人種と民族
果たして違うのか?

 在日韓国・朝鮮人差別を人種差別という人がいる。それに対して、それはおかしい、人種差別というのは、アメリカにおける黒人差別のようなものを言うのであって、日本人と韓国・朝鮮人が同じ人種に属する以上、民族差別というべきだという批判がある。そして、人種とは生物学的な概念であり、民族とは文化的、歴史的概念だとして区別されるという考え方がある。一見もっともな考え方であり、私自身もそのように考えていた時期があった。

 しかし、この考え方は、二つの点でおかしい。一点目は、では、差別する側に、相手が異人種であるときと異民族であるときとで差別する心に何か違いがあるか、という点である。サルトルは、ユダヤ人問題などなくて、あるのは非ユダヤ人問題だといったことがあるが、これは、差別というのは、差別する側のこころのゆがみの問題であるという意味としてとらえたい。心のゆがみとしての差別とは、歴史的に形成されたグループ間の力関係の不均衡に乗じて、社会的に、また心理的に優位を確保しようとする卑怯さであると私は理解している。それは、差別する側が人間として成長していく機会を奪うという意味で、差別される側の問題である以上に差別する側の問題である。差別が差別する側にとって他人事ではないというのはこの意味である。このような心のゆがみがある限り、差別の矛先は肌や言葉の違いに関わりなく、社会的に不利な条件に置かれている者がいれば誰にでも向けられるものなのである。部落差別などはその典型だといえよう。

 二点目として、人種というものはそんなに固定的なものなのだろうかということである。今日、遺伝子の研究が進めば進むほど、人種間の違いはきわめてわずかなものだということが明らかになってきている。地球上のすべての人間はわずか20万年ほど前にアフリカ大陸に住んでいたたった一人の女性の子孫であるという作業仮説もうちたてられている。そして現実に、人種間の混交の進んでいる地域では、既存のものさしでは人種が特定できない人がたくさんいる。地球上の任意の男女がともに子供を産み、無限に子孫をつくっていける以上、人種という言葉に絶対的な意味はない。

 社会をつくって生活している人間は、たがいの顔に敏感である。紙幣にどこの国でも肖像画を用いるのは、偽札がでたときに、わずかな違いも認識しやすいからだという。しかし、それは人間だからであり、チンパンジーはチンパンジーの個体を認識するのに比べ、人間個々人を認識するのは得意ではないという。生物学的には大した違いではない人種差を、人類が過大に考えてきたのは個々人の見かけの違いに敏感であるためだが、見かけのちがいが差別の唯一の原因だとはとてもいえない。 

問題は生活水準の違いであろうと思う。ヨーロッパ人が世界中に進出していったとき、生活水準の極端な違いに驚き、それを見かけの違いと結びつけたのが人種差別の起源だと言えるだろう。生活水準の違いは、情報量の蓄積の違いにすぎないのだから、この結びつけ方は短絡以外の何物でもない。しかし、さまざまな見かけの人がいても、同じ生活水準でまじりあっていたならば、子供は自然に仲良くなるし、そのまま大人になっていくはずである。アメリカの黒人作家リチャード・ライトは、その自伝的小説「ブラック・ボーイ」の中で、祖母が外見では白人と見分けのつかない人だったことなどから、小さい頃には世の中には白い人も黒い人もいるものだと思っていたという。それだけに、一つの家族の中にすらある肌の色の違いなどが、社会的には絶対的な違いをもたらすということを知ったときの衝撃は大きかったと書いている。差別を教えるのは社会であり、それを動かしている大人たちなのである。

 日本の部落差別の起源については、さまざまな説があるが、人種起源論は今日では完全に否定されている。実際、部落差別は同質性の高い日本社会だからこそ生まれたものであろう。同じように同質性の高い朝鮮半島において、同じような差別があったことは、この問題に関心の高い人の間ではよく知られるようになった。しかし、ここから、同じ日本人だから差別してはいけないという結論を出すのなら、その裏返しとして日本人でなければ差別してもいいという論理が出てきてしまう。部落差別の場合も、差別が生んだ劣悪な生活条件が差別を永続させてきたと言える。解放運動が実体的差別と心理的差別を不可分のものとして同時になくそうとするのは当然のことと言えよう。

 人種と異なり、男と女の違いというものには、はっきりした境界がある。しかし、最近では、生物学的違い(セックス)と社会的違い(ジェンダー)とは別のものだという認識がひろまっている。人種差別とか民族差別とか身分差別というものには、絶対的な生物学的違いはなく、社会的違いしかない。その社会的違いを表現する適当な日本語が今はない。少数派を意味するマイノリティではあまりに漠然とした印象を受ける。社会的に違うものとされた集団という意味で「人種」という言葉を用いる人もいるが、人種という言葉には、悪い意味での手垢がつきすぎていて、広く用いるには適当ではないので、何らかの新しい言葉が必要であるように思う。

 日本における部落差別も韓国・朝鮮人差別も、差別する側の心の中身からいえば違いはない。しかし、韓国・朝鮮人は外国人であり、被差別部落の人は日本人である。差別される側の主体としては、運動のありようもそれぞれに異なってくる。問題は差別する側に置かれた人間がどうするかであるが、問題から目をそむけて知らん顔をしたり、変な同情をしたりすることが解決につながらないことは言うまでもない。自分の心の中に深くおもりをおろし、差別が自分自身をそこなっていないかを日常的に検証し、自分の生き方に生かしていくことが求められているのだと思う。

この問題について、示唆に富むサイトがこちらにあります。