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韓 国 旅 行 の 印 象 記
私がはじめて訪れた外国はアメリカで、学生時代のことだった。生まれて初めて飛行機に乗ったときからカルチャーショックを受けた。となりには韓国に駐留していて帰省中だというGI(米兵)が座っていたが、こちらの英語が不自由なのを承知の上で話しまくるのである。おかげで飛行機を降りたときには、ほとんど一睡もしていなかった。大陸をグレーハウンドという長距離バスで一周したが、となりに座ったアメリカ人が話し掛けてこないということは一度もなかった。帰国のときは日航機で、ほとんどの乗客が日本人だったが、みんなむつーっと押し黙っているのが異様に感じられたものである。
韓国を訪れたのは、それからだいぶたってからのことであった。といっても今からもう20年以上も前の1970年代後半のことである。行った動機はやはり朝鮮語を少しかじったことであろう。在日の人たちを相手にそれを試そうとしても日本語が上手すぎて、何かお芝居をしているような気分にしかなれなかった。そこで日本語を話さない人を前にどこまで通じるかを試してみたかったのである。アメリカ旅行のときと同様、宿の予約は一切していない一人旅である。さいわい旅行のための最低限のことは通じたように思う。ガイドブックにのっていた純韓国風の旅館の写真をみて電話をかけた。電話での会話は手がかりが乏しいだけに大変だったが、道筋をきいてどうにかたどりつくことができた。しかし、旅館はすっかり近代風に改装されていてがっかりしたものである。

李朝時代を代表する建築。水原(スウォン)の華虹門。川の上に建てられた珍しい楼下水門。 |
旅行のための具体的な用件についての会話はどうにかできても、雑談となるとそうはいかない。どんな話題が出てくるか予測がつかないからである。しかし、韓国人はそれでもそう簡単に見放したりはしない。ソウル郊外にある「民俗村」といって李朝時代のさまざまな建物を復元したテーマパークに行ったときには、もっか浪人中という若者が話し掛けてきて、けっきょくすべてを彼の案内で回ることになった。田舎の出身ということで、農家に展示されている民具などの中には自分の家で今も使っているものも多いらしく、一つ一つ使い方を説明するという調子である。町を歩き疲れたときには、喫茶店に入って休んだ。韓国の喫茶店は「茶房(タバン)」といってなぜか地下か二階に多く、一階にあるものはあまり見かけなかった。レジのところにたこやき器のようなものが置かれ、客が注文したものの値段によって違う色をしたチップをそれぞれのへこみに入れ、それをみて計算をしているようである。日本では見なれないやり方なので興味を引かれてみていると、一人で入ってきた男性が横にすわり、私が日本人だと知ると興味を覚えたらしく、あれこれと話しかけてきた。30分ほどたって「仕事があるので、これで失礼」といって出ていった。やがて私が勘定をして出ようとすると、「要らない」といわれる。思わず「ウェー(なぜ)」というと、「さっきあなたと話していた人があなたの分も払った」というので、しばらく開いた口がふさがらなかったものである。韓国人は人におごることが好きである。食堂などで、出ようとする客が言い争っているような声を聞くことがあるが、実は俺が払うと言い合っているのである。割り勘などは到底彼らの性分には合わない。
長距離バスに乗ったときも隣の乗客に話し掛けられた。トイレ休憩でバスを降り、サイダーを買ってきたのだが、一本ではなく、二本買ってきて一本を私に勧めるのである小一時間もとなりにいる相手の前で一人だけ飲むのは気が引けるものらしい。ある町では、切符を買った後、予定したバスより一台おくれたバスに乗ったことがあった。当時の韓国の長距離バスは色がすべて同じなので、みんな同じ会社かと思っていたが、実は一台一台別の会社のものであることが多い。こんな場合は乗る前に切符を交換しなければならないのだが、私はそれを知らずに乗り込んだ。となりは韓服(ハンボク)姿のきつそうなおばさんである。まもなく検札が始まったが、そのときになって私は自分の切符が他の乗客のと色が違うのに気がついた。恐る恐るとなりのおばさんにそのことについてたずねると、突然どなりつけられた。早口で何を言っているのかまるで聞き取れないが、「切符よこせ」というのは分かった。気迫に押されて切符を差し出すとおばさんは若いバスガールをよびつけ、一言いった。「この人、外国人なんだから、まけてあげなさいよ!」 再びびっくりして座席からずり落ちそうになったが、あのおばさんのおかげでかなりの金が助かったことは確かである。一見とっつきが悪そうでも意外に親切な人が韓国人には多い。
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地方都市では、小型犬ぐらいの
大きさの黒やぎをよく見かけた。 |
新羅の古都慶州(キョンジュ)の旅館に泊まったときには、日本人だということで珍しがられた。宿帳を見ても韓国人の名前ばかりである。宿のあるじはほぼ完璧な日本語を話す。小さい旅館なので客同士がすぐお近づきになる。その中に大田(テジョン)の電気屋のおかみさんがいた。昔、日本人の多い学校に通ったとのことで、一度も日本に行ったことがないというのに、日本語は完璧であった。やがて主人夫婦もまじえて泊まり客で宴会のような雰囲気になった。日本人ならこの歌を知っているだろうといって、まだ若い人まで一緒に日本語で歌った歌が、「勝ってくるぞと勇ましく」の「露営の歌」だったのには驚いた。大田のおかみさんはつぎつぎと日本語の歌を歌い、そのたびに私に「この歌知っているか」と聞いた。戦前の流行歌なので、「知りません」を3回ほど繰り返すと、「あんた、本当に日本人か?」といわれた。宿の主人がなにやらぶつぶつ言っている。「イェンナル」(昔)という言葉と「シロ、シロ(やだ、やだ)という言葉が聞こえた。翌朝おばさんと顔を合わすと決まり悪そうに笑っていた。はしゃぎすぎたと思ったのだろうか? 右の写真は慶州にある石仏である。
旅行中、私はチョソンマル(朝鮮語)とかチョソンサラム(朝鮮人)ということばを使うことを避けていたのだが、比較的年配の韓国人の口からは、「チョソンマル」「チョソンサラム」という言葉をきくことも意外に多かった。ハングンマル(韓国語)を話すのに疲れたら、年寄りに話しかければ日本語が返ってくることが多いことは知っていたが、つとめてそれは避けた。麗水(ヨス)という町で老人に朝鮮語で道を聞いた。すると、いきなり日本語で「あなた、いったい、なに人ですか?」といわれた。日本人だというと、「日本人が一人で旅行してるんですか、へーっ」と驚かれた。
日本支配は言葉にもかげを落としている。光州(クヮンジュ)で、大韓航空の営業所がどこにあるかをたずねようと思ったが、営業所という言葉が出てこない。そこで一字一字をハングル読みして「ヨンゴプソ」といってみると一発で通じた。「営業所」は和製の漢語である。和製漢語をそのままハングル読みしている例が朝鮮語にはかなり多い。食堂に入ると「オデン」や「ウドン」や「オムライス」がある。旅館でビールを注文したが、栓抜きがない。そこで栓抜きと言おうとしたが言葉がでてこないので、ジェスチャーで伝え、持ってきてからこれを何というのかときくと{オプノ」という。ちょっと考えると英語であることがわかった。栓抜きは韓国語では「ピョンタギ(壜開け)」というのだそうだが、これはあとで作った言葉で、年配者は「センヌキ」といい、若者は「オプノ」というという。こんなところにもこの国の近代史がかげを落としている。
そのころ私は短い期間に4回韓国を訪れた。しかし、それからもうずいぶん長い間、日本を一歩も出ていない。この文章を書いているうちに、また行きたいという気持ちが湧いて来た。あれから、急速な経済成長をとげた韓国はずいぶんと変わっていることだろう。しかし、豊かな水量をたたえてゆったりと流れる川のように、のんびりしたところも残っていると思う。韓国語の経済的価値も急速に高まったが、あのころは、朝鮮語など習っても使い道がないだろうなどとよく言われたものである。しかし、少しでも言葉が話せるかどうかで、旅行の内容自体が大きく変わってくるということは、どこの国の場合にもあてはまると思う。久しぶりに韓国を訪れるとしたら、さびついた言葉を少しは磨いてから行きたいと思っている。

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