ROFILE

ポイントすると、同じ場所の2001年8月の
光景になります。意外にも、二つのビルに
挟まれている低い建物はおおむね昔のまま。

 1946年に横浜に生まれた。神奈川県は当時沖縄に次ぐ基地県だったので、町には米軍兵士が多く、いたるところに戦争のあとが残っていた。物心ついたころから、戦争の話を日常的に聞かされ、「お前たちは苦労がない」と言われつづけた世代である。そのため、いつまでも大人になれないような気分でいるうちに、いつの間にか50の坂を越えてしまった。メールアドレスのFORTY−SIXERも生まれ年に因んだものである。

 写真は、幼いころの私で、左側にいる近所の子と肩を組んでいる。後ろの建物をみると、右から牛肉、牛なべ、金華(中華料理店)とならんでいるが、金華のもう一つ左隣で母は喫茶店を営んでいた。道路をはさんで手前に祖父の材木屋があった。肉屋の右側はたしか利久庵というそば屋だったと思う。横浜の人にしか分からないだろうが、場所は東横線の反町(たんまち)駅から青木橋のほうに進む途中であり、今ではまったく昔の面影はない。道路もまともに舗装されておらず、木の電柱なども時代を感じさせる。また、この写真でははっきりしないが、二人とも下駄ばきである。

 信太(しだ)という読みにくい苗字は、母方のものである。生まれたときには、、父方の小川という、いたって平凡な苗字で日本国の戸籍に載せられた。2歳のとき、両親が別れ、母方の戸籍に移って信太一郎となった。「信太」という姓は、正しく読んでもらえることがほとんどない。母方の祖父母は秋田県の人で、当地に信太姓は珍しくない。小さいころには郷里の親戚がよく我が家に来ていた。親戚同士の会話は、外国語にしか聞こえなかった。ドラマでやっているようななまやさしいものではない。父とうまくゆかずに別れた母は私を連れて実家に戻り、間もなく再婚した。相手は李という在日朝鮮人である。新しい父は一世なので、友達との会話は朝鮮語である。秋田弁は細かく区切って話すと通じることも多いが、朝鮮語は当然無理である。秋田弁も日本語であることを実感した。こんな体験が、私に言葉への関心を引き起こしたのであろう。

 大学時代は京都で過ごした。一度卒業しながら専攻を変えて学士入学するなど、長い学生生活だった。その後半には言語学を熱心に勉強した時期があったが、けっきょく高校の国語教師に落ち着いた。言語学の知識は当時からさほど進歩しているわけではないし、むしろさびついているぐらいだが、自分自身の勉強も兼ね、教師の経験を踏まえて、分かりやすく語れないだろうかと考えた。大学の言語学研究室のホームページなどかなり多いのだが、講座や文献の紹介が主である。「ことばの散歩道」は、普通の人が気軽に入れるページを意図したものだが、その意図がどこまで実現できたか、まだまだ心もとない。

 「となりの国の話」という欄を設けたのは、新しい父の連れ子とも一緒に生活したときの記憶から、となりの国への関心が言語だけにとどまらないからである。日本人はとなりのことをまだまだよく知らない。知らないだけならいいが、誤解もしている。となりの国を知れば、日本について分かることも、ぐんと増えるだろう。そんな思いで、十年前、「朝鮮の歴史と日本」という本を出版した。さいわい第4刷となり、今も刊行中である。本HPに収録した虎がタバコをすっていたころは、その前書きである。となりの国はいま南北に分かれ、全体をさしてどう呼べばいいのかに苦慮するが、私は全体をさすときには、原則として「朝鮮」と呼ぶ。それは、養父が自分を朝鮮人とよぶ人だったために、むかしからなじんでいたためである。

 HP開設以来、ほぼ2年を経て、「ことばの散歩道」をメインとし、「隣の国の話」が第二テーマといった感じのサイトとなった。しかし、私が最初にHPを開こうと思った最初のきっかけは、第三テーマとなった「選挙制度」について自分の意見を多くの人に聞いてもらいたいと思ったからである。そのため、このサイトも、初期には、「日本語・KOREA・選挙制度」という、まるで三題噺のようなタイトルになっていた。今も、本来は「選ぶ側」の権利の問題であるはずの選挙制度の問題が、もっぱら「選ばれる側」によって、「選ばれる側」の問題意識ばかりで論じられ、メディアもそのことのおかしさをほとんど指摘しないことに強い疑問を感じている。

 三つのテーマに以外に、どうしても書きたいと思ったことがあるときのために、「雑考雑記」という欄も設けた。しかし、そののち、「日記」を設けたため、この欄は、とくに長く論じたいテーマがあるときだけ更新している状況である。いろいろと欲張ったサイトとなったが、広く目を通していただき、雑多な文章がどこかある一点でつながっていることをお読み取り頂けたら幸いと思っている。

 すでに50歳の峠を越え、初めは大学だけと思っていた関西にすっかり腰を下ろしてしまった。母方からみれば、南下の一途をたどっているが、父方が黒潮洗う三重県の南紀地方であるせいかも知れない。こんな遠くに離れた両家がなぜ結びついたかというと、私の父方の祖父と母方の祖母が、旧満州で師弟の関係にあったという因縁からである。日本の対外膨張政策がなければ、自分は生まれてこなかったし、内面的に大きな影響を受けた養父にもめぐりあうこともなかった。一人一人の人間の誕生にもその後の生涯にも、歴史は深くかかわっているのだと思う。

2001.11.03 信太 一郎 記

   

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