選挙制度は
選ぶ側が決めよう!

はじめに 選挙制度については、選ばれる側にとっての死活問題だということばかりが言われています。しかし、この問題は、それ以上に選ぶ側の権利の問題であり、それゆえに民主主義の根幹をなすものと、私は考えています。外国では選挙制度の変更にあたっては、国民投票を介する例が多いのですが、日本では、この問題がもっぱら選ばれる側によって論じられ、決せられています。今の小選挙区比例代表並立制への変更は、国会の場で一度は否決されながら、どういう権限があるのか分からない密室での細川・河野会談によって導入されました。新制度での初の選挙の後、私の身近なところでも、「えらく選挙区が増えた」とか、「えっ、一人しか当選できないの?」と言っている人にしょっちゅう出会ったものです。このことは、変更が本来第一の当事者であるべき有権者に十分な説明もなしに、拙速に行われたことを物語っています。

選ぶ側にとって理想の選挙制度とは? 
選挙制度に一長一短があることは確かです。しかし、日本では、「選挙制度は選ばれる側が決めること」という前提の上に、「理想の選挙制度などない」と言われていることが問題です。選ばれる側の利害は対立します。選ばれる側の間での選挙制度論議は、どうしても利害が先行します。いろいろと理屈をつけても、それは後付けにすぎません。解決は力関係を反映したゴリ押しか、適当なところでの妥協という形でしか実現しないのです。だから、今までの選挙制度論議の前提を根本から覆し、選ばれる側の立場からではなく、選ぶ側の立場でこの問題を考える必要があると思います。

 選ぶ側の立場から見て、理想的な選挙制度とは、ひとことで言って公平な制度ということです。どの政党を支持しようが、どの地域に住んでいようが、有権者の1票は平等に扱われ、その意思は平等に選挙結果に反映されなければなりません。また、あまりに複雑な制度は、有権者にとって「選んだ」という実感が得にくくなりますから、好ましくありません。

小選挙区制は最悪の制度 
一つの選挙区から一人しか当選者を出さない小選挙区制が、大政党に圧倒的に有利な制度であることは、ちょっと考えれば小学生にでも分かることです。理屈の上では、すべての選挙区で過半数の票を得た政党は、なんと100%の議席を独占できます。対立政党がたくさんあるときには、過半数の票も必要なく、全選挙区で一位になりさえすれば議席を独占できます。現実にはここまで行かないとしても、得票率と議席配分との間にひどいゆがみが生まれることに変わりはありません。2000年6月の衆議院選挙の小選挙区部分で、自民党は41%の得票率(比例区では28%)で59%の議席を得ました。さらに、中国地方の小選挙区の場合、自民党は57%の得票率で86%(21議席中18議席)の議席を得ています。一方、小選挙区にくまなく候補者を立て全国で12%の得票を得た共産党は、小選挙区では1議席も獲得できませんでした。比例代表との並立ではなく、単純小選挙区制で選挙が行われていたらどんな結果が出たかは、火を見るより明らかです。

 有権者の中に、当選者の内訳を小選挙区と比例区とに分けて調べる人は、残念ながらほとんどいません。そのために、このような明らかな矛盾に気づく人が少ないのです。全体としての選挙結果を見ただけで、新聞を捨ててしまったりせず、この内訳をしっかりと調べてほしいものです。

1890年7月1日、警察官立会いのもとで行われた第1回総選挙。一定額以上を納税するごく一部の者による制限選挙のため、警官の後ろに群がっているのは選挙権のない見物人。ビゴー画。

比例代表制こそ理想の選挙制度 有権者の一人一人が平等であるとするならば、4割の得票の政党には4割の議席、3割の得票の政党には3割の議席という制度が望ましいことは言うまでもありません。その理想を実現するのが比例代表制です。いちばん分かりやすい方法は、全国一括で政党別の得票率に基づいて政党別に議席を与え、各政党があらかじめ出した名簿の順位にしたがって、各政党に配分された議席の範囲内で当選者を決めていく方法です。しかし、これでは有権者は候補者を選ぶことはできませんし、あまりに味気ないという印象をぬぐえません。そこで、比例代表制の理想を生かしながら、さまざまに工夫をする必要が生じてきます。そのため、比例代表制はともすれば複雑になりやすく、また、比例代表制論者の数だけの比例代表制があるというほど、さまざまな変種があります。そこで、この工夫を最小限にして、分かりやすさと公平さとを両立する方法が追求されなければなりません。

「重複立候補」「復活当選」はよくないことか? 
現行の並立制において、「重複立候補」「復活当選」の評判がよくありません。評判が悪い第一の理由は、有権者の多くが、小選挙区制を導入した以上、どうしても「重複立候補」「復活当選」が必要になってくる理由について、じっくり考えようともせず、感情的に考えているからです。

 小選挙区制では、中小政党の候補者の当選の確率はきわめて低いものとなります。とっておきの候補者を小選挙区に立てた場合、中小政党が比例区に立てる候補者は、「重複立候補」がない限り、言葉は悪いのですが「間に合わせ」の候補者ということになってしまいます。こうして、とっておきの候補者が小選挙区で落選した場合、中小政党は最も大事な候補者を国会に送れなくなってしまいます。そのために「重複立候補」が必要となってくるのです。個人的魅力のあるとっておきの候補者の個人としての運動が政党の票をも掘り起こすことを考えるなら、「重複立候補」の禁止は、政党間の不公平をいっそう拡大するものでしかありません。

 問題は、この制度を利用して、小選挙区でも当選できる大政党の候補者までが「重複立候補」し、「復活当選」することです。有権者の感情的な反発はこのようなケースに対して向けられています。一方、中小政党の候補者の場合は、小選挙区で供託金を没収されるほどの僅かな票しか取れぬまま、比例区で「復活当選」するというケースが生じます。この場合、問題は、僅かな票しか取れない小選挙区という過酷な制度を、中小政党に押し付けたことにこそ問題があるのです。

 私も、「重複立候補」「復活当選」という制度は、確かに複雑であると思います。しかし、その複雑さは、小選挙区制と比例代表制という水と油のように性質の違う制度を木に竹をついだように無理やりくっつけたところから生じてくるのです。単純小選挙区制が好ましくないことはさきに書きましたので、「重複立候補」「復活当選」のような分かりにくい制度を廃止するには、小選挙区制の廃止が前提です。小選挙区制がある以上は、「重複立候補」も「復活当選」も存続させなければならないのです。なお、「復活当選」という表現は、意識的なのか無意識的なのかは別として、小選挙区制を前提とした表現であり、小選挙区で当選するのが本来の姿という思い込みの上に成り立っています。問題は、「落ちるべき人が通ること」にあるのではなく、「通るべき人が落ちる」ことにあるのだということを忘れてはなりません。

新幹線岐阜羽島駅前にある大野伴睦夫妻の像。大きい町がないここに駅ができたのは、政界の実力者だった大野氏の力が大きい。選挙区が小さくなればなるほど、このような狭い地域への利益誘導が盛んになる。

小選挙区制に利点はあるのか? 小選挙区制の導入にあたっては、PL法の対象となりそうな誇大宣伝が行われました。いわく、政権交代ができる、派閥や族議員がなくなる、悪いことをした人を落とせる、金がかからないなどなど。しかし、現実には中村喜四郎、藤波孝生の両氏は小選挙区でゆうゆうと当選しました。藤波氏が中選挙区制で一度落選していることを考えると、小選挙区制が政界浄化につながるとはいえません。候補者の多くが中選挙区制のときより「金がかかるようになった」と答えていることも見過ごせません。派閥や族議員の横行は、政権交代が長い間なかった結果に過ぎないと考えます。政権を失う心配がなかったからこそ、自民党の候補者は同士討ちに専念することができたし、当選後は族議員としてのうまみを味わうことができたのです。

 戦後長い間政権交代が起こらなかった第一の理由は、冷戦体制にあると私は考えています。戦前の日本に戻すことを建前とする政党と社会主義国家をつくることを建前とする政党のいずれをも心からは支持できないままで、ともかくも政権を握ってきた政党だからということで、有権者の多くが自民党を選択し続けてきたということでしょう。政権交代がなかったことを、中選挙区制のせいにするのは短絡に過ぎません。

 小選挙区制では、多くの有権者の意思が死票として切り捨てられます。もちろん選挙に死票はつきものですが、それをできるだけ少なくして、得票率と議席配分の誤差を最小限にする努力が必要です。小選挙区制では、政党も候補者も自由な主張がしにくくなります。有権者は不自由な選択を強いられます。いったい、こんな制度のどこに利点があるのでしょうか?

日本で小選挙区制での政権交代は可能か? 
結論からいえば、政権交代はどんな選挙制度のもとでもありえます。1989年、土井社会党が「マドンナ旋風」で圧勝した参議院選挙では、小選挙区(1人区)のみならず、中選挙区(複数区)でも比例区でも自民党と社会党の逆転は起こりました。その中で、社会党がほとんどを独占した小選挙区(1人区)の結果ばかりが注目されたのは、単に変化が劇的だったからに過ぎません。小選挙区制のもとでは、得票率の僅かな変動で、カナダなどに実例があるように、昨日までの与党が一挙に議席の大半を失うというようなことがときどき起こります。変化は何も劇的である必要はありません。敗れた側にも一定の議席を与え、捲土重来の機会を与えるのがまともな選挙制度だと思います。

 細川政権の登場を政権交代というのなら、その交代は皮肉なことに中選挙区制のもとで起こりました。そして、自民党の金城湯池たる農村部に厚い定数の是正が早くに行われていたのなら、自民党はそれ以前に過半数を割っていたはずでした。よく、中選挙区制では野党が共倒れを恐れて多数の候補者を立てられないから政権交代が起こらなかったなどといわれましたが、短期的にはともかく、長期的にもこの論理が成り立つかどうかは疑問です。

 89年の場合は、参議院ということでもあり逆転は一時的でしたが、この選挙のとき、自民党は複数区や比例区で一定の議席を獲得することができました。このような条件のない単純小選挙区制では、2大政党制どころか、1党独裁体制が永続することも十分に可能性のあることです。2大政党制がいいかどうかも、議席の大半が固定されている上に死票がおびただしい英米の現状を見れば、きわめて疑わしいと思っています。

 まして、同質性が強く、メディアの発達した日本では、たいていの所で同じ政党が第一党になりがちです。第二党以下が選挙協力をしてこれに対抗しようとしても、小選挙区制のもとでの選挙協力は、独自候補をおろすという形でしか行えません。これは、独自の主張をするという政党の使命に反するばかりでなく、有権者の選択の幅をも狭め、選挙を事前の取引を事後承認する儀式と化してしまうことにつながります。選挙協力といっても、候補をおろした政党の強い支持者の中からは棄権に回る者も出てくるので、統一候補の得票が各党の合計に達することはまずありません。政党の主張に大差がなくなって政治への関心を失う有権者が増えている現状の原因の多くが小選挙区制にあることは明らかです。

ニ大政党制は理想的な政治形態か? 日本で二大政党制が実現するとするならば、自民党以外の政党が少しずつ歩み寄る一方で、自民党からもそれに加わる者が出るという道筋しか考えられません。しかし、選挙協力の難しい小選挙区制のもとでは、政党間に路線の対立に加え、選挙をめぐって絶えず利害の対立が生じます。こんな火種を常に抱えるところへわざわざ行こうという自民党の議員は少なく、寄らば大樹の陰という心理が生じます。細川政権成立直後にあいついだ自民党からの離党者の多くが古巣に舞い戻ったのも、その証でといえるでしょう。

 「政治改革(私の賢いワープロは”政治家威嚇”と変換した)」後の離合集散には利害や計算がからんでおり、理念や政策の異同によって起こっているものとは考えにくい感じがします。冷戦が終結し、イデオロギーにとらわれずに歩み寄れる条件が整った今こそ、百家争鳴が可能な選挙制度にすることが望ましいでしょう。二大政党制も、その上での内容ある離合集散を経て自然に実現するのならいいのですが、不自由な選挙制度で無理やりつくろうとするのはいただけません。

 自民党の若手議員にしても、親分のもとでの徒弟修業はもういやでしょう。中選挙区制のままだったら、さらには比例代表制になっていたなら、自民党の解体は今よりさらに進んでいたに違いありません。小選挙区制のもとでは、民主党も、内部の考え方の違いを封じ込めることに汲々とせざるを得ません。小選挙区制のもとでの政権獲得など、幻想というより妄想に近い現状です。小選挙区制で第三党以下を排除することで形だけ第二党の座を保持するのでは「民主」の名が泣きます。政治の硬直化を打開するには、まず小選挙区制を廃止しなければなりません。ニ大政党制が理想的な政治形態かどうかも疑問ですが、このままでは、ニ大政党制の実現のめどすら立たないままです。

民意を反映する選挙制度を! 有権者といっても、大政党の支持者は小選挙区制を支持するかも知れません。しかし、これでは、有権者同士で政党や議員と同じ不毛な争いを繰り返すばかりです。ここでは、有権者相互の意思と平等を尊重しあい、有権者の側が提供するルールとしての公平な選挙制度のもとで、政党や候補者が正々堂々と争うことが望ましいと考えます。そのような制度としては、比例代表制が望ましいのですが、比例代表制は先にも述べたように、論者の数だけ方式がありますから、比例代表でいくという合意が十分に出来上がらないと実現は難しいと思います。そのため、私は、当面は中選挙区制の復活でもよいと考えています。ただ、選挙制度の決定権が選ばれる側に握られている現状にあって、多少の妥協はやむをえないかも知れません。比例代表制と中選挙区制による選挙制度の提案は、別稿に譲らせていただきます。