この電車、
池袋に行きますか?

(関東と関西)

 私は大学に入るまではずっと首都圏で育った。今では関西暮らしのほうがはるかに長いが、年に一、二回は帰省のために東に舞い戻る。東京駅で横浜方面に行く電車を待っていたときのことである。発車間際になって和服姿の中年女性があたふたとホームに駆け上り、私の乗っていた車両をのぞきこんで、「この電車、池袋に行きますか?」とたずねた。その途端に車内が大爆笑になったのには驚いた。一人、二人がくすくす笑うのならまだしも、期せずして一斉に笑いが起こるのだから不思議である。 

上は新横浜駅、下は新大阪駅で筆者撮影。
2002年3月25日の日記参照。

 関東の人にこの話をすると、「そりゃ、そうだろう」とうなずく。関西の人に話すと不思議そうな顔をする。場所を大阪駅、電車を神戸方面行き、たずねた駅の名が鶴橋か天王寺と設定を変えてみても、関西なら誰も笑わないにちがいない。私があの場の雰囲気に違和感を感じたのは、関西人になったから、というより、関東人でなくなったからであろう。関東人という共同体意識からいつの間にか外れていたのである。

 もう一つ、八王子に行ったときのことである。私が横浜に住んでいたころには行ったことのない町である。JRの八王子駅を降りて、京王の八王子駅がどこかを改札の駅員にたずねるつもりだったのだが、なぜか「京成の八王子はどこですか?」とやってしまった。おかげで、「京王でしょっ!」と怒られる羽目になった。京王と京成とではステータスが違うのだろうか? 関西でも阪急と阪神の間にステータスの違いがあるというが、これほどではない。それにしても、あの駅員の言葉に東北なまりがあったのは気になった。

朝日新聞の題字も、背景が
東京はサクラ、大阪はイネ。

 思うに、東京は江戸幕府の成立以来、一貫して実質上の権力のお膝元であった。そこに生まれ育つと、いつの間にか他の土地への優越感が心に座を占めるようになるものらしい。無意識だからこそ、一斉に笑いが起こったのだと思う。私の知っているある関西人が東京から帰ってきて、「東京のやつはみんな嘘をつく」という。聞いてみると、道をたずねると知ったかぶりをして適当に教えるというのである。そのため、たずねた方はさんざん道に迷うことになる。知らんのなら知らんと言えばいいのに、と憤慨していた。生粋の江戸っ子と思われたい心理が嘘ととられるのかも知れない。これに対して、関西は京都も大阪も商人の町だったから、遠方からくる人を馬鹿にせず、客として大事にする伝統があるのだという。

 一方、私が関西に来て驚いたことが二つある。一つは、道を尋ねると誰もが当たり前のように、「北」とか「西」とか言うことである。「右」とか「左」とか言ってくれないと分からないと思ったものだが、今ではすっかりなれた。京都は三方山に囲まれた土地だから、見まわして山のない方が南だと思えばいい。神戸は山と海に挟まれた町だから、山のある方が北だと思えばいい。しかし、大阪では自然の景観は役に立たない。その大阪でも左右ではなく、東西南北で答える人が多い。中心部の通りが格子状になっているからであろうか? そういえば、東京や横浜の道はくねくね曲がっていて、あの道がどこに出るのかという話題がけっこう多かったことを思い出した。 

 もう一つ関西に来て驚いたことは、一口に京阪神というが、互いのつながりがそれほど強くないということである。とくに京都の人はあまり大阪に行くことはない。京都も神戸も昼の人口が夜の人口を上回っている。これに対し、横浜は、人口では大阪をしのいでいるが、面積が2倍以上もあること、昼の人口より夜の人口の方が多いことを考えると、これはだいぶ割り引いて考えなければならない。

 人間は誰しも生まれ育った土地に愛着を持つ。しかし、それが排他意識につながるとすれば問題である。関東と関西ぐらいならご愛嬌だが、日本と外国ということでみると、話が深刻になることがある。一斉に笑いが起こるということは、無意識の笑いであればあるほど恐ろしいもののようにも思えてくる。生まれ育った土地から離れると、感覚も比較的自然に変わるが、ずっとその土地にいると、その呪縛から逃れるにはかなりの努力と想像力を必要とする。その点で、私は関西に移住したことをよかったと思っている。