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大阪に残る古代朝鮮 百済郡の残照 東住吉区には、西日本最大の貨物駅である百済駅がある。同区内には、市立南百済小学校、百済本通商店街、百済大橋などもあって、古代朝鮮の国名である百済の名を今に残している。今の東住吉区から平野区、生野区、東成区の南部にかけて摂津国百済郡が置かれたのは、西暦六六〇年の百済滅亡から間もないころのことだったと思われる。多くの亡命者が日本に渡ってきたのは、百済がもともと朝鮮半島で最も日本と親密な国だったためである。亡命者の中には王族も含まれ、渡日後まもなく有力な役職に任じられたものも多い。
スサノオの末裔 神社といえば、純日本的なものと思われがちだが、その中には朝鮮ゆかりの神々をまつるものが意外と多い。その一例として、ここでは八坂神社をあげておきたい。八坂神社の総本社はいうまでもなく祇園祭で有名な京都の八坂神社であるが、この神社は渡来人の有力氏族である高麗(こま、狛)氏が建てたものであり、その祭神はスサノオノミコトとなっている。『日本書紀』によれば、高天原(たかまがはら)を追われたスサノオノミコトは、まず新羅の曽尸茂梨(そしもり)という所に行き、そこから出雲の国に来たという。曽尸茂梨という地名の意味は、朝鮮語でソ(牛)シ(の)モリ(頭)と解され、スサノオノミコトの別名牛頭(ごず)天王とも符合する。大阪市内には八坂神社という神社が八社もあり、ほかに、素戔嗚(すさのお)社、牛頭天王社という神社もあって、いずれもスサノオノミコトをまつっており、古代の大阪と朝鮮半島とのつながりの深さを物語っている。 聖徳太子と大阪 日本の古代を代表する人物といえば、誰しも聖徳太子の名をあげるであろう。政治をとりしきり、とりわけ外交の分野で業績をあげた。太子が飛鳥の都を離れて斑鳩(いかるが)に本拠地を構えたのも、斑鳩の地が古代日本の玄関口であった難波に近いためであった。太子の創建とされる大阪の四天王寺は、その伽藍配置が百済式である。当時の日本は権力争いの絶えない血なまぐさい時代だった。その中で、太子は外交を重視して新羅・百済・高句麗の人びとと密接はつながりを持った。とりわけ高句麗の高僧慧慈(ヘジャ、えじ)の影響は多大であった。しかし太子の死後、その一族(上宮王家)は皆殺しの悲運に見舞われる。
行基安住の地 百済系の依羅(よさみ)氏の氏神である阿麻美許曽(あまみこそ)神社(東住吉区矢田)の境内に、「行基(ぎょうき)菩薩安住之地」と書かれた石碑が立っている。奈良時代の高僧として、その師の道昭とともに、民衆への伝道に力を入れた行基は、同時にすぐれた土木技術を持ち、民衆の生活に役立つ池などの灌漑設備や橋の造営にも力を入れ、都での工事に駆り出されたり都に貢ぎ物を運ぶ貧しい人々を泊め、食事を提供する布施屋という施設を各地につくった。行基は今の堺に生まれた人であり、その活動の舞台も今の大阪府が中心となっていた。朝廷もその人望を無視できなくなって大僧正に任じたが、行基菩薩という称号は、民間から自然に生まれたものである。行基をはじめ道昭、義淵、良弁(ろうべん)といったこの時代の有名な僧はすべてといっていいほど、渡来人の子孫であった。平野区瓜破(うりわり)にある敬正寺(きょうしょうじ)は、行基の師、道昭が創建した寺である。
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