以下のエッセイは、東京学芸大学国語科の源氏ゼミナールの機関誌「紫」第20号(2000年8月)に寄稿したものである。

なお、エッセイの背景には、「秘色」に近い色を選びましたが、コンピュータによって発色も違うようなので、保証の限りではありません。
サントリー美術館と大阪市立東洋陶磁美術館のホームページに過去の展覧会のコーナーがあり、そこで「秘色」を一点ずつ見ることができます。特に後者には「秘色」について、簡潔かつ的確な解説も付いていますので、興味のある方はご参照ください。

『源氏物語』に出てくる「秘色」(ひそく)ということばに注目しはじめたのは、そう古い昔のことではない。最近といってもおかしくない一九九九年十一月のことであった。そのきっかけは、名古屋の中日文化センターで、「源氏物語の文化環境」という五回連続の講座が開かれ、その一回を「衣装と調度」というテーマで担当したことにある。その際、衣装について話す内容はすぐに決まったが、もう一つの調度についての内容は、はたと考えこんでしまった。これまで、『源氏物語』のなかの調度について、論文を書いたこともないし、第一、調度といっても幅が広すぎる。ちょうど、その頃発売された『CD−ROM角川古典大観 源氏物語』で、試しに「調度」関係の語彙を検索してみると、一二一九件がヒットした。講座まであと一週間というところで、とても一二一九件を吟味している余裕もない。次に「調度」という言葉で検索してみると、「調度ども」「御調度」「御調度ども」と合わせても二六件である。そこで、この二六例を中心に、話の内容を組み立てることにした。それらの用例に注目するだけでも、光源氏の都の調度には「御」がつき、須磨時代の簡素な田舎風の調度には「御」がつかないといった思いがけない発見があったのである。

源氏ゼミの前期の範囲の蓬生巻にも、「御調度」の用例が二例あり、都に戻った光源氏にも忘れられ、零落をきわめる末摘花が、それでも父常陸宮が集めた調度を手放さず守りぬくという条がある。

御調度どもも、いと古代に馴れたるが昔様にてうるはしきを、なま物のゆゑ知らむと思へる人、さるもの要じて、わざとその人かの人にせさせたまへる、とたづね聞きて案内するも、おのづからかかる貧しきあたりと思ひ侮りて言ひ来るを、

あはれに心深き契りをしたまひしに、わが身はうくて、かく忘られたるにこそあれ、風のつてにても、わがかくいみじきありさまを聞きつけたまはば、必ずとぶらひ出でたまひてん」と、年ごろ思しければ、おほかたの御家ゐも、ありしよりけにあさましけれど、わが心もて、はかなき御調度どもなどもとり失はせたまはず、心強く同じさまにて念じ過ごしたまふなりけり。

ところが、この末摘花が後生大事に守りぬいた調度が、具体的にどのようなものを指すのか、蓬生巻で明らかにされてはいない。そこで、遡って末摘花巻を調べてみると、次のような条に目がとまった。

御台、秘色やうの唐土のものなれど、人わろきに、何のくさはひもなく、あはれげなる、まかでて人々食ふ。

八月の出逢い以来、遠ざかっていた末摘花邸を新春になってようやく訪れた光源氏は、その邸内をまじまじと観察する機会を得た。そこで、まず彼が目にしたのは、女房たちが貧しい食事をする姿であった。「何のくさはひもなく」とは、品数の少なさをいい、ここでは、主人の末摘花に出した貧しい食事のお下がりをさらに仕える女房が退出して食べているというのである。だが、食器だけは、光源氏の遠目にも「秘色やうの唐土のもの」を使っていると見えた。

末摘花巻を見る限りでは、彼女の父である故常陸宮は、舶来品の「唐物」を多く収集して、愛好していた人物らしい。同じ場面で末摘花が来ていたかの「黒貂の皮衣」も、若い姫君が着るのはいかにも珍妙で、光源氏の度肝を抜いたが、元はといえば渤海国からもたらされた貴重な渡来品で、一昔前に都で大流行したファッションでもあった。

それにしても、いかにも由緒ありげな唐土からもたらされた「秘色」の器とは、どのようなものであったのだろうか。新編全集の頭注では、「秘色」を中国渡来の青磁器といい、『骨董瑣記続記』所引の「高斎漫録」を引いて、かの地では臣下や庶民の使用を禁じていたから、この名が付けられたと説明する。一方『河海抄』でも、「今案ずるに、秘色は磁器なり、越州よりたてまつる物なり、其色翠青にして殊にすぐれたり、仍て是を秘蔵して尋常に用いざる故に秘色と号す云々」と、また別の見方を示している。それにしても、この程度の説明からでしか想像することができなかった「秘色」を直接見るという貴重な機会を最近、幸運にも得たのである。その発端は、九九年の十二月に国文学研究資料館で行われた「二十一世紀の源氏物語研究」というシンポジウムで一緒にパネラーとなった大阪大学の伊井春樹氏からの情報であった。

中国でも文献の上でしか知られず、実物を確かめえなかった「秘色」の器がついに発見されたという特集番組がテレビで放映され、伊井氏が偶然それを目にしたというのである。さらに、伊井氏は、『宇津保物語』にも「秘色」の例があることから、『源氏物語』の用例と併せて考察した論文を中国で出版される雑誌に寄稿したばかりというのである。そのテレビの番組をもとより見逃していた私は、せめてその論文が活字化された際には、ぜひ拝読を、と伊井氏にお願いして別れたのであった(注1)。

ところが、「秘色」を見る機会は、思いのほか早くにやって来た。伊井氏の次に、お隣りの研究室の高橋忠彦氏が、「秘色」についての情報をもたらしてくれた。高橋氏は、中国茶の歴史の研究でも有名で、唐時代の茶道具についての解説を書いた「唐皇帝からの贈り物」という美術展の図録を届けてくれたのである。「唐皇帝からの贈り物」の展示は新潟県立美術館を皮切りにすでに始まっていたが、その図録には、「秘色」の器の写真が載っており、さらに大阪市立東洋陶磁美術館の学芸課長である出川哲朗氏による「法門寺出土の秘色青磁」という詳しい解説までも載っていた。

そもそも、この展覧会は、一九八七年、中国の西安市の西方にある法門寺の発掘調査で、唐時代の地宮(地下宮殿)から唐末の二皇帝の大量の奉納品が発見されたことから、その出土品に周辺の唐代文物を加えた百二十点を展示したものである。

「唐皇帝からの贈り物」展は、二〇〇〇年の二月半ばから、いよいよ赤坂のサントリー美術館でも公開されることになった。朝日新聞などでも、『源氏物語』に出てくる「秘色」の実物が見られるといった紹介の記事も出て、気持ちをそそられるばかりである。とはいえ、大学は学期末の成績提出や入試という一年で最も忙しい時期であり、ようやくサントリー美術館に赴くことができたのは、会期の終りも近い三月十五日のことであった。

平日の午前中というのに、会期の終盤のせいだろうか、美術館は思いのほか混んでいた。中心に置かれていたのは、仏舎利を収めた八重の箱だが、その展示も気もそぞろに人だかりの肩ごしに見て、お目当ての奥のコーナーの「秘色」の数点の展示に急いだ。まず実物を見ることができた安堵感が大きかったが、一見して「秘色」は青磁にしては、地味な色や単純な形という印象を持った。それは、千年以上も時を経ての退色なのか、それとも、初期の青磁、というより本来の中国の青磁前史にあたる時代の色と形の特徴なのか、私には判断つきかねることではあった。今回の展示品を特徴づけていたのは、むしろ器を包んであった紙が張りつき、そこが変色して、薄茶の模様のような痕跡をとどめていることであった。その薄茶の痕跡が、地下に忘れ去られていた宝物の耐えた長い歳月を物語るかのようにも思えた。とはいえ、器のシンプルな形は、奥にしまい込みたくなるような至宝というより、末摘花巻のように日々の食事に供されるものにふさわしい気もした。

さて、図録に掲載された出川哲朗氏の解説によると、秘色は、唐代の漢詩文にしばしば登場し、もともとは神秘的な色、もしくは特別な色という意味だった。その意味では『河海抄』の注記が正鵠を射ているといえよう。ところが、唐の後の呉越国の王が朝貢貿易用の秘色を確保するため、臣下や庶民の使用を禁止したため、新編全集にある「高斎漫録」のような注が出てきたのであろう。さらに、平安時代の文献では、重明親王の日記『李部王記』の天暦五年(九五一)六月九日の条に、「御膳沈香折敷四枚瓶用秘色」とある。十世紀半ばでは、宮中の公的儀式に使われるような瓶であったらしい。末摘花巻で常陸宮家の所蔵品であったという記述ともそれは符合する。

さて、出川氏の解説では、九州の大宰府(注2)の発掘調査でも、越州産の青磁器が多く発掘されたことを挙げている。法門寺出土の「秘色」で、今回展示されたのは、わずか五点である。平安時代に輸入された「秘色」の実物が、大宰府の発掘跡では多量にみることができるのだろうか。そういえば、「秘色」のもう一つの例は、伊井氏や出川氏も注目しているように、『宇津保物語』の「藤原の君」巻で、前の大宰大弐である滋野真菅をめぐるエピソードにある。

『宇津保物語』には、身分の上下を問わず数々の男性たちの求婚を浮けた「あて宮」という美女が登場するが、この滋野真菅も、年が六十位というのに、あて宮の求婚者の一人になる。真菅は、大宰大弐に任官して、たっぷり蓄財した後に、帰洛の旅の途上で妻を失い、都に戻って、あて宮の噂を聞きつける。息子も四人、娘も三人もあるというのに、年をとっての好色ぶりを『宇津保物語』は戯画的に描いていく。とはいえ滋野真菅が胸を張って求婚するのも、大弐時代の蓄財があり、その財力に自信があればこそなのである。真菅は、京と筑紫を往復する筑紫船をもち、娘たちに唐物の極上の絹を選ばせている。さらに、真菅の一家がいかに豪勢な生活ぶりであったかを示す部分に、「秘色」が出てくるのである。

主もの参る、台二よろひ、秘色の杯ども、女ども朱の台、かなまりして、物食ふべしとす。

もとより、この「秘色の杯」とは、真菅が大宰府時代の官製交易に係わるなかで得た高価な器であったに違いない。こうした文脈で「秘色」が語られる以上、現在の大宰府の発掘調査で、秘色青磁が出土するという現象もうなづけるのである。

私の胸はときめき、博多への調査旅行を計画しはじめた。そして実際に博多を訪れることができたのは、サントリー美術館を訪れたちょうど三カ月後、六月の半ばのことであった。幸い、大宰府の発掘調査の成果について幾つかの文献は、事前に東京で目を通すこともできたのである。それは、ひとえに福岡女学院大学の末澤明子氏と、太宰府市文化ふれあい館の松川博一氏のお蔭である。五月半ばの中古文学会で末澤明子氏に、大宰府貿易関係の資料や発掘品を福岡でまとまって見れる場所をごく軽い気持ちで尋ねたのであった。氏は早速しらべていろいろ情報を下さったが、とくに太宰府市文化ふれあい館に詳しい方がいるらしいので、電話で聞いてみたらとアドバイスしてくれたのが有り難かった。太宰府市文化ふれあい館で、電話に出た学芸員の松川氏が、大宰府貿易に関するさまざま資料を送ってくれた。「都府楼」という雑誌の鴻臚館特集や文献目録など、とりわけ有益なものだった。

大宰府の輸入青磁器は、政庁跡付近ばかりでなく、ずっと博多港に近い鴻臚館跡から多量に発見されている。鴻臚館とは、古代中国で外国との交渉に関わった「大鴻臚」「鴻臚寺」にちなんだ唐風の名称である。「鴻臚寺」は、唐の官制では賓客を礼する役所のことであり、唐文化かぶれの嵯峨天皇の時代から、筑紫館とよばれた蕃客の客館の名称が変わったという説がある。平安京の鴻臚館は、『源氏物語』でも桐壺巻に七歳の光源氏が訪れた場所として名高いが、平安時代の初期から、京ばかりでなく筑紫と難波にも設けられていた。筑紫の鴻臚館は、文献の上では、承和六年(八三九)から永承二年(一〇四七)まで存続が確かめられる。当時、海辺に近い鴻臚館と内陸の大宰府は南北に斜めに走る一本の道で結ばれていた。筑紫の鴻臚館の前身が筑紫館で、訪れた唐・新羅の使や出国する遣唐使・遣新羅使のための宿泊や接待の館であった。しかし、筑紫館から鴻臚館へ名称が変わると共に、公的な使節のための施設から、訪れた唐・新羅の商人との官貿易の窓口へと変貌したのだという。だが、大宰府での官貿易の実態については、また別の機会に譲り、いまは当面の課題である博多の鴻臚館の発掘調査と「秘色」の関わりを追っていこう。

一九八七年の暮れも押し詰まった頃、福岡市の平和台球場の外野スタンドの改修工事が計画され、福岡市教育委員会が試掘調査をしたところ、博多の鴻臚館跡が確認された。奇しくも、法門寺地宮が発掘調査され、「秘色」の器が確認された同じ年である。翌年の夏に第二次の発掘調査がなされ、併せて八世紀から十一世紀の各段階の遺構と遺品が出土したのである。一九九八年、平和台球場は取り壊され、現在は、その南側鴻臚館跡展示館が建っている。球場跡そのものの発掘調査も一九九九年から進行中である。一九八七年以降の発掘調査で、もっとも早い時期の遺物は、八世紀の新羅焼蓋である。九世紀の遺物が西アジアのガラス器で、緑の瓶と透明な坏の破片が発掘された。またイスラム陶器や中国渡来の白磁碗の破片も九世紀のものという。そして、十世紀の遺物を代表するのが、中国浙江省越州窯の青磁花文碗である。

六月半ば、梅雨の合間の暑い日に福岡空港に降り立った私は、まず勇んで勢いこんで平和台球場側の鴻臚館跡の展示館におもむいた。展示館の内部に入ると、平安時代の礎石建物跡の一部や実物大の復元建物を見ることができ、またガラスケースに各時代の出土品が並んでいる。まず目についたケースには、越州窯の青磁器が三つの時代に分けて展示されていた。唐代の九世紀の青磁碗は、釉薬もかからず、つやのない仕上がり、十世紀の五代のものは、釉薬のかかった青磁輪花皿、十世紀から十一世紀にかけて五代・北宋とされるものは、釉薬もかかり深さもある青磁碗である。サントリー美術館でみた法門寺の「秘色」の連想でいえば、十世紀以降の青磁輪花皿や青磁碗が、それに相当するのだろうか。それにしても、青磁とはいえ、茶褐色のものが多く、かろうじて青磁らしい色味を感じる破片でも、青灰色というより緑灰色、いわゆるオリーブ色である。

そして、陶磁器関係や発掘関係の図録で、くり返し美しい姿を確認していた青磁花文碗は、その一つ奥に進んだガラスケースのなかに置かれていた。しかし、完全な形の器には複製品とあり、手前のガラスケースに同じ花文碗の破片が置かれている。図録で見たのは複製品であったのか、と私は何事も現地に来てみなければわからないと納得する。ところが、後でわかったことだが、本物は福岡市立博物館に置かれていたのである。

それはともあれ、その瞬間これこそ「秘色」の名にふさわしいと感心した。青磁花文碗には、蓮の花の花びらが放射状に規則正しく描かれ、釉薬のかかった艶やかさがその美しい模様を引き立てている。これぞ「秘色」という思いは、翌日、福岡を離れる間際にどんでん返しをくらうことになるのだが、その時の私は知る由もない。添えられた解説によると、それは浙江省越州窯近くの明州(寧波)の港から海外に輸出され、西は遠くエジプトのフスタート遺跡まで、越州窯の青磁の遺品が確認されるという。

続くガラスケースには、十世紀から十一世紀の五代・北宋の時代とされる青磁草花文碗の破片がならべられている。その模様は、派手でない唐草であったり、花びらを象ったものであったり、まちまちである。色もオリーブ色、茶褐色、灰色のニュアンスの強いものまで、様々であった。これらも「秘色」というのだろうか。末摘花の使っていた「秘色」には、草花の文様がついていたのだろうか、思いは様々にふくらむ。しかし、鴻臚館跡の展示館には、簡単なパンフレットがあるだけで、図録や本の類も置いていない。そこには、わずかに閲覧用に発掘調査の報告書が置いてあるだけなのであった。

諦めた私は、そのまま博多市立博物館に赴くことにした。そこで、図録や本の類も購入できると思ったのである。しかし、博多市立博物館のミュージーアム・ショップにも、その類は置いてなかった。常設展示コーナーでは、やはり青磁花文碗が展示され(これが本物)、絵はがきを購入することはできたのだが。そこから、隣りの博多市立総合図書館にも立ち寄り、少しの時間、大宰府関係の文献に目を通して、その日の旅程は終わった。

翌日は、まず西鉄とタクシーを乗り継いで福岡埋蔵文化センターに行き、折よく開催中の「鴻臚館の時代」の展示を見た。鴻臚館中心の展示ではなく、鴻臚館周辺の地区で発掘された遺品中心の展示であり、そこでも越州窯の青磁の展示品は何点もあった。古いものでは、九世紀中頃や後半の水注や大きな壺も徳永遺跡群から出土している。とくに博多遺跡群とよばれる博多駅周辺での発掘での発見品には、鴻臚館の展示も重なる点も多かった。この博多遺跡群は、『日本三代実録』に記された鴻臚中嶋館ではなかったかという説がある(注3)。また、日本に定住しはじめた渡来商人たちの居住区で、一一〇〇年前後に交易の中心が鴻臚館からこの辺りに移動したという説もある(注4)。いずれにしても、博多遺跡群の越州窯青磁は、他の遺跡群に比べて、時代も下がり、釉薬もかかった高級感のあるものが多い。その他に緑釉陶器、新羅焼、高麗青磁の出土品が飾られ、鴻臚館跡の展示との重なりを感じさせる。それにしても、そこでも目を惹かれたは、越州窯青磁とその影響を受けた高麗青磁との色味の違いである。青みがかった高麗青磁の出土品に対して、越州窯青磁は茶味がかった緑色が多い。

そこから太宰府市文化ふれあい館の松川さんを尋ねて、紹介された調査研究室の城戸さんに、高麗青磁と越州窯青磁の色味の違いの原因を尋ねてみた。すると、土の差や窯の温度、そして何よりも、中国と朝鮮の嗜好の差のようなものが出るのではないか、という答えだった。

さて、松川さんの運転する車で大宰府展示館を見て回り、実際、使用されていた越州窯青磁を何点か見ることができた。さらに、大宰府の政庁跡の周囲二キロが官人たちの住居であったこと、そして筑前守も大宰府の役人がしばしば兼任しており、やはり政庁跡近くに住まいを構えていたことを教えていただく。これは、私には衝撃的な話であった。というのも、紫式部の夫宣孝は、結婚以前の九九〇年から九九五年位まで筑前守を勤めていたからである。宣孝が大宰府の地に、そして官僚機構や交易事情に通じていたということが、『源氏物語』の世界にどれだけ影響を与えたことであろうか(注5)。

やがて、そのまま松川さんの案内で、九州歴史資料館へとおもむく。大宰府周辺の発掘調査の出土品が、時代別に並べられている中、やはり越州窯青磁をはじめ陶器のならべられたコーナーがあり、そこには、「碗・杯・鉢・皿・水注・壺・四耳壺・唾壺」が多いとの解説が添えられ、また越州窯青磁は、中国からエジプトまで輸出され、大宰府および博多から出土する数量は世界一とあった。それにしても、福岡の二日目、埋蔵文化センター、政庁跡近くの大宰府展示館、そして九州歴史資料館とめぐる中で、思いがけず越州窯青磁を沢山目にする機会を得た。越州窯青磁は鴻臚館跡の発掘品だけ、と東京で予想していたことは、みごとに裏切られる結果になった。先の出川氏の解説には、「秘色」は、越州窯青磁の美称となって広まったとあるが、だとしても「秘色」の青磁とは、これほどありふれたものであったのか。ならばサントリー美術館で、法門寺の地下から出た「秘色」が専門家の間でこれほどセンセーショナルな扱いを受ける理由とは何なのだろうか。その疑問を晴らすためにも、私は残された時間を利用して、博多の福岡城跡の鴻臚館跡にとんぼ帰りすることにした。

一つには松川さんから鴻臚館跡には、展示館ばかりでなく、発掘調査事務所があり、そこで展示していない出土品を見せて貰えると聞いたからである。展示館の中をもう一度のぞいた後、私は勇を奮って発掘調査事務所を訪れてみた。事務所では夕方近くの何の紹介もない訪問に驚いた様子だったが、『源氏物語』の研究者で、「秘色」の青磁を見に来たこと、また鴻臚館跡の越州窯青磁で、草花文の模様は様々あるが、専門的には何という名称であるのか、今回の調査旅行で越州窯青磁の出土品を鴻臚館跡ばかりでなく、たくさん見たが、それをすべて「秘色」というのかどうか、といったことを調査担当課長の塩屋さんや主任の池崎さんを前に尋ねてみた。

すると池崎さんは、展示品の青磁花文碗は、「秘色」とはいえないもっと大衆的なもので、オリーブ色の陶磁器の水注の一片を取り出して、「これこそ秘色というべきものでしょう」とのことである。私は、他の越州窯青磁とどう違うのですか、と重ねて尋ねた。池崎さんの答えは、色合いや釉薬や焼き具合など、越州窯青磁のなかでも、きわめて優品であり、こうした品はごく一部であること、またこうした品は鴻臚館や、大宰府周辺で日常、使われたものではなく、最高の唐物として都に運ばれるべきものが、破損や火事にあったりして叶わなかった品というものであった。そのオリーブ色の陶磁器の水注も、かすかながら火災にあって酸化している色だという。私は、サントリー美術館でガラス越しにみた憧れの「秘色」を、いま手にすることができた呆気なさと、カメラを持っていなかったことを後悔しながら、その破片をまじまじと見つめた。饗応のための食器として高級品が使われたこともあっただろうし、もっと粗悪品の陶磁器は、商品にならず、火災などの災禍を受けたという説もあるにはあるのだが。

いずれにしても、輸入された越州窯青磁の時期を区切ってみたところで、すべてを「秘色」というわけではないことは確かなようである。九世紀後半から増加した越州窯青磁の輸入は、十世紀には最高潮に達したが、十一世紀後半に入ると、越州窯も衰え、輸入量は急速に減ってしまう。末摘花の使っていたものは、十世紀の輸入品という設定だろうが、かといって十世紀の越州窯青磁がすべて「秘色」というわけではなく、その優品を指すのであろう。先の『宇津保物語』「藤原君」の例でも、主の真菅が「秘色」が使い、娘はそれより下の「かなまり」(金椀)を使っていることからも、輸入された越州窯青磁のなかでも高級品であることは想像される。村上朝で『李部王記』でも、宮中の儀式に使われるような極上品であり、官貿易の取得品としての「秘色」の可能性が高い。

それでは、末摘花の邸で使っていた「秘色やうなる唐土のものなれど」が、越州窯青磁の最高級品として、それを父の常陸宮はどのようにして入手したのか。大弐からの献上品か、はたまた買い上げたのか、それとも博多地区の商人との私貿易なのか、そのルートの可能性を考えるには、鴻臚館や博多地区での貿易の実態をさらに細やかにたどらねばならない。しかし、「紫」の寄稿としては、すでに紙幅を費やし過ぎてもいる。マイブーム「秘色」探訪の旅に、『源氏物語』と交易史の奥深い接点の一端をかいま見たところで、ひとまず擱筆することにしたい。

注1 その後、七月の初めに伊井氏から「物語文学の唐物と中国の交流」(「日本文化研究」二〇〇〇・二)と題された論考の恵送に与かった。

注2 現在の地名は太宰府だが、古代では、大宰府と表記するのが正しい。

注3 平野邦雄「鴻臚館とは何か」(「鴻都」4号、一九九〇春)

注4 亀井明徳「鴻臚館から博多へ」(「鴻都」8号、一九九一春)

注5 東京に戻った私は、塚原明弘「唐の紙・大津・瑠璃君考」(『論叢源氏物語2−歴史との往還』新典社、二〇〇〇)や、そこで塚原氏が引用した右田文美「大宰少弐考」(「東京女子大学史論」31、一九七八)により、さらに筑前守時代の宣孝が大宰少弐も兼官していたという刮目すべき事実を知ることになる。

以 上

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