2005/11/20 日曜日 盛岡に津波が来る?
2005/11/16 水曜日 小寺の小僧
小さい寺の小僧といえば、僧侶に対する最大の侮辱であろうが、奈良時代を代表する高僧である行基も、「小僧行基」と罵られたことがある。朝廷の許しを得ずに民衆に布教していたためだが、後に大僧正に任じられた。 行基は奈良時代の人だが、平安時代の摂政宅で、或る僧がこの庭の「きだち(木立)」は素晴らしい」と褒めたところ、傍らにいた木寺(きでら)の貴増(きぞう)という僧が、「"きだち"ではなくて"こだち"だろう」と茶々を入れた。「木立」の読み方としては、茶々を入れた貴増のほうが正しいのだが、言われた僧は開き直って、「それならこれから貴僧を"こでらのこぞう"と呼びましょう」と切り返したという。今昔物語にある有名な話であり、物識りぶって、逆に恥をかいたという話である。 今年の九月に行われた大阪府の豊能町(島田紳助氏も1票を投じたと思う)の町会議員選挙で、わずか1票差で次点に泣いた「小寺(こでら)正人」氏が最下位当選者の当選無効を求めて訴訟を起こした。それより上位の当選者の中に「木寺(きてら)喜義」という人がいたため、話がややこしくなったようである。ことは、「小寺」氏と最下位当選者の争いであり、どう転んでも「木寺」氏の当選は動かず、高見の見物をしていることだろう。 詳細は下記に譲るが、この問題はしばらく尾を引きそうである。
http://www.town.toyono.osaka.jp/election/tyougi/20051028.html 2005/11/07 月曜日 「おでん」にまつわる四方山話
http://www.odengaku.net/ 2005/11/06 日曜日 天の橋立
「まだふみもみず天の橋立」は、百人一首で知られる「大江山いくのの道の遠ければ」の下の句である。作者は小式部内侍という女性で、この歌を作ったとき、まだ15歳だったという。数え年齢だから、今なら中学2年生だろう。小式部内侍の母は和泉式部といい、当時の貴族社会でつとに知られた歌人であった。百人一首にも、「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」という和泉式部の歌が選ばれている。 丹後守となった夫とともに母が丹後の国に下っていたとき、小式部は、社交界デビューとしての歌合せに出ることになった。それまでにも歌をたくさん作っていたのだが、貴族社会の中では、年齢の割にあまりにも上手なため、きっと母に代作してもらっているのだろうという噂が立っていた。歌合せの席で藤原定頼という男が寄ってきて、「お母さんが遠い丹後にいて、さぞ不安でしょう」と声をかけた。「いつもお母さんに代作してもらっているのでしょう」と言ったわけではないが、その意を察してむっとした小式部がその場ですらすらと詠んだ歌が「大江山〜」の歌だと伝えられている。 このイヤミな定頼という男は、当時日本一の歌の達人として定評のあった藤原公任(きんとう)の息子である。公任の「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」も定頼の「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに現れわたる瀬々の網代木」も、ともに百人一首に選ばれているのだから、当時の貴族社会がいかに狭い世間だったかがうかがえる。小式部内侍の「大江山〜」の歌は、要するに「丹後の国になど行ったこともない、私の歌は母の代作などではない」という抗議の歌だと伝えられている。 天の橋立近くの宿はすべて観光旅館かホテルなので、宮津市内の安いビジネスホテルに泊まった。駅前で借りた自転車を飛ばせば、天の橋立へは15分ぐらいで行け、橋立を渡り切るのにも(帰りには)15分ぐらいしか、かからなかった。橋立を通りぬけることが許されているのは自転車と175cc以下の原付だけで、自動車はずっと遠回りをしなければならない。 橋立を渡り切って少し行ったところにある傘松公園からは、橋立や遠く若狭湾や日本海を一望することができた。江戸時代の貝原益軒が「日本三景の一」と評したというが同感できた。台風により砂浜が削り取られ、かなりの松が倒れたとは聞いていたが、それ以前を知らない私は、橋立を往復して自転車で通ったことに十分に満足した。平均して幅80mという狭い道の片側だけから波音が聞こえるのも不思議な体験だった。この記事の最初に掲げた画像は、自転車を借りるときに受け取った天橋立観光協会のパンフをスキャンしたものである。私が見たときより砂浜が広く、松の緑が濃い印象を受ける。 宮津市歴史資料館には雪舟(のレプリカ)をはじめ、中世・近世の橋立の絵があるのだが、いずれも橋立は海の途中で切れていて、外海と橋立で仕切られた阿蘇海との間にはかなりの隙間がある。それでも、阿蘇海沿岸の漁民からは、橋立のために海が汚れて魚が減るので、途中でちょんぎってくれという陳情があったが、宮津藩はこれに応じなかった。今日の橋立は当時よりさらに南側に向かってのび、ほとんど阿蘇海を外海から遮断しているが、2ヶ所に橋がかけられ、阿蘇海と外海の水を循環させている。さらに、橋のうちの一つは、船を通すための廻旋橋(回転式の橋)となっている。上に紹介したパンフの一部を右に添えるので、クリックして拡大されたい。江戸時代の宮津は、武士を除いても7千人もの人口があったという。江戸時代としてはかなりの大都市と言えるが、今日ではしっとりと落ちついた田舎町であった。
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