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大阪をひらいた渡来人
生まれ変わった大阪平野 『日本書紀』の巻十一(仁徳紀)には大阪平野で行われた治水工事の記事が目立って多い。難波(なにわ)の堀江という排水用の運河、茨田堤(まんだのつつみ)、和珥池(わにのいけ)、横野堤(よこののつつみ)、猪甘津(いかいのつ)の小橋(おばし)などの工事が、渡来人の指導のもとで行われたという。その実年代は、朝鮮半島からの渡来が一つのピークを迎えた五世紀ごろのことと思われる。こうして大阪平野は、みちがえるほど住みやすい土地に生まれ変わった。大阪平野に基盤を築いた渡来人たちは、さらにその後背地である河内や大和にも進出して、住みつくようになった。 国づくりに貢献した渡来人 飛行機が大阪空港に近づくと、巨大な古墳が密集しているのが眼下に望まれる。毎日千人もの人が働いても完成までに数年もかかる、このような巨大な古墳がさかんにつくられるようになったのは、五世紀に入ってからのことだった。それは、河内から大和にかけて成立した政権が、この地に密集して住む渡来人の力を大いに活用して、それまで小さな国に分かれていた日本列島を、急速に統一してゆく力を得たことを物語っている。渡来人たちは、土木、建築、製鉄、織物、製陶、農耕、牧畜などの広範な分野で、それまでの日本列島になかった進んだ技術をもっていた。さらに百済をはじめとする国々から仏教が伝えられ、それとともに仏教美術も日本列島に根づいてゆくことになる。
アカル姫の伝説 『摂津国風土記』の伝説は、日本最古の歴史書である『古事記』に、より詳細に語られている。新羅の国でのことである。一人の女が沼のほとりで昼寝をしていた。とつぜん日光が虹のような色を帯び、女の体に差しこんだ。女は身ごもり、たちまちのうちに美しい赤い玉を生み落した。それを見ていた男が玉を譲り受け、肌身離さず持ち歩くようになった。ある日、男が牛を連れて山に入ろうとしたとき、新羅王子のアメノヒボコ(天之日矛)がそれを見とがめた。こっそり殺して食うつもりであろうというのである。男は赤い玉を差し出すことで、ようやく許してもらうことができた。王子が玉を宮殿に持ちかえると、玉は美しい女に変身した。王子はその女を妻としたが、日ごとにわがままになる王子にたえかねた女は日本へのがれていった。王子も後を追って難波津まできたものの、渡しの神に上陸をはばまれ、やむなく迂回して但馬(たじま)の国(兵庫県北部)にたどりついて、そこに定住したという。女の名はアカル姫(阿加流比売)といい、難波の比売許曽(ひめこそ)の社にまつられたという。いま東成区の東小橋にある比売許曽神社は、はじめ天王寺区の真田山にあったが、のち織田信長の兵火に焼かれ、今の地に移ったと伝えられている。祭神のアカル姫は新羅の国の女神とされている。このほか、中央区の高津神社、東住吉区の楯原神社、平野区の赤留比売命(あかるひめのみこと)神社、西淀川区の姫島神社など、アカル姫をまつる神社が大阪には数多い。
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| 背景は道頓堀川にかかる戎橋。ナンパの名所として有名で、「引っかけ橋」の通称がある。阪神ファンがダイブすることでも有名。大阪は、今も昔も水の都。 | ||