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茶 髪 考
欧米人が日本に来て驚くことの一つは、「日本人ばっかり」ということである。そのような印象を強めるのは、日本人を含め、東洋人のすべてが年寄りを除いてみな黒髪であるからである。しかし、最近はそうでもなくなった。言うまでもなく茶髪の流行のためである。「茶髪」と書いて「チャパツ」と読む。ふつう「髪」の字をP音で読み始めるのは、「危機一髪」や「散髪」のように、促音(小さい「っ」)か撥音(ん)のあとに限られているのだから、この読み方は変則的である。読み方が変則的であることは、この流行が短い期間にあらわれた新しい異様なものであることを示している。アメリカの新聞では茶髪はorange
hairと書かれる。茶髪は、彼らの目にも異様に映るらしい。
「茶髪」という言葉は、茶髪の青年がかなり増えてからできたものである。実体が一般的になって初めて言葉ができるという典型である。はじめのころ、茶髪にするのは、おおむね「ヤンキー」に限られていた。「ヤンキー」とは、「アメリカ人」のことではなく、四国の成人式で騒いだような若者たちのことである。「ヤンキー」の増加に悩む中学や高校の校則には、よく「染色」「脱色」と表現され、禁止されていた。「茶髪」という語がその実体とともに普及した今でも、文言はそのままである。私が今打っているソフトでも「ちゃぱつ→茶髪」は一発で変換されない。つまりそれだけ新しい現象だということである。
最初に茶髪にした「ヤンキー」たちの意図は「目立つこと」にあった。欧米の国々では、白人の中だけでも、金髪、栗色の髪、赤毛、黒髪などさまざまな髪の色の人がいる。黒髪ばかりの日本人の中で、茶髪はたしかによく目立つ。しかし、今ほど普及してしまったら、もう目立つものではなくなった。町を歩くと、茶髪というより金髪に近いものから、濃淡さまざまな茶髪が闊歩している。あまりに目立つ色に染めているのは、やはり今も「ヤンキー」に限られるが、おとなしい色の茶髪にしているのは、ごく普通の若者である。個性を主張するとかいう意味では、茶髪にはもう何の意味もない。目立つとしても、単にある商品を買えば誰にでもできることなど、個性の主張の名に価するとは私は思わない。
私には茶髪は美しいとは思えない。自然なままならもっときれいなのにと思うような女性に出会うことも多い。私が茶髪になじめないのは、もう若くないせいもあるからかも知れない。「その子はたち櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな」という与謝野晶子の歌にもあるように、真っ黒な髪は若さの象徴として、賞美されてきた。そのせっかくの若さの象徴を、若者がさまざまな染料で塗り隠してしまうのは、彼らが若さを財産と思っていないからに違いない。なんとももったいないという気持ちがする。それに、環境の悪化が憂慮される現代にあって、不要不急の化学物質は少なければすくないほどよい。
自然の髪が最も美しいときにそれを染料で塗り隠し、それを卒業したときには、盛りをすぎている。しかも、染料の副作用でいっそうパサパサ髪になるのでは、余りにも馬鹿馬鹿しい。乾燥しやすく、腰の弱い髪になることは確かで、脱毛が早くなる可能性が高い。成分が身体の内部に浸透することで、それ以上に健康への害があるという話も聞く。これは確認されたわけではないが、染めないほうが安全であることは確かである。若者が茶髪にしたがるのは、上からの締め付けへの反発という面もある。しかし、この反発はあまりにも芸がなく、単なる裏返しに過ぎない。金を出してまでせっかくの若さを覆い隠すこともないと思う。しかし、最近茶髪は、若者だけのものではなくなった。学校では、茶髪にした生徒の親に注意のために来てもらうと、母親自身が茶髪ということが増え、苦慮するということになる。
中年女性が茶髪にするのは、ある程度は理解できる。東洋人の髪も歳をとって色素が少なくなってくると、一見黄色く見えることがある。漢文で「黄髪」というと、老人のことを意味していた。白髪のふえた人が真っ黒にするのは、かえって不自然に感じられるため、茶髪程度が似合っていると考え、ついでに若い世代にも同調できたような気になるからだろう。しかし、何も若者に合わせるのではなく、ほかの工夫もあってしかるべきだろう。ただ、中高年の女性の場合、白髪を染めるには、健康への害(環境への害はあるかもしれないが)があまりないヘアマニキュアですむらしい。これに対して、若者の使う、ヘアダイは、茶色や金色の色素を入れる薬品のほかに、本来髪の中にあるメラニン色素を破壊する薬品を必要とするので、健康への害はひどい。
欧米人の目からは、茶髪は日本の若者が欧米人になりたがっている証のように見えるだろう。茶髪の若者の大半は、おそらくそんなことを考えたこともない。黒髪ばかりの日本人の中でのことがどこでも通用すると思っているからこそ、茶髪のままで平気で欧米にも行き、軽く見られてしまう。そして、実際に、意図的に欧米人に似せたがる若者の者も少なくない。それは、異質なものにひかれるという若者に共通の心理からであろう。その点は、欧米の若者も同様であろうから、欧米に行くときぐらいは黒髪で行ったほうがいい。白雪姫からハリー・ポッターまで欧米人にも黒髪は珍しくないが、目立つ存在となることは確かである。茶髪なら本物が地元にいくらでもいるのだから、東洋の女性に欧米の若者がしびれるとしたら、何と言ってもまっすぐな黒髪である。もしも、ヨーロッパ人が美しく見えるとするならば、それは、ヨーロッパ的な美意識が世界中に広まった時代の余波がまだある中で自信をもち、あるいは少なくとも人種に起因する引け目を感じていないからである。内面の自信こそが美しさのもとだということを、私たちは知る必要がある。真似をするなら、その内面の自信をこそ真似すべきであろう。
さらに、問題なのは、黒髪が普通である国にまで平気で茶髪で出かける(無)神経である。貧しい途上国には、髪を染めるような無駄なことに金を使う人はほとんどいない。そんなところで茶髪などにしたら、相手との間にわざわざ溝を作ることになることぐらいの想像力はもってほしい。欧米にもいくらでもいる黒髪の人にも失礼になるかも知れないぐらいは考えるべきだろう。人類全体の中で、黒髪は圧倒的な多数派である。そのすべてが髪を染める時代がきたとしたら、環境の面からみてもおぞましい。茶髪は、国際感覚の欠如のあらわれでもある。
若者は自分たちの若さを大人たちがまばゆい思いで見ていることを知らない。若さは、それをありのままに示してこそ美しいのだが、別におじさんおばさんにもてたいなどとは思っていないと言われればそれまでではある。昔の日本で行われたような白塗り仮面のような化粧も私は好きではない。伝統的なものであっても、あまりに自然から離れすぎるのはもう一つである。アメリカの黒人の間では、縮れ毛を恥じて、薬品の力を借りてまっすぐにすることがはやったり、その反動として、縮れたままで伸ばすアフロヘアがはやったりした。さらっと自然であるのが私はいいと思う。髪など一律に黒くてもかまわない。流行に振り回されず、一人一人が自分を信じて生きているのなら、個性は自然にあらわれてくるはずである。それに、黒髪といっても、実は一人一人微妙に色が異なっている。昔のように「髪は烏の濡れ羽色」というように審美眼が一元化するのも好ましくない。山は緑といっても、木々の色は一本一本ちがう。かけがえのない自分の髪の色を大切にすべきだと思う。染めた髪の色は、しょせん商品の色でしかなく、潤沢さというものが感じられない。
若者には懐かしいという感覚がない。さまざまな見かけの人が入り混じる環境で育っていたなら、私の懐かしさの内容も変わっていたとは思うが、ほとんど東洋人だけの環境で育った私にとっては、懐かしいと思うのは黒髪である。私にとっては、懐かしさこそが美しさなのだが、懐かしさという感覚を身につけていない若者にその感覚はわからない。だから、見なれぬものを美しいと思うものらしい。茶髪にしている若者には早くそれを卒業してほしいし、こんな流行も早くすたれてほしいと思うのだが、上からの締め付けは逆効果であろうから、辛抱強く呼びかけてゆくほかはないのだろう。
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