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三才の理とハングル
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う |
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イ |
三才とは「天地人」の三つをさす。万物を二つに分ける陰陽の説では天と地が相対立するが、人とは天地の間で循環する万物を代表するものと考えられている。天地の間で常に万物が循環するというのが三才の理であり、ハングルの母音は、この三才の理によって作られている。今日のハングルは、右の表にある@〜Iの10個を基本母音としている(BCHの発音については五行説とハングル参照)が、ハングルがつくられた当時にはこれ以外に・という母音があった。当時の は「エ」という音だったので、この・がむしろ今の に近い発音だったらしい。・は拡大して書くと●であるから丸い天を示し、 が平らな地を示していた。そして は、人の立っている姿である。当初のハングルでは、たとえば は という具合に、これら天地人を示す三つの字母の組み合わせになっていた。しかし、それでは書きにくいので、それぞれ今日のような形に変わり、・も「、」のように書かれるようになり、子音とは のように上下に組み合わされた。 などは拗音を示す文字なので、当時の朝鮮語は基本的に7母音だったということができる。
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『訓民正本』原本より、中声
(母音)が三才の理をもとに
創られたことを記した部分。 |
天は、   では人と組み合わされ と同様、舌が前にある母音を示す。いっぽう   では地と組み合わされ と同様、舌が奥にある母音を示す。そして、朝鮮語では ・は陽母音、  は陰母音とされ、陽母音は陽母音同士、陰母音は陰母音同士で語をつくるのが原則である。 は陰陽の双方と組み合わせ可能な中性母音である。たとえば、朝鮮民族は感きわまったときに  (アイゴー)という。日本人はこれに「哀号」と当て字したが、実際には、うれしいにつけ悲しいにつけとにかく感極まったときに出す言葉である。しかしこれを陰母音で  (オイグ)というと、基本的な意味は同じだがややニュアンスが異なってくる。朝鮮語の動詞では、語幹に または という母音を続けて日本語の連用形に当たる表現をつくるが、そのどちらを用いるかは語幹の最後にある母音の陰陽によって決まってくる。こうして見てくると、ハングルがいかに朝鮮語に即して母音の性質をよくつかんで作られた文字であるかが分かるであろう。基本母音以外の母音は、たとえば今日 は「エ」、 は「ワ」という具合に単母音化しているが、当初は「アイ」「オア」という具合に二重母音を示していた。 が と 、 が と をそれぞれ組み合わせた字母であることはすぐ分かるであろう。このような規則性から、ハングルは初めて文字を学ぶ者にもすぐ覚えられる文字となっている。
三才の理は、字母の組み合わせの原理ともなっている。今日、 という字母は (ア)のように音節の頭で用いられたときには子音がないことを示し、 のように音節の最後で用いられたときにはngという子音を示すという一人二役を演じているが、ハングルが作られた当初には、ngを示す場合には今は用いられない という別の字母が用いられていた。では、 はどんな役割を演じていたのかというと、つねに「何もない」ということを示す記号だったのである。したがって、 は、今のようにringを表すのではなく、単にriと読まれていた。音節の頭に子音がない場合は でも書かないと形がとれないが、わざわざ音節末の子音の不在を示す必要はないように思われる。しかし、天地の間で万物が流転するという三才の理はあらゆるものに示されるべきものだとの考えから、このように常に三つの部分を組み合わせるという方法がなされたのである。
今日、・という母音は済州島方言にのみ残り、今も表記に用いられているが、それ以外の地域では語頭では に、語中語末では に合流して、この字母は用いられなくなっている。そのため、 や がが天地人の組み合わせからできたということがやや不明瞭になっている。ハングルをつくった人たちは、陰陽の説を応用して、音と音の違いを考えるにあたっても、どの一点で違うかということををさがそうと努めた。その結果、現代言語学の二項対立の理論とそっくりな方法で音を分析することができたのである。
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韓国と中国の間の海底光ケーブル
の開通を記念する韓国切手。
中国側は山東半島。 |
ハングルは朝鮮民族だけの知恵で作られたものではない。中国には古くからインドの影響を受けて音韻学が発達し、漢詩の作法の必要もあって、音節を頭子音(声)とそれ以外の部分(韻)とに分けてとらえていた。そして、たとえば「東」という字を「都紅切」として発音を示す反切という方法も行われていた。「都紅切」とは、「都(do)」の頭子音であるdと「紅(hong)」の韻であるongを組み合わせよということであり、「東」がdongという発音であることを示している。そして、韻をさらに母音である韻腹と末子音である韻尾に分けて認識することも行われていた。tianのような音節の場合は、頭子音と母音の間に入るiが「介母」という名で呼ばれていた。ハングル創製の中心人物の一人である成三問(ソン・サンムン)は、山東半島に住む中国の音韻学者の意見を聞くために十度以上も黄海を行き来したという。このような蓄積があればこそ、ハングルは比較的短期間に作られたのであるが、音韻学をもとに新しい文字を作ろうという発想とその成果自体は、李朝の宮廷内の俊秀たちの功績とするほかはない。
ハングル製作の後、宮廷内には中国にない字を作り用いることに対する反対意見が出たが、世宗大王自身がそれをおさえた。そして、宮廷からハングルによって朝鮮語に訳され解説もつけられた仏典や韻書や杜甫の詩集などが相次いで出された。こういう点をみると、ハングル製作の主旨が「訓民正音」の前書きにもあるとおり、人々が自由に自分の意思を表現できるようにすることにあることは確かとしても、漢字にとって代る文字として作られたとまではいえない。初期のハングルには朝鮮語にはない中国語の音の区別を示す字母まであったように、漢文を身につける手段という意味もあったようである。
ハングル創製には悲しい後日談がある。世宗大王の死後、その甥が王位を奪うという事件が起こり、新王に抵抗した成三問らハングル創製にかかわった者の多くが死罪となった。これを浮世離れした言語学者が政治に巻き込まれたなどと理解してはならない。新王の側の中心人物であり、のちに領議政(総理大臣)にまで出世した申叔舟(シン・スクチュ)もまた、ハングル創製の中心人物の一人であった。学問を身につけた者が政治を行う体制の李氏朝鮮では、学者とはイコール高級官僚でもあったのだ。政治もハングルの創製も彼らにとっては、ひとしく国家的事業だったのである。
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