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「島国根性」は
日本の宿命か?
今日の日本では、在日の問題も含めて韓国・朝鮮に関する出版物はおびただしい数にのぼる。しかし、そうなったのは比較的最近のことで、20年ぐらい前まではきわめて少なかった。そんなころに、朝鮮問題について書かれた本を見つけて買おうとしたところ、その腰巻(宣伝用の帯)に書かれた文字を見て、買う気を失った。「日本人の血の中に潜む差別意識」とあったからである。腰巻なのだから著者自身が書いたのではなく、出版社が売らんかなという意図を込めて書いた可能性が高いが、「血の中に潜む」のなら、読んでも仕方がないではないかと思ったものである。このような自嘲的な表現が多くの日本人の共感を得ることなどありえない。明治以来、日本人は西欧に対して自嘲的な自己評価をすることが多かった。この腰巻の文字はその延長線上にあるもののように私には思えたのである。そして、西欧に対する自嘲的な意識こそ、日本人の非西欧系の異民族に対する差別意識の源泉であるようにも思う。また、このような自嘲的な意識を持ちつづけたのでは、他の非西欧系の人々の誇りを理解することもできない。
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薩摩焼を描いた鹿児島県のふるさと切手。
火計り茶碗(左)と染付鳳凰文広口花瓶(右)。 |
日本は島国である。そのことから、日本人の排外意識は島国根性と呼ばれて日本人の宿命であるかのように言われることが多い。しかし、私は「島国根性」は明治以後に形成されたものであり、決して日本の宿命だとは考えていない。さらに、今日いうような意味での「日本人」という名での帰属意識の形成も明治以後のものであり、それ以前は、日本列島に住む人の帰属意識の対象はずっと小さく、一般の農民においては村レベルのものであったと思われる。帰属意識の対象が小さければ、「よそもの」がこの列島の中の人であろうと外の人であろうとあまり大差はなかったのではあるまいか? 「よそもの」は初めこそ警戒されるものの、やがては受け入れられる。
秋田の農村を地元の人の案内で歩いていたとき、家の一軒一軒に屋号といってあだ名がついていることを知った。「ねんかんのえ(怠け者の家)」と呼ばれる家があった。何代か前の主が怠け者だったからだそうで、子孫は災難だと思った。「なごや」という家もあった。やはり何代か前の主が名古屋から来たのだという。近代以前の日本では人々は一定の土地にしがみついていたように思われやすいが、広い範囲での移動も決して珍しくはなかったようである。鎖国政策がなければ、日本列島外の人が移住してくることもあっただろう。列島の内外を問わず、最初のうち言葉が通じないのは同じことなのだから、江戸時代の人はあまり頓着せずに受け入れたのではないだろうか?
日本民族は、大陸や太平洋の島々のあちこちから移住した人々の子孫が混ざり合って成立したものと考えられている。その融合がスムースに進んだのも、むしろ島国だったからではないだろうか? 大陸では諸民族はそれぞれ分布の中心を持ちながら移動し接触する。そのために融合はむしろ起こりにくい。しかし、移動する先の限られた島国にいったん入ってくると、融合につとめるほか、ともに生きる道はない。日本民族の形成は、さまざまな文化伝統を持った人々がその伝統をやりとりする中で形成されたのではあるまいか? そうだとするならば、互いの伝統を排除することなく、受け入れあう寛容さこそ、島国の伝統だったのだと思う。だからこそ、この列島には明治までは豊かな地方差も存続していた。これに対して、今日いう排他的な「島国根性」とは、この豊かな地方差を破壊する近代国家の意志とともに形成されたものだと思う。
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| 美山(苗代川)にて筆者撮影。 |
鹿児島県の日置市(旧東市来町)に「美山」という集落がある。かつて「苗代川(なえしろがわ)」と呼ばれ、秀吉の朝鮮侵略のときに島津氏によって拉致された朝鮮の陶工たちが作った村である。陶工たちは島津藩から武士に相当する扱いを受けながら先祖の技能を代々伝え、「薩摩焼」を焼きつづけた。興味深いことは彼らが江戸時代300年余りにもわたって「金」とか「朴」といった先祖の姓を保ちつづけたことである。この伝統を崩したのが、明治新政府による朝鮮の植民地化であり、今日ではこの村に朝鮮姓は全く残っていない。薩摩焼の窯元として知られる沈壽官家も戸籍上は「大迫」姓である。
この改姓に周囲からの有形無形の圧力が働いたことはもちろんだが、誇りにしてきた先祖の地が植民地になった(或いはそれ以前のなりそうだった)頃からの村民の内面の変化をも見逃すことはできない。江戸時代の苗代川の村民にとって、朝鮮人の末裔であることを誇りとすることと、薩摩藩の一員であることとは決して矛盾するものではなかった。明治も初めのころに起こった西南の役では、西郷軍の中に苗代川出身の朝鮮姓の兵士がかなり含まれていた。もともと学問の盛んな村だったので、明治以降の苗代側の村民からは軍や警察関係、教育界に進む人が多かった。第二次大戦敗戦時の外相東郷茂徳もその一人で、少年時代まで朴という姓であり、父の壽勝は有名な陶工であった。鹿児島市への通勤圏にあり、すでに陶芸の郷としての定評のある今日の美山には、陶芸を志す人などが外から移住してくる例も多い。もとからの住人も朝鮮人を遠祖に持つとはいえ、江戸時代から娘を外に送り出し、嫁を外から迎えてきたのであり、とうの昔からの日本人だといっていい。
苗代川は、司馬遼太郎の紀行「故郷忘じがたく候」にも描かれている。南原の蚊龍初等学校には、1997年に美山小学校との姉妹校提携を記念して、「故郷忘じがたく候」と刻まれた記念碑が建てられた。独立後の韓国で日本語の碑文が建てられたのは画期的なことである。
戦後、在日韓国・朝鮮人が帰化しようとするとき、もとの姓名のままでの帰化は長い間不可能で、「日本風」の姓名にすることが絶対の条件とされてきた。今日ではかなり緩和されてはいるが、やはり有利には働かない。韓国・朝鮮人の多くが今も帰化しようとしないのは、名前ばかりが原因ではないが、一因になっていることは確かである。日本人の中にも、韓国・朝鮮人あるいは中国人と同じような音読みする漢字一字姓は決して珍しくはない。江戸時代までは二字姓を大陸風に音読みの一字に改める例さえかなりあったのである。「日本風」の姓名を狭くとらえ、それを強要する姿勢は、明治以後の悪しき意味での「島国根性」の反映であり、「島国根性」が国家的につくられたものであって、日本文化の伝統にも反していることを物語っている。
なお、韓国の慶尚南道には、秀吉の侵略のとき、この戦争に疑問を感じて朝鮮側に投降した日本の武将とその部下たちの子孫がつくる村として有名な友鹿洞(旧称慕夏堂)がある。
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