フェアリーテイル
ぱたぱたぱた…と、可愛らしい足音の子供が走る。
子供が活動するには早すぎる時間である為に屋敷の者の影すら見当たらない。
天井の高い、長い廊下を探検し尽くした足が一目散に目的の場所めがけて動いていた。
父親そっくりの艶やかな黒髪に、陽光に映える大きな翡翠の目。
こっそり部屋を抜け出してきたのだろう、シャツの裾がサッシュからはみ出ている。
上等な絹を使った靴下も片方がずり落ちている。
子供は…マルチェロは走る。
その後己にどんな災難が降りかかるかも知らずに、期待に胸を膨らませながら。
普段近づくことを許されない場所…。
屋敷の跡取りである彼が、たった一箇所だけ、母に「絶対に近づいてはならない」と堅く言いつけられたその場所に何があるのか、おしゃべりな女中が教えてくれた。
そこには『奥様』が閉じこもっていて、滅多に人を近づけないのだ。
夫であるこの地方の領主すら拒んだ時期があったという。
『奥様』の顔は知っている。
玄関ホールに大きな肖像画が飾ってあるからだ。
さる王族の血が流れているらしい、名家の出の『奥様』は子供の目から見ても女神のようにたいそう美しく、一度でいいから直接お会いしてみたかった。
しかし、『妾の子』である自分が会うのは難しく、庭から木を昇って部屋に侵入しようと試みたが、庭師に見つかって敢え無く失敗。
そのときチラリとだけ、窓から顔をのぞかせた『奥様』は、確かに美しかった。
真昼の太陽の光に負けないほど輝く銀の髪に、透き通るように薄い青の目。
巧みの腕で造形を施されたかのように、此の世のものとは思えぬほどに美しかった。
ただ、肖像画と違ったのは、少しこけた頬と、薄暗い部屋で蝋のように白い顔には翳りが差していて、そのことが彼の心に引っかかった。
それは『奥様』に『子供が出来た』ことを耳にしてからは、より一層彼の心を支配した。
それがどういうことであるか、聡い彼は理解していたがやはり子供。
母は酷く怯えて彼に縋り泣き叫んだし、屋敷の者が密かに陰口を叩いているのも解かった。
それでも、マルチェロは保身よりも好奇心の誘惑のほうが強かったのだ。
赤子が生まれた翌朝、一目見ようと屋敷の者が動き出す前の早朝に、こっそりと忍び込んだ。
廊下の突き当たりの一番奥、金の飾りのついた取っ手を、音を立てないよう捻ってそっと身体を滑らせた。
普段から人を寄せ付けない『奥様』の部屋には不寝番の女中もいない。
殆ど使われた形跡のないチェストの脇を通り抜け、寝室の扉を開く。
カーテンが閉まったままで暗かった。
隙間から差し込んだ陽光がなければ、暗闇に慣れるまでに時間が掛かっただろう。
そっと、そっと扉を開いた。
軋む音さえ殺して、一歩足を踏み入れたとき、
「誰?」
マルチェロは驚いた。
その声は高く細く、小鳥のさえずりのように心地良くマルチェロの耳を穿ったが、突然のことでマルチェロは吃驚して扉の影に身を隠した。
ベッドの辺りがもぞもぞと動く。
そして、暗がりの中で一目だけでもと願った女の人が、ゆっくりと起き上がったのだ。
「誰です?そこにいるのは」
肖像画のように派手な装いはないものの、その方がかえって神秘的な雰囲気を増して何倍も美しい。
『奥様』に相応しく厳しい声音で咎められ、彼の身は竦んで動かなくなってしまった。
美しい人が厳しい時はこんなにも恐ろしいのだと、誰も教えてくれなかった。
ただ近づくなとしか言われていなかったし、自分と『奥様』の関係がなんであるか知っていたから、『奥様』の人となりなんて知らない。
母にも自分にも、厳しい罰が与えられるに違いない。
せめて母のことだけは弁明しなくてはと、マルチェロは意を決して進み出た。
「ごめんなさい…奥様、僕…」
マルチェロの姿を認識した途端、彼女は目を見開いてひどく驚いた。
その顔ですら賛辞に値するほど美しく、子供心ながらに女神の化身を見た。
「あなた、マルチェロ?」
こくんと、マルチェロは頷いた。
密かに焦がれていた女神の如き美貌が自分の名を知っていることに――無論、知っていて当然なのだが――嬉しさがこみ上げ、マルチェロは頬を染めた。
すると『奥様』は美しく微笑まれ、手招きをして彼を呼んだ。
彼女の顔が良く見える位置まで来ると、『奥様』は「カーテンを開けてくださる?」と、『妾の子』に『お願い』をした。
「あの…奥様?」
戸惑いつつも言われるがままにカーテンを開け放つと、眩しい朝の光が入り込んで室内を明るく照らした。
豪華な調度品。
クローゼットも、チェストも、カウチも、テーブルも、花瓶や鏡に至るまで女中だった母の部屋とは比べ物にならないほど、手が込んだ家具が並べられている。
ミモザを彫りこんだ天蓋付きのベッドの上、彼女はマルチェロを手招きしている。
「いらっしゃい、マルチェロ」
「はい」
おずおずとベッドに背を預けたままの彼女に歩み寄る。
すると、彼女はベッドサイドの、マルチェロとは反対側を指差した。
「会いにきたのでしょう?」
指差した先には、豪華なレースを何重にも重ねたベビーベッド。
そちらへ近づき身を乗り出して中をのぞけば、むつきに包れた皺だらけの猿の子供のような顔。
昨夜生まれたばかりの、半分だけ血の繋がった、兄弟。
目なのか皺なのかもわからぬほど浮腫んだ顔は空気を入れすぎた風船のように膨らんで、拳を振り上げているような格好の小さな両手も皺とむくみばかり目立って、とてもこの醜いものがあの美しい人から生まれたなんて想像も出来なかった。
不思議と嫌な感想ばかり思いつくものだが、嫌いにはならなかった。
銀色の産毛に覆われた頭をそっと撫でてみると柔らかく、赤子はマルチェロの手を追い払おうとしているのか右手を緩慢に振り上げた。
開かぬのではないかと思うほどきつく握り締めていた手が開かれ、マルチェロの中指を掴む。
彼はその小さなこと、体温の高いことに感嘆の溜息を洩らした。
「わぁ!奥様、この子僕の指を握りました」
「そう。きっとあなたが兄だということが解かっているのだわ」
兄…それはマルチェロの中で特別な響を伴った。
屋敷の中では自分より年若いものなどいなかった。
自分の下にいる者。
期待感でワクワクしたのと同時に、自分の立場を思い出して彼は眉根を顰めた。
『奥様』の子供ということは、この家の、この辺り一体を治める領主の『正当なる跡取り』なのだと。
元は使用人であった母から生まれた自分は、もうその資格を失ったのだと。
「マルチェロ」
耳を穿つ銀の声。
「あなたに選択を授けましょう」
微笑みも声も柔らかいのに、薄い青の瞳だけが厳しさを秘めている。
「あなたかこの子か、どちらにしますか?」
あなたが選びなさいと、『奥様』は告げた。
その意味がなんなのか、マルチェロにはさっぱりわからなかった。
けして彼は頭の悪い子供ではなかったし、逆に砂地が水を吸い込むように様々な物事を恐るべき速さで覚えていった。
それに、応用が利き、一つ覚えれば十の物事を理解した。
出自さえなければ最高に出来のいい子供だったのだが、それにも増して『奥様』の問いかけは謎めいていた。
赤子から指を離してもらい、考えあぐねて『奥様』に向き直った。
すると、彼女は傍らのチェストから白い紙の包みを取り出した。
手の平にすっぽりと収まる、小さくて平たいそれがなんなのか、彼には解からない。
「これを、あなたが飲むか、この子が飲むか」
「それはなんですか?」
子供の質問に『奥様』は寂しげな微笑を浮かべた。
「あなたかこの子か、どちらかが幸せになれる薬です」
マルチェロは首を捻った。
そんな都合のいい薬が存在するのだろうか?
薬草の図鑑にはそんなもの載っていなかったし、どんな文献を見ても――とはいえ屋敷の蔵書であるからたかが知れているが――そんな薬の存在など見たこともなければ聞いたこともない。
でももし『奥様』の言うことが本当でどちらか一人が幸せになれるのなら。
これから不幸が待っているであろう己か、無垢で幼い赤子か。
ぐるぐる悩んでいると、『奥様』は鈴を震わすように喉を鳴らして笑った。
「決めかねているようですね?」
「あ…はい……」
「ではそのようにしましょう」
「は?」
「マルチェロ、これはあなたがお持ちなさい」
彼女は白い指で紙片を摘み上げると、麻で出来た小さな巾着に入れてマルチェロに渡した。
「いつか、あなたの役に立つでしょう」
そしてマルチェロを引き寄せてきつく抱きしめた。
「マルチェロ…可哀想な子。あなたが私の子であればどんなに良かったでしょう。あなたはけして悪くないのに」
「奥様…」
「辛いことがあったら私を恨みなさい。哀しいことがあったら私を憎みなさい」
どうしてこんなに優しい人を恨めるのだろう、憎めるのだろう?
この優しさは嘘かもしれない…。
嘘でもいい。
嘘の優しさに包まれて生きて行こう。
「これからあなたをたくさんの不幸が襲うでしょう。私はなんの力もなく、あなたを助けてあげることすらできない」
強くおなりなさい…そう言って彼女はもう一度マルチェロを抱きしめた。
あの後どうやって部屋に戻ったか記憶が定かではないが、その日の昼頃、屋敷を追い出されて『今』に至る。
『奥様』から手渡された白い紙片。
あれは確かに、どちらかが幸せになれる薬であった。
正確には、『どちらかしか幸せになれない薬』であったが。
彼女が何を意図していたのかは知らない。
ともすれば産んだばかりの我が子を殺そうとしていたのだから、狂っていたのかもしれない。
しかし今になって、選択しなかった自分が悔やまれる。
どちらかを選んでいれば…
「私が死んだか…あれが死んだか…」
【寒凪 直 様】 『HOLY NIGHT
BLOOM』
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