|
「在日」はいつ、
なぜ日本に来たのか?
在日韓国・朝鮮人はいつ日本に来たのか? この問いは今ではいささかピントがぼけた感じがする。「在日」のほとんどは日本で生まれ、日本で育っているからである。本国生まれの一世は今や圧倒的な少数派である。したがって、この問いはより正確には、いま日本にいる韓国・朝鮮人はいつの時代に日本に来た人とその子孫がいちばん多いかというふうに言い直さなければならない。
 |
日本の街かと見まがう植民地時代の
「京城」(今日のソウル)。 |
日本の中学生、高校生にアンケートをとってみると、戦時中という答えがもっとも多く、ついで昭和の戦前が多いが、なんとそのつぎが高度経済成長後というのが出てくる。小学校の段階から、「在日」の歴史についてきちんと教える必要を感じる。現在、在日外国人の中で韓国・朝鮮人が占める割合は4割前後にまで低下している。韓国・朝鮮人の人口が横ばいなのに対して、中国、ブラジル、フィリピン、ペルーなどの国々から来る人々が急増しているからである。しかし、韓国・朝鮮人が9割台を占めていたのは、1970年代なかばまでのことだから、さほど昔のことではない。長い間、在日外国人とは、ほとんど在日韓国・朝鮮人というのと同義語だったのである。
指紋押捺の廃止が唱えられたころ、「外国人の中で韓国・朝鮮人だけを特別扱いできない」という主張があった。しかし、指紋押捺というものは、1970年代までは在日外国人の90%以上を占めていた在日韓国・朝鮮人を対象として定められた制度だったのである。しかし、日本人の多くは韓国・朝鮮人を「外国人」というイメージでとらえていなかった。市役所に就職して外国人登録の窓口に回された人が一生懸命英語を勉強したが、窓口に来るのがほとんど韓国・朝鮮人だったので驚いたという話がある。さきの「特別扱いできない」という主張は、現実の外国人の人口比率と「外国人」という言葉のイメージの落差を利用したかなり悪質なトリックだったということができる。
 |
| 1934年の平壌(今のピョンヤン)一中の卒業写真。生徒は日本人中心。朝鮮人生徒もいたが、軍人が映っているところを見ても、どのような教育だったかは想像に難くない。 |
日本が貧しかったころには、日本にやってくる外国人は少なかった。来るとしても、一時的な滞在者が多かったので、不当な扱いを受けたと感じても我慢するケースが多かった。そのため、日本に定住する外国人の大半は、かつての植民地人だった韓国・朝鮮人が占めていたのである。日本政府の外国人に対する施策も、韓国・朝鮮人を対象として設定されていた。しかし、世界がボーダーレスの時代となり、日本にもさまざまな国の人々が定住する時代になると、税金だけとって福祉の対象からは外すという政策を続けるというわけにはいかなくなった。その際に韓国・朝鮮人だけを今までどおりに処遇することはできなくなったのである。しかし、このような国際的状況の違いが有利に働いた面はあるにせよ、外国人の権利を拡大させたのは、指紋押捺の廃止に象徴される韓国・朝鮮人自身の粘り強い闘いであることはいうまでもない。
 |
| 日本植民地時代の朝鮮の紙幣。右側は、赤枠内を拡大したもの。画像をクリックすると全体が拡大。 |
在日韓国・朝鮮人の渡日時期に関して、日本人の間に二つの誤解がある。一つは、かなり悪意に満ちたもので密入国が多いというものであり、もう一つはある意味では好意的に戦時中の強制連行が大半を占めるだろうというものである。結論にいく前に、在日コリアンの数の推移を見ていただきたい。まず、明治になってからも、1896年までは最大でも20人を超えた年がなく、1886年にいたってはなんと0であった。それが韓国併合の翌年である1911年になると2527人となり、1917年に1万人を、1924年に10万人を超える。現在の人口に近い60万人を超えたのは1935(昭和10)年のことであるが、日中戦争が始まってから急増して日米開戦翌年の1942年には160万人を超え、敗戦前年の1944年には実に193万人を超えていた。しかし、日本の敗戦、朝鮮の解放とともに激減し、1946年には60万人程度になっていた。それ以来、戦後は今日にいたるまでずっと60万人前後で横ばいとなっている。
この数字からは、まず戦後の渡日者がきわめて少ないことが想像できる。密入国が最も多かったのは敗戦直後のことだが、その多くは、戦前から日本に住んでいて一時帰国したものの、混乱する祖国で生活の場を見つけられず戻ってきた人たちである。その波の落ち着いた1950年以降1966年までに不法入国として検挙された人の数は3万人弱にすぎず、しかもその大半が送還されている。つぎに、敗戦直後の人口の急減は、強制連行を含めて戦時に徴用された人の大半が帰国したことを物語っている。本国に家族や生活基盤を残したままだからこそ強制連行というのであり、はやばやと帰国するのは当然のことである。したがって、今日の在日韓国・朝鮮人の多くが強制連行された人とその子孫だとはいえない。どんなに多く見ても1割程度であろう。日本に残った人の多くは、戦時以前に家族ぐるみでやってきて、もう本国に生活基盤がない人たちであった。
 |
| 戦前の日本での朝鮮人集落。兵庫県社会課『朝鮮人の生活状態』1937より。 |
強制連行をあまりに強調することは両刃の剣であるように思われる。日本が朝鮮民族に対して犯した罪を印象づけるには有効であるが、一方で、それが戦時中だけを印象づけ、それ以前の36年に及ぶ植民地支配を忘れさせる恐れもある。若い世代にはあまり知られていないことだが、戦前には軍や警察関係者を含めれば、実に100万人近い在朝日本人がいた。無権利状態に置かれた在日朝鮮人と異なり、彼らは特権階級として朝鮮人に君臨していた。日本人の大地主も多かったが、その土地はもちろん朝鮮人からとりあげたものであり、併合当時人口の8割を占めていた農民の中から困窮する者が続出した。在朝日本人の特権を守るため、朝鮮人自身による産業の育成も政策的に抑制されていたため、生活の道を求めて日本に来た人とその子孫が今日の在日韓国・朝鮮人なのである。渡日の時期は圧倒的に戦前であり、だからこそ、今の「在日」は二世ですらすでに50歳以上が普通で、学校に通う子供などはもう四世が珍しくないのである。
強制連行の強調は、強制連行されてきたのでなければ日本にいる資格がないというような議論に手を貸すことにもなりかねない。植民地支配下では、今日と同じ意味での自由意志というものはありえない。自らの支配という枠の中で人生の選択を迫られた人々に対して、日本国家が責任を負うのは当然のことなのである。また、強制連行された人の多くが帰国したからといって、強制連行の事実が消えるわけでもない。多くの人が日本で亡くなり、無縁仏となって各地の寺に遺骨を残す人も多い。少数とはいえさまざまな事情で日本に残ることになった強制連行の被害者もいることや、日本の支配を離れたサハリンに多数の人々が戦後半世紀近くも放置されたことも忘れてはならな い。
|