも注目したい。日本文学研究の国際化とは、なにも外国の研究者や留学性を受入れたり、海外の学会で発表することだけではない。情報化とも絡まって、インターネットや通信衛星による海外の研究者とのコラボレーションといった別の展開が期待される。そうした展開のなかで、現在の日本文学研究の閉塞感をある面で克服していく可能性も見えてくるもしれない(29)。

 以上、さまざまな問題点を見てきたが、デジタル情報化時代の上からの押しつけの大学改革ばかりでなく、やや楽観的な言い方になるが、従来とは違った地球規模のコミュニケーションとコラボレーションのスタイルを生み出していくはずである。デジタル情報化時代への絶望ばかりでなく、そこに希望の一つを見いだしておきたい。そのためにも、情報共同体についてのコンセンサスやルール作りのようなものがある程度必要になってくるだろう。

 しかし最後につけ加えれば、それが、サイバー・ガバナンス(サイバー空間の統治)とよばれるような言葉に収斂されることには抵抗がある(30)。サイバー・ガバナンス(ネット・ガバナンス)は、第三者機関による客観的な統治であるにしても、国家の統治を連想させる表現である。それをグローバル・ガバナンスと言い換えてみても、中抜きできない国家権力の問題が残るように思う。国家の管理したサイバー空間で、国民参加型のコミュニケーションという発想だけは、少なくとも願い下げにしたい。地球規模といった言い方が、ITに対するそれぞれの地域の温度差を遠景化した楽観的な言い方であるにしても、サイバー空間が主に市民参加型のコミュニケーションの場として開かれてきたいう基本は遵守した上で、今後のコンセンサスやルール作りを考えていくべきだと思われる。




                       トップページに戻る


(1)その内容については、『第5回 シンポジウム コンピュータ国文学講演集』(国文学研究資料館、二〇〇〇・八)や「源氏研究」第5号(二〇〇〇・四)の拙稿「メディア・ミックス時代の源氏文化」に拠られたい。
(2)阿毛久芳「何が変わったのか、何が変わらないのか」(「日本文学」二〇〇〇・一〇)
(3)その背景としては、勤務校が教員養成系の大学で、定員削減のかなりの部分を事務方で引き受けて、事務系の職員が減されていく一方で、国立大学なので情報化に関する予算が比較的恩沢に付くという現状がある。
(4)文部省メディア教育開発センターが開発した映像交換を中心とした衛星通信大学間ネットワークシステムのこと。
(5)インターネット教育支援システム。二〇〇〇年秋から甲南・関西学院・武蔵・成蹊にも配信される予定。


(6)「子午線 短大国文系の行方」(「日本文学」二〇〇〇・十)
(7)日本経済新聞二〇〇〇年九月一四日朝刊。
(8)この辺りについては、『キャンパス情報化最前線』(早稲田大学出版会、一九九九、松岡一郎『早稲田大学デジタル革命』(アルク出版、二〇〇〇)に詳しい。
(9)井桁貞義「大学ネットワーク授業から浮かぶ現代学生像」(「大学と学生」二〇〇〇・七)
(10)日本経済新聞二〇〇〇年九月一六日朝刊。

(11)原田勝『電子図書館』()
(12)一九七一年にイリノイ・ベネディクタル大学のマイケルハート教授が、約三〇年前、巨大な電子図書館の構築計画をたて、現在、著作権の切れた作品、二〇〇〇あまりをボランティアによりデジタル化している。
(13)近藤泰弘「インターネットの変貌」(「文学・隔月刊 9・10月号」二〇〇〇・九)。
(14)二〇〇二年に完成予定の国立国会図書館関西館が、当初、非来館型、発信型の電子図書館構想といわれたのに、蓋を開けてみると、来館型の図書館と電子図書館の共存形態であったことも、その点と関わるのかもしれない。
(15)日本経済新聞二〇〇〇年七月三一日朝刊。
(16)毎日新聞二〇〇〇年八月一九日。

(17)津野海太郎・二木麻里編『徹底活用「オンライン読書」の挑戦』(晶文社、二〇〇〇)
(18)湯浅俊彦『デジタル時代の出版メディア』(ポット出版、二〇〇〇)
(19)なお早稲田文学部では、データベースに関しても業績評価に加える方針を打ち出している。
(20)潮木守一氏は「オンライン・ジャーナルの可能性と課題」をHP上に発表している(「ARG」一九九九・八・二五号を参照)。

(21)今西祐一郎「データベースと文学研究」(「文学 隔月刊 1・2号」二〇〇〇・一)
(22)本発表の二週間後の「日本大学国文学会第10回研究集会」(二〇〇〇年一二月二日)で、赤間亮氏の「人文系の立場からみたWEB利用」の講演を聞いて、データベース構築の問題点について、多大な示唆を得たことを感謝したい。
(23)近藤みゆき「nグラム統計処理を用いた文字列分析による日本古典文学の研究」(「人文研究」29、二〇〇〇・三)他。
(24)近藤泰弘「<<文化資源>>としてのデジタル・テキスト」(「国語と国文学」二〇〇〇・十一)
(25)菅谷明子『メディア・リテラシー』(岩波新書、二〇〇〇)。

(26)金安岩男「情報化と地球環境」(『岩波講座 地球環境学9』岩波書店、一九九八)
(27)彌永信美「ネット・コミュニケーションと東洋学研究」(「人文学と情報処理」24、一九九九・九)
(28)水越伸『デジタル・メディア社会』(岩波書店、一九九九)
(29)「二十一世紀の大学と国語国文学研究の行方」(「語学・文学」一六八号、二〇〇〇・一一)。
(30)サイバー・ガバナンスについては、『IT2001 なにが問題か』(岩波書店、二〇〇〇)や「現代思想」(二〇〇一・一)等を参照されたい。