言葉は道具か?

かめたなさんのイラストを許可を
得て転載。「目黒市松制作室」→
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と原画が、フルサイズで見られる。

 「生まれる」という言葉が受身形であることに初めて気がついたのが、中学校の英語の授業で"I was born."という例文を習ったときだという日本人は多いだろう。そして、日本語でも英語でもたまたま同じような表現をする(しない言語も多い)ことを印象深くおぼえていることだろう。"I am born."などという例文がありえないため、この例文は英語の授業がかなり進んでからようやく出てくる。言うまでもなく、生まれた時点で「私」など、まだ成立していないからである。「私」が成立しているといえるのは、少なくとも「生まれた」赤ちゃんが「僕」とか「私」とかいう言葉を使いこなせるようになる時を待たなければならない。

 生まれてすぐに立ち上がり、まもなく走りだしさえするウマの子に比べれば、ヒトの子はいかにも頼りない未熟な状態で生まれてくる。しかし、ここにこそ、ヒトの子が人間になる鍵がある。自分を取り囲む環境を学ぶことでヒトの子は成熟してゆく。そのことで環境を第二の天性として取り込むことで、ヒトの子は人間となってゆく。ウマの子のように、胎内であまりにも育ち過ぎていては、このようなことは不可能になってしまう。

 では、ヒトの子が生まれ、その中で育つ環境とは、どのようなものであろうか? その環境は、ヒトの子しか経験できない独得なものである。ヒトの子の周りには、いつとも知れぬ遠い昔から蓄積されてきた「文化」によって組織された「社会」が広がっている。その真っ只中に、ヒトの子はオギャーと生まれ、「社会」の中の存在となるように育てられる。そして、人間の社会とは言葉の飛び交う社会であり、「言葉」によって組織された社会なのだから、「言葉」がヒトの子の成長に及ぼす力は計り知れない。

 しかし、「社会」は、この地球上において一様ではない。「社会」を組織する「言葉」も地域によってまるで違う。そして、社会のあり方は、言葉によってかなりの程度まで規制を受ける。たとえば、私たち日本語人は、「兄」と「弟」、「姉」と「妹」とを言葉で区別する社会に生まれた。そして、「兄」「弟」「姉」「妹」というのが、どのような存在であるのか、あるいはどのような存在でなければならないのかを学びながら育ってきた。そのため、年齢を区別せずbrother,sisterという言葉を用いる社会で育った子供とは違った扱いを大人たちから受け、みずからも自分の同胞(はらから)に対して違った接し方をするようになる。そういった過程(課程?)を経て、日本語人の子供は「僕」とか「私」とかいう言葉を使い始める。その時にこそ、「僕」とか「私」とかが成立するのである。

 よく、「〜語を使う」という表現がある。「使う」という以上は、言葉を一種の道具のように思っているのであろう。事実、言葉を道具のように使う例がないわけではない。会話の中に英語をむやみに交える人は、自分がその程度の英語も知らないような無教養な人間ではないということを印象付ける道具として英語を用いている。かつてケネディは、西ベルリンでの演説の中で、"Ich bin ein Berliner."(私はベルリン市民だ)というドイツ語を、アメリカの力を誇示する道具として用いた。しかし、こういった例は、いずれも、自分を育てた言葉ではないことを見逃してはならない。二つの言語が境を接し、誰もが二つの言語が話せて当然の地域では、誰もこのようなわざとらしい言葉の「使い」方をしない。

 自分を育てた言語を、私たちは道具として用いることはできない。誰かに「バカ」と言われたとする。相手が自分の考えるような意味で「バカ」と言ったのではないということが分かったあとでも、私の怒りはなかなか収まらない。自分が自分の考える「バカ」という言語範疇に分類されたこと自体が許せず、そこにこだわるからである。このようなとき、私たちは、言葉を道具として用いているのではなく、むしろ言葉に道具として用いられているのだと考えることもできる。社会に飛び交う音声としての言語にどんな意味を結びつけるかは、個々人により少しずつ違う。人に「明石家さんまに似ている」と言われて喜ぶ人も怒る人もいるだろう。

 言語が違うと、誤解の可能性は格段に高まる。「蛸」と聞いて思わず生唾を飲み込む日本人と、"octopus"と聞いただけで不気味な怪物を思い浮かべるイギリス人との間では、意志の疎通がうまく行かないときも多いだろう。言語には、それぞれ異なった連想の体系がある。ある特定の言語の連想体系が、私たちの人格の中核をなしているのである。言語が違っても、通訳、翻訳によって意思を通じることはもちろん可能である。それが可能になるのは、地球上の人類がすべて一つの種(しゅ)に属し、同じような身体と生理をもっているため、その生活もおのずから似たものになるからである。そのため、言語も文化も社会も、互いに違いよりは共通性の方が大きい。しかし、「自分」とは何かという微妙な点になってくると、言語の壁は決して薄いものでも低いものでもない。

鹿鳴館で踊っていたのは
一握りの特権階級。今が
大衆化した鹿鳴館時代で
中身がそのままだったと
したら、何のための明治
100年だったかという
ことにもなりかねない。

 物質文明のあまりの落差に驚いた明治のころ、森有礼という文部大臣が、日本語を廃止して英語を国語にしようと唱えたことがある。国家が戦争に負けたぐらいのことで、日本の文化までが否定されたかのように思い込んだ第二次大戦後、志賀直哉という作家が、フランス語を国語にしようと唱えたことがある。いずれも、日本の文化が、ひいてはこの社会を形成する私たち一人一人の人格が、言語とは無縁に成立しているような錯覚に陥っていたと言わざるをえない。日本語の場合、文化を作り上げる連想体系は、音声のみならず文字を通じても緻密に組織されている。薄っぺらな漢字廃止論には、そのことへの自覚が欠けている。森や志賀の場合、言語が大切なものだという認識を一面では持っていたのであろうが、そもそも物質文明など言語とは無縁に成立するものだという認識を欠いている。人類が大昔から言語の壁を越えて交易を続け、さまざまな物資が地球上に行き渡るようになったという歴史が、そこでは忘れられているのである。

 意識しているかどうかは別として、誰もが自分にとって快適で、自分自身にも満足のできる人生を送りたいと思っている。言い換えるなら、自分の文化を守りたいと思っている。便利さとか豊かさを獲得するにしても、自分は自分であるということを空気のように当たり前のこととして受け入れた上で獲得したいと思っているはずである。長い年月をかけて蓄積されてきた文化より、当面の便利さばかりを優先させようとするのが、現代の日本人である。それは、外から自分たちの文化を肌身に触れて脅かされない体制をかたくなに守ったまま、便利さと豊かさと歴史の偶然で手に入れた、この島国においてこそ成立しえた迷妄に過ぎない。

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