永住外国人の
地方参政権を考えるために

 サンフランシスコ条約発効により、在日韓国・朝鮮人はすべて「朝鮮」籍とされ、のちに「韓国」籍への書き換えが進んだ。台湾人とともに、それまで持っていた日本籍を選択する機会は与えられなかった。

控えめな参政権法案 永住外国人への地方参政権付与法案がたなざらしになっている。この法案に対する世間の理解が十分だとは思わない。中には、外国人が3ヶ月日本に住めば参政権が得られると思っている人までいる。たとえば、東京に住む日本人が大阪市に引っ越して大阪市長選挙や市議会選挙に投票しようとしても、住民票の移動後3ヶ月たっていなければ認められない。これは、選挙のたびごとに一時的に組織的に住民票を移すという不正をはばむためのものである。3ヶ月という期間は、この制限を今回の法案の対象となる外国人にも適用しようというものに過ぎない。

 
このようなあわて者が出てくるのも、「外国人」という観念でものごとを考える人が多いからである。外国人に日本の政治を支配される、えらいこっちゃというわけである。しかし、付与されるのは地方参政権であって、国政への参政権ではない。それも選挙権だけで、被選挙権はない。つぎに、付与される対象となるのは、なかなか与えられない「永住」資格を持つ永住外国人に限られている。こういったことを考えると、今回の法案は、ヨーロッパを中心に、5年程度の「定住」外国人に被選挙権まで付与する国があることを考えると、何段階にも控えめなものだと言わざるをえない。チリやニュージーランドでは、国政への参政権まで認めているのである。

 日本に91日以上滞在する外国人は外国人登録を行わなければならない。91日というのは、観光としては長すぎるので、日本に暮らしている人だと言ってよい。その数は、すでに日本の人口の1%を超えている。そのうち、永住外国人というのは、1999年の統計で63万人あまりであり、そのうちの52万人あまりが「特別永住者」と呼ばれる旧植民地人である。そして、特別永住者の実に99%は、韓国籍または朝鮮籍の人が占めている。つまり、それ以外の外国人の中で永住資格を持つ人は、1割にも満たないという計算となる。地方参政権問題を考えるにあたって、在日韓国・朝鮮人(以下、「在日」と略す)の問題をまず考えなければならない理由がここにある。

中心はやはり「在日」 特別永住の資格を持たない韓国人も10万人あまりいるわけだが、それ以外に帰化申請をして認められた人が20万人ほどいる。さらに、国際結婚により生まれ日本籍に入った人の数も無視できない。中には、父が「在日」の場合、戸籍の父の欄を空白にし、母の戸籍に入って日本籍となっている人もいて、その実数は把握できない。このような例の場合、一つ屋根の下で家族として暮らしていることも多いので、必ずしも国籍、戸籍が実態を反映しているわけではない。日本籍の人の中にも「在日」意識を強く持っている人も少なくない。こういった例も含めれば、出自が朝鮮半島にかかわる総数は、100万人を超えると見てよいだろう。

 100万人というのは大変な数で、香川県や和歌山県の人口に匹敵する。全国の公立の小・中・高校に勤める教員の数が100万人弱である。また、第一生命が全国の契約者数を苗字別にとった統計によれば、中村、山本、小林といった苗字の出現率がそれぞれ0.8%台なので、全国ではそれぞれ100万人ほどいるものと思われる。あなたは、教師に知り合いはいないだろうか? あるいは、中村さんや山本さんを一人も知らないということはないと思う。つまり、誰もが身近に最低数人の「在日」の人を知っていて当然の数なのである。それなのに、身近にいないという人が多いのはなぜであろうか? もちろん、在日の分布が都市部に偏っているということもある。しかし、その都市部でさえ、さらには最も多い関西でさえ、誰も知らないという人が多いのである。これは「在日」の9割近くが、日本の名前を名乗り、「在日」であることを明かさずに暮らしているからに他ならない。

「在日」の生活実態 「在日」の中で、本国生まれの一世の比率は1割に届かない。二世もたいてい40代以上で、若い世代は日本に来て3代目以降である。朝鮮人の話す日本語のなまりがからかいの対象となったのは昔のことで、今や朝鮮学校の教師が生徒の日本語なまりの朝鮮語をなげいている。しかも、そのような民族学校に通う子供は2割に満たないので、大半が日本語しか話せない。生活基盤も日本にしかなく、さまざまな分野で成功をおさめる人も少なくない。しかし、成功者に限って自分の出自を明かさない例が多いため、いかに「在日」が日本の社会、経済に貢献しているかが目に見えないだけなのである。もちろん、納税だってしている。

 では、なぜ「在日」の多くが、日本名で暮らしているのであろうか? この問題が、第一に「在日」自身が乗り越えなければならない問題であることを否定することはできない。成功者がいかに多いかが分からないから、将来に対して悲観的になり、夢をあきらめる子供も増える。周りに同胞がいることが分からないための心細さもつのる。不当な扱いを受けたときに、一人でそれに対応しなければならず、たいていは泣き寝入りになる。こういった点を考えれば、「在日」総体として、日本名を名乗ることにいいことは何もないと考える。しかし、日本人としては、「在日」に本名を名乗ることを躊躇させるに至った歴史が、戦後も続いてきたことを忘れることはできない。それは、日本人の側が考えるべき問題である。「在日」の問題が解決したと言えるのは、「在日」が本名でさまざまな分野で活躍していることが誰の目にも分かるようになったときである。日本名で成功しても、日本名だったから成功したのではないか、という疑いを日本人も、そして「在日」自身も払拭することはできないのである。

「在日」はなぜ帰化しないのか? 「日本名を名乗るぐらいなら、帰化をしたほうがいいのではないか」と、日本人の多くは考える。しかし、日本名を名乗ることと、帰化をためらうこととは、実は根が同じなのである。スポーツ、芸能関係などで成功し、帰化する外国人がいる。中には「ラモス瑠偉」とか「蔵上人智有(クロード・チアリ)」といった名前で帰化する人がいる。こういった名前に対しては、二つの方向から抵抗を感じる人がいるだろう。もっと日本人らしい名前にしろという人もいるだろうが、私はカタカナ書きにすることは仕方ないとしても、無理に漢字を当てる必要はないように思う。なぜ、彼らは日本人らしい名前にしないのだろうか? それは、自分の出自も含めて日本社会に受け入れてほしいと思うからである。帰化しても、元外国人だといういうことで差別、選別される国に誰が帰化したいと思うだろうか? 日本名を名乗るということは、そのような差別、選別を受け入れることにほかならない。帰化したところで日本社会には受け入れられず、同胞とのつながりを失うだけだという思いが、「在日」に帰化をためらわせてきたのである。帰化する前から本名で受け入れる社会であってこそ、帰化する気になるのだということを、日本人はもう少し考えてみなければならない。

 帰化を受け入れるかどうかは、社会の問題ではなく、政治の問題である。その際、帰化についての基準がまったく不透明だということに触れないわけにはいかない。結局は法務省の自由裁量に任されているといってよい。帰化する人の99%が日本名で帰化するのもそのためである。本来の名前のままでは帰化が認められないという時代がずっと続いたからである。帰化に際しては必ず家の中を見られ、写真も撮られるのだが、朝鮮人形があったということで、不許可になったらしい(基準が不透明なのだからこういう言い方しかできない)例さえあるという。日本に愛情を持てというのはともかく、それがなぜ先祖の国への愛情を絶てということにつながるのか、理解できない。現在、法務省に本名では帰化できないのかと問い合わせれば、そんなことはないと答えるであろう。しかし、いったん帰化しようという気になった人の立場は弱いもので、そのためにはできるだけ有利になるようにしたいという心理が働くものである。在日であることをひたすら隠そうとしている人の場合、身辺調査もともなう帰化申請は、秘密の暴露にもつながりかねず、それなら今までのままでということになりやすい。

 現在、毎年1万人台の「在日」が帰化を認められている。さらに、「在日」の8割ほどが日本人と結婚し、その間に生まれた子供はほとんどが日本籍となる。このままいけば、遠からず「在日」はいなくなるという見方もある。しかし、この流れは、日本に屈服することを潔しとしない人がいる限り、ある点で止まるであろう。帰化はもちろん、参政権の付与に対しても同化につながるとして反対している朝鮮総聯の存在も無視できない。それに、帰化した人にしても、それですんなり日本人として遇されるとは限らない。国籍がどうであれ、「在日」としてのつながりを保とうとするに違いない。つまり、帰化の進行によって問題は解決しない。民族と国家とは別だと考える私は、「在日」の帰化に反対はしない。しかし、帰化が選別をも意味する限り、それに反対する「在日」の人の気持ちも尊重しなければならないと考える。選別されることによって、選別されなかった人に対して優位に立つことで、みずから選別する側に回ってしまうことに抵抗を感じるのは当然であろう。せっかく特別永住者という法的な範疇を設けた以上、特別永住者からの申請があれば、無条件でそれを認めるという形でなければならないと思う。もちろん、帰化後の名前も自由とする。また、すでに帰化した人に対しても、希望があれば旧姓に復することも自由としなければならない。また、帰化をしない人に対しても、生活上の権利は極力保障しなければならない。さらに、「帰化」という言葉自体、「身も心も日本人になれ」という響きがあるので、単に「日本国籍の取得」と呼ぶのが望ましい。

神戸のJR三ノ宮駅前でペルーの民族音楽
フォルクローレを演奏する3人組。筆者撮影。

新規渡日者の問題 地方参政権問題には、かつての植民地支配の補償という面のほかに、もう一つの側面がある。参政権付与の対象には、少数派とはいえ、一般永住者も含まれている。最初に述べたように、歴史のしがらみとは別に日本に定住する外国人も増えている。「在日」としては、かつて自分たちが選別の対象として苦しんだ歴史がある以上、こういった新規渡日者に対して、選別の姿勢で臨む気にはとてもなれないはずである。そういう意味で、「在日」の問題は新規渡日者の問題につながる。逆に、グローバリゼーションをもとに、外国人の積極的な受け入れを唱えるときにも、それよりずっと前からこの日本に住んでいる「在日」の問題は無視できない。二つの問題は、分けて考えることはできず、全体として私たちの日本社会をどのように変えていけばよいのかという問題なのである。

 帰化する外国人に対して、日本の文化を尊重し、日本の社会にとけこむことを求めたい気持ちは、私とて同じである。しかし、それを先祖の国への愛着を断ち切ることで示せという考えは理解できない。むしろ、外国との関係を良好に保つ上で有用な人材として活用すべきである。また、日本の社会を何も変えないでいいということにはならない。外国人に対して寛容な社会は、日本人にとっても風通しのよい社会となるだろう。地方参政権問題は、同時に、地方自治のあり方に対しても、大きな問題を提起している。多くの外国人児童生徒を迎えるようになった学校をかつてのように国民養成機関と位置付けられなくなったのと同様に、地域経済に外国人が深くかかわるようになった今、自治体も単なる国の下請け機関であってはならないと考えるのである。

日本人と日本社会の問題として 最後に、「外国人」という観念から出発するのではなく、現実から出発することを改めて訴えたい。「外国人」を偏見で見る人は、現実を見ようとはしないので、なかなか変わらない。そういう人の実例は、2ちゃんねるなどの掲示板を見れば、いやというほどお目にかかる。まともな投稿者もいるのだが、まだ日本人てこんな程度なのかと暗澹たる気持になることが多い。もう差別などなくなっているのではという認識の方は一度のぞいてみられたい。地方参政権に反対する人には、国家への幻想の強さが目立つ。人間あっての国家だという当たり前のことが通じない。一人一人に国家から自立しようという意欲がない限り、日本人は外国人から尊敬される存在とはならないし、国家自体の基盤も脆弱なものとなる。その意味で、外国人参政権の問題は、私たち日本人の問題でもあると私は考えている。