虎がタバコを吸っていたころ


1988年のソウル五輪のマスコット、虎の「ホドリ」。色々なポーズがデザインされた。

 世界中を見渡してみても、昔話を持たない民族はまずいません。そして昔話というものは、多かれ少なかれ現実ばなれしています。そのため書き出しにはよく「むかしむかし」というような決り文句が出てきます。これは、ずっと昔のことなのだから今の常識は通用しないのだぞという予告なのでしょう。正用にはこの種の決り文句として「ベルトが糸をつむいでいたころ」というのがあるそうです。その意味を無理に知ろうとする必要はなく、単に昔話が始まるのだぞという予告だとおもえばいいわけですが、何としてもこの表現は無機質で、私たち日本人にはなじみません。これに対して、つい隣の国の朝鮮には、「虎がタバコをすっていたころ」という、私たちの感覚にもピタリとくる表現があります。訳が分からないことに変わりはありませんが、「昔」というイメージが自然と涌いてくるようです。世界中どこでも、昔話の一番熱心な聞き手は、あくなき好奇心を持つ子供たちだったでしょう。中には利発な子もいて、余りに非現実的な話には、「そんなことあるわけないよ」と反発することでしょう。こんな時、おじいさんやおばあさんは、「なにしろ、虎がタバコを吸っていたころだったからねえ」と切り抜けたのでしょう。

 それにしても、朝鮮の民話には虎が出てくる話があきれるほど多いのです。これでは朝鮮中毎日虎に食われる人が絶えなかったのではないかと思われるほどです。今の朝鮮に虎はまずいません。いくら昔のことだといっても、あれほど多かったとは思われません。朝鮮民話に虎が多い理由は、人間の側にありそうです。

 朝鮮民話の虎は、ほぼ例外なく悪役です。しかし悪役といっても、度しがたいこわもての悪役ではなく、間がぬけていて、どことなく愛嬌があるのが特色となっています。たとえばこんな話があります。

 ある所に、おばあさんの大根畑を食い荒らす悪い虎がいました。そこでおばあさんは御馳走をするとだまして虎を家に招待します。寒い夜でしたから、おばあさんはまず虎に火鉢の火をおこすように言いつけます。虎が息をふきかけると目に灰が入って、こすればこするほど痛くてたまりません。そこで水がめの水で顔を洗うのですが、この水にはトウガラシ粉がどっさり入れられていました。ふきんで顔をふくと、ふきんにはあらかじめ針がいっぱいさしこんでありました。たまらず外に飛びだそうとすると、牛のふんで足をすべらし、その拍子にムシロにぐるぐる巻きにされ、やせ馬の背にのせられて海に捨てられてしまいます。

 これは、弱者に強者が手ひどくやっつけられるという、朝鮮民話の典型の一つです。ほかにも、虎が子ウサギに尾を水につけていれば魚がどっさり釣れると言われ、その通りにしているうち、川が凍結して身動きとれなくなるという話もあります。どちらの場合にせよ、虎は意外と人(?)がよく、おばあさんや子ウサギの口車に簡単にのせられてしまいます。

1970年代の後半、韓国水原城外で見かけた牛。固有の黄牛(ファンソ)に近いものと思われる。大きな虎と間違えかねない小さな牛である。

 虎は世の中に俺ほど強い者があるものかと威張っているように見えます。しかし内面は意外と小心なようです。或る雪の夜、一頭の虎が人家の庭にまでやってきます。家の中では子供が泣いています。母親があやしても、「虎がくるよ」と脅しても泣きやみません。しかし「ほら串柿だよ」と好物を渡すと、子供はピタリと泣きやみます。外で聞いていた虎は、「串柿というやつは俺より強いらしい」と驚きます。ちょうどその時、屋根にひそんでいた牛泥棒が虎を牛とまちがえて、その背中に飛び乗ります。虎はすっかり串柿の襲来と思い込み、必死の思いで疾走し、へとへとに疲れてしまいます。

朝鮮戦争(1950-53)中、アメリカ軍のヘリコプターの中をを不思議そうにのぞきこむ老人。老人が不思議に思ったのはヘリコプターなのか、それとも、それに乗っている人間なのか?

 こういった話をきいていくと、ふと虎とは、人間世界の権力者のことではないのかという気がしてきます。人間世界のことを人間世界のこととして大っぴらに批判できない庶民が虎を権力者に見立て、虎がこれ以下はないと思われるほどの弱者にやっつけられる話でうっぷんを晴らしているように思われます。ここでは虎(=権力者)というものは、意外と頭が悪く、度胸もなく、そして孤独なもののようです。朝鮮には「官災」という言葉があるそうです。運勢暦にも一日ごとに官災という項目があるといいます。「人災」などという責任の所在をぼかした表現と比べてみるとき、それはジツに明瞭な表現だという印象を与えます。朝鮮の「官」は、民衆に全く不人気でした。大小の藩に末端行政を委ねた地方分権の徳川日本以上に、中央集権の国、李氏朝鮮の人民収奪はひどいものでした。一定の任期で任地に赴く代官たちが、任期中に私腹を肥やせるだけ肥やそうとしたためです。朝鮮には昔から大小の虎がいました。ある時からは、私たち日本人も虎となりました。

 朝鮮の庶民は権力者を憎みながらも、なおかつ彼らを人間として観察し、皮肉な目を向けていたようです。幼いころ父を虎に殺された猟師が仇を討ちに金剛山に向かう話の中で、虎はいかにも朝鮮的な家族構成を持って、物語に登場してきます。こうしてみてくると、「虎がタバコをすっていたころ」というわけの分からぬ表現も、少しは分かるような気がしてきます。白衣に優雅な笠をかぶった朝鮮の老人たちの楽しみは、何尺もある長いキセルでタバコを吸うことでした。その姿は見るからにのどかなものでした。権力者も初めから権力者であったのではありません。権力者が自らのおびえのゆえに幾重にも着込んだいかめしい鎧の下を見透かした表現こそ、あの「虎がタバコを吸っていたころ」という表現なのかも知れません。世界中の野生の虎の絶滅が間近といわれる今日もなお、朝鮮からも朝鮮の庶民の心からも、まだまだ虎は消え去ってはいないようです。

(追記)この文章は拙著『朝鮮の歴史と日本』(明石書店)の「まえがき」の再録です左のアイコンをクリックすると、オンラインで買うことができます。