-生い立ちから中学校まで- 河添房江

私が生まれたのは、国鉄(いまはJR)の西千葉駅の南に広がる新興住宅地の家であった。父は駅近くにあった国立大学の中にある研究所の講師として勤めていた。昼には、よく父が自転車で家に戻って、昼食を食べてとんぼ返りするという、そんな距離の近さだった。

その家は、私が物心ついた頃でも、家の前は舗装されておらず、タクシーで家の前を通ると、ぴょんぴょんバウンドするような牧歌的な場所にあった。日あたりの良い家で、庭には母が好きだったパンジーをはじめとする四季の花々や柿の木が植えられ、白い木製のブランコが置かれていた。三つ違いの姉と私は、そのブランコに乗ったり、庭や隣の空き地から、クローバーをはじめ、さまざまな草花を摘んで、おままごとに熱中した。雨が降ったり、夕方になると、おままごとは庭先に張り出したサン・ルームに移るのである。板張りの床に屋根はビニールトタンという簡単な作りだったが、広々として、いつでも明るく、姉妹にとっては最高の遊び場だった。

また庭には割に大きなぶどう棚があり、その下は砂場になっていたが、それは後に池になった。金魚を放って、私たち姉妹が楽しめるように、との父の配慮だったが、その池から思いがけない<物語>が生まれることも多かった。お隣で飼っていたアヒルたちが水浴びに越境してきたこともあった。

ある朝、「キャンキャン」というけたたましい音で、庭に出ると、池で子犬が溺れかかっていた。慌てて母がスコップて子犬を掬うと、それにちょうど納まる位の大きさだった。野良犬だったらしく、私たちが餌を与えると、そのまま居ついてしまった。

雑種で全体の色は茶色だが、鼻から目にかけて黒いのが、特徴だったので、名前は「クロ」となった。耳が垂れている可愛い犬だったが、餌をよく食べ、あっという間に大きくなってしまい、騙されたような気もした。クロとの散歩が姉と私の日課で、西千葉の駅の先の丘までも散歩に行くこともあった。

また、家の池にがま蛙が、たくさん卵を産み、オタマジャクシに孵ってしまったこともあった。池を覗くと、金魚はどこかに駆逐されて、黒いオタマジャクシだけが、わがもの顔に泳ぎまわっている。それ以来、細長いゼリー状に黒い点が規則正しく入っている卵の紐を池で見つける度に、それを熊手のようなもので掬い、大きな瓶に入れて、蓋をしていたが、蓋をとると小さな蛙に孵っていて、慌てて蓋を閉めたという記憶もある。

とにかく何から何まで牧歌的な日々のなかで、私はひたすらのんびりした性格に育った。ある時、新聞で柴田翔氏のエッセイを読んでいて、はたと膝を打ったことがある。そのエッセイに拠れば、柴田氏の幼年時代は夢見がちで、兄の一を聞いて十を知る利発さに対して、自分は十を聞いて一を知るタイプだったという。その関係は、そのまま、私たち姉妹に当てはまるものかもしれない。姉は、容貌・知能・健康・女の子らしさと、親なら娘に望むであろうものを全て満たすような存在だった。それに比して、私は病弱で、万事遅く手で、両親にしても何の期待もかけようもない存在だった。諦めが早く、自己主張しない点では、手のかからない子供でもあった。

ただ想像力が良くいえば豊かというか、悪くいえば過敏なところがあって、父が仕事場から白衣を着て戻ると、医者と思って近づかなかったり、結婚式でモーニングを着ると、「お父ちゃまは、音楽家なの」と真顔で尋ねたりした。小学校に入る時も、あの子はいつも考え事をしながら歩いているので、車にぶつかるのではないか、と両親は心配して、当時も珍しかった黄色の革のランドセルを求めた位である。皆と同じ赤いランドセルを背負えない気恥ずかしさを感じながら、私は通学したものである。

母は、女の子には早くから情操教育が大事とばかり、姉にピアノと絵を習わせ、その送り迎えに母と共に付き合っていた私も、幼稚園の年中組の頃から同じように習わされる羽目になった。いまでこそ当たり前の話だが、その当時、千葉で年中組からお稽古事をする子供は少なかったと思う。ところが、理系の父の血を多く引いたらしい私の方は、いっこうに上達しなかった。特にピアノの発表会が苦手中の苦手で、その日になると、いつも気分が悪くなり、出番を交替してもらうこともしばしばであった。

後年、はじめて大きな学会で発表する時、その日が近づくにつれ、何か心臓がしめ付けられるような息苦しさを感じたが、また一方でその気分をどこかで味わったことがあるような不思議な思いがした。かすかな記憶を手繰りよせてみると、そのピアノの発表会の時の極度に緊張した気分であったことに気づいた。二十年以上、時が経っても、人間はあんがい進歩しないものであると、その時は苦笑し、それでかえって気分もほぐれたのである。

それほど、苦手で苦痛であったピアノと、別れる日は意外に早くやってきた。西千葉での浮世離れした生活も、父の職場の異動によって、ピリオドが打たれたからである。私が小学校の三年の二学期に、一家で世田谷区の東松原(井の頭線)に引っ越した。犬のクロも一緒だった。父は六本木の研究所に、姉は四谷の女子校に通い、私は地元の小学校に転校した。母ももう東京でピアノを習うようにとは言わなかった。

さて、私が転校した公立の小学校は、一年の時からクラス替えもなく来たクラスで、余所者には馴染みにくい雰囲気だった。早い話、私はいじめにあったのである。一人の女の子が私を目の仇にして、お弁当のおかずを取る、拒むと手をつねるといった、一つ一つは小さな事ながら、気の休まらない日々が続いた。

時には母が怒って担任の先生に訴えることもあったが、その側で私は無力感にさいなまれていた。そんな事をしても、何の解決にもならないことを知っていたからである。後年、学校でのいじめが社会問題になった時、いじめられる側の心理がよくわかると同時に、いじめが高学年化している点と、集団から個へのいじめになっている点で、私の時代より、よほど深刻な事態と感じた。子供にとって、学校の人間関係や価値観がすべてである時期のいじめほど、つらいものはない。

私は、千葉の牧歌的時代から、生きていく現実の厳しさというものにはじめて開眼したわけだが、さて、その時どうしたか。その時、最も慰めになったのは、読書であった。しかも、父の書斎にあった大人向けの歴史小説を読むことが、大きな救いになった。山岡荘八や吉川英治や海音寺潮五郎といった人々の著作をその時から中学時代を通して、耽読することになる。

特に山岡荘八の『徳川家康』は、後に全26巻となるが、まだ18巻くらいしか出ていない時だったと思う。竹千代(のちの家康)が八歳で織田家の人質となり、やがて今川家の人質になり艱難辛苦をきわめるという筋に、十歳の私は自分を重ねて、いたく共感したのである。十数冊の本をそれぞれ何十回と読んだことか。つい最近、毎日新聞の日曜版で知ったことだか、『徳川家康』は、新興勢力の織田家にソ連を、京文化に憧れる今川家にアメリカを、そして三河の徳川家に日本を重ねて、あの高度成長期にベストセラーになったという。とはいえ、そんなことは当時、知る由もない。『徳川家康』を読むことによって、ひたすら癒され、それをきっかけにいわゆる戦国物を次々に読破していった。NHKの大河ドラマのファンになったの、この頃からである。私は、人生とは何かを半ば達観してしまい、幼稚な子供から精神だけは大人びた子供へと、急速に変わっていった。小学校は相変わらず楽しくなかったが、それもさほど苦にならなくなった。

一方、母は公立学校への不信を深めて、私の中学受験に備えて、日進というその頃大手の受験塾に、五年生の時から通わせた。週一度、日曜日だけの塾で、当時は受験人口も少なく、受験勉強といっても、そんなものだったのである。やがて、春菜ちゃん事件で少し有名になった学芸大附属の竹早中に私は入学した。これが、学芸大学との長い付き合いの一歩となろうとは、当時は夢にも思わなかったが。

ちなみに小学校の六年生の二学期に、家は東松原から、同じ沿線の駒場東大前に引っ越していた。井の頭線の駒場と東大前の駅が一つになるかならないか、ぐらいの時期である。私はそこから、井の頭線で渋谷に出て、山手線で大塚駅まで行き、さらに都電で附属竹早中に通った。

学芸大附属は、現在でこそ受験校のイメージが強いが、竹早中が特にそうだったのか、中に入ってみると、のんびりとしていたし、また体力強化にも力を入れていて、文武両道というべきか、決して勉強ばかりを強いられる環境ではなかった。のんびりとした校風は私の体質にまさに合っていたし、それぞれの個性を容認してくれる雰囲気だったので、内気で本の虫のような私にもすぐ似たような趣味をもつ親友ができた。

内弁慶であっても、もともと家では冗談をよく言っていた私は、さらに明るくなり、父が家に連れてくる研究室の院生達からも可愛がられた。父の研究室の恒例の旅行には、必ず「下のお嬢さんもぜひ」と声がかかった。そこで私は喜んで出掛けていって、トランプや麻雀の相手をしてもらっていた。

さて、中学時代も、相変わらず歴史小説を読み続けたが、右翼と知って山岡荘八熱は急速に冷めていった。かわって吉川英治全集を愛読し、特に『三国志』がお気に入りで、これも繰り返して読んだ。また、歴史小説ばかりでなく、日本の古典文学にも興味をもって、与謝野源氏や、その他の多くの古典、枕草子や徒然草はもとより、後に卒論のテーマとなった夜の寝覚や浜松中納言物語といった古典まで、すべて現代語訳で読破し、後に高校の古文の時間に教室ではじめて目にした文章はまったく無かったといっても過言ではない。そして、その頃は、王朝文学の九重の雲居を照らす月よりも、中世文学の草庵を照らす月の方が好きだったことを告白しておく。だからといって、将来、大学で古典文学を専攻しようとは思わなかったし、歴史学者になりたいという希望は、中学時代を通じて、いよいよ強くなるばかりだった。

「蛙の子は蛙」という諺があるが、私がいつから研究者の道を目指そうとしたか、思い返してみても定かではない。本に囲まれた環境で一生を過ごしたいと思い始めて、ほかに選択肢を知らなかったというべきか。父は、家ではいっさい仕事をしない代わりに、日曜日といえども、研究室に通い、実験をし、また原稿も書いていた。西千葉にいる頃は、家で原稿を書いていたので、その時は母もずいぶん気を遣っていた。父にお茶を運ぶ役目は、母ではなく、必ず姉か私だった。子供だったら、少しは父が愛想よく迎えるだろうという母の考えだったようだが。とはいえ、お盆のお茶をこぼさないように、注意しながら書斎にお茶を運んでも、煙草のもうもうとした煙のなか、その時ばかりは不機嫌で眼光鋭い父に睨まれた記憶ばかりがある。後年、自分が原稿を書く生活を始めてみると、当時の父の気持ちもよく理解できたが、もし、そうした研究者の生な姿を、東京に移っても日常見せつけられていたら、私の志望も違うものになっていたかもしれない。

ところで、当時の附属竹早中は、なぜか都立竹早高校と同居するという不思議な状況にあった。三階建ての校舎は、一階と二階の半分が都立竹早高校、二階の残りと三階が附属竹早中の教室となっていた。校庭で遊ぶのも一緒なので、中学の一年の頃は、体の大きな高校生たちに圧倒され、小さくなって遊んだものである。

ちなみに、私が昭和44年3月に附属竹早中を卒業して、世田谷の附属高に移ったその4月、同い年の著名人である小森陽一氏が、同じ校舎に都立竹早高校の一年生として、入れ違いで進学してきたのである。その事実を、私は『総力討論 こころ』(翰林書房)の小森氏の巻頭の文章で知ったのだが、97年にアメリカの学会で小森氏と一緒になった時、その事を告げると、彼は懐かしそうに驚いていた。しかし、彼の文章で驚いたのは、都立竹早高校にその秋に高校紛争が起こり、ロックアウトされ、一年半も正常な授業が行われなかったという点である。あの附属中と同居という特殊な空間で、どうやってロックアウトが可能であったのか。そして私の附属高校時代も、まさに高校紛争と共に始まったのである。