よしなしごと2005年11月


 天の橋立  「おでん」にまつわる四方山話
小寺の小僧  盛岡に津波が来る?


2005/11/20  日曜日  盛岡に津波が来る?  
 岩手県の盛岡で聞いた話である。1960年のチリ地震津波のとき、盛岡に津波が来るという噂が立ち、本気で心配した人もいたという。

 盛岡は内陸の都市であり、津波が達するには険しい北上山地を越えて来なければならない。そうなったら、日本列島のほとんどが沈没することだろう。パニックになると人間はどんなことでも信じるものらしい。 今日、たまたま虚構新聞社という笑撃的なサイトを発見した。我々の思考の前提にどのような常識があるのかを見直すのに便利なサイトである。発信元は滋賀県と思われる。

2005/11/16 水曜日 小寺の小僧  
 小さい寺の小僧といえば、僧侶に対する最大の侮辱であろうが、奈良時代を代表する高僧である行基も、「小僧行基」と罵られたことがある。朝廷の許しを得ずに民衆に布教していたためだが、後に大僧正に任じられた。
 行基は奈良時代の人だが、平安時代の摂政宅で、或る僧がこの庭の「きだち(木立)」は素晴らしい」と褒めたところ、傍らにいた木寺(きでら)の貴増(きぞう)という僧が、「"きだち"ではなくて"こだち"だろう」と茶々を入れた。「木立」の読み方としては、茶々を入れた貴増のほうが正しいのだが、言われた僧は開き直って、「それならこれから貴僧を"こでらのこぞう"と呼びましょう」と切り返したという。今昔物語にある有名な話であり、物識りぶって、逆に恥をかいたという話である。
 今年の九月に行われた大阪府の豊能町(島田紳助氏も1票を投じたと思う)の町会議員選挙で、わずか1票差で次点に泣いた「小寺(こでら)正人」氏が最下位当選者の当選無効を求めて訴訟を起こした。それより上位の当選者の中に「木寺(きてら)喜義」という人がいたため、話がややこしくなったようである。ことは、「小寺」氏と最下位当選者の争いであり、どう転んでも「木寺」氏の当選は動かず、高見の見物をしていることだろう。
 詳細は下記に譲るが、この問題はしばらく尾を引きそうである。

http://www.town.toyono.osaka.jp/election/tyougi/20051028.html

2005/11/07 月曜日 「おでん」にまつわる四方山話  
 学生時代、深夜によく下宿の近くにある屋台のラーメンを食べに行った。屋台といっても引いて歩く屋台ではなく、いつも同じ所に出す露店のようなもので、三十人ほども入れるスペースを幕で囲っていた。最近、このような固定屋台はもちろん、引いて歩く屋台も、昔よりは少なくなったような気がする。カップ麺が普及したせいもあるかも知れないが、それに代わって普及したコンビニのおでんのせいもありそうだ。「おでん」については、下記のサイトに敬意を表して詳細を譲りたい。
http://www.odengaku.net/

 ロール・キャベツのような洋物も加え、今のおでん種は豊富だが、やはりおでんらしいおでん種といえば、ちくわやはんぺん、ごぼてんや薩摩揚げといった「練り物」であるように、私には感じられる。練り物とは、魚をまるごとすりつぶして固めたものの総称である。かまぼこもこれに含まれるが、おでん種に使われることはめったにない。

 不思議なことに、上記のような意味での「練り物」という言葉は、かの広辞苑にも載っていない。「ねり固めて作ったもの。得に、種々の薬物をねって珊瑚や宝石などに似せて造ったものや、餡・求肥その他をねり固めた菓子などにいう」という項目と、「祭礼の時などにねり行く踊屋台・仮装行列または山車の類」という二つの項目があるばかりで、私が真っ先に思い浮かべるちくわやはんぺんへの言及はない。

 先に紹介したサイトの下記の記事にも載っていることだが、韓国でも「おでん」は普及している。日本語そのままにハングルで「オデン」と書かれていることを25年前に目撃して驚いた。おでん種も多くが日本と共通だった。そのとき、日本でいう「練り物」を韓国では何というのかが気になったのだが、市場で「オグヮ」という総称で売られているのを目撃した。ハングルで書かれていたが、「オグヮ」が「魚菓」という漢語であることは明らかだと思った。

http://www.odengaku.net/kaigai/index.html

 ところが、この「魚菓」という言葉が、「練り物」同様、辞書には載っていないのである。大阪外国語大学朝鮮語研究室が編集して角川書店から出ている「朝鮮語大辞典」にも載っていないし、韓国で出た辞典にも(私の手持ちの範囲内では)載っていない。こんな腹にこたえる言葉を載せていないのは、編集グループの怠慢ではないかという気がしてくる。

 もう一つ気になることは、おでんが東日本と西日本のどちらで発祥したのかということである。私は、関東で生まれ育ち、大学に入って以来関西に住んでいるのだが、大学生活を始めたころ、「おでん」というのれんより「関東煮」というのれんでおでんを売っている店が多いのに驚いた。「関東煮」は「かんとうだき」と読む。関東で「魚を煮る」というのを関西で「魚をたく」というのにとまどったのもそのころである。関東で「たく」という動詞は、今でもまず御飯を炊くときにしか使わないのではないかと思う。

 それから40年、関西でも「関東煮」という言葉はほとんど死語となっている。生まれも育ちも関西の子供(教師をしているだけに接する機会は多い)の多くがが聞いたこともないという。しかし、「魚をたく」という言葉は、今でもよく聞くことがある。日本の食文化の多くは西日本発祥と思うが、関西で「関東煮」と言われていた以上、おでんの発祥地は東日本なのではないだろうか?

2005/11/06 日曜日 天の橋立 
 先日、休みを利用して、生まれて初めて日本三景の一つである天の橋立(天橋立)に行ってきた。松島と厳島には2回ずつ行ったことがあるのに、関西に住みながら最も近い天の橋立は、まさしく、「まだふみもみず天の橋立」という状態だったのである。
 「まだふみもみず天の橋立」は、百人一首で知られる「大江山いくのの道の遠ければ」の下の句である。作者は小式部内侍という女性で、この歌を作ったとき、まだ15歳だったという。数え年齢だから、今なら中学2年生だろう。小式部内侍の母は和泉式部といい、当時の貴族社会でつとに知られた歌人であった。百人一首にも、「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」という和泉式部の歌が選ばれている。
 丹後守となった夫とともに母が丹後の国に下っていたとき、小式部は、社交界デビューとしての歌合せに出ることになった。それまでにも歌をたくさん作っていたのだが、貴族社会の中では、年齢の割にあまりにも上手なため、きっと母に代作してもらっているのだろうという噂が立っていた。歌合せの席で藤原定頼という男が寄ってきて、「お母さんが遠い丹後にいて、さぞ不安でしょう」と声をかけた。「いつもお母さんに代作してもらっているのでしょう」と言ったわけではないが、その意を察してむっとした小式部がその場ですらすらと詠んだ歌が「大江山〜」の歌だと伝えられている。
 このイヤミな定頼という男は、当時日本一の歌の達人として定評のあった藤原公任(きんとう)の息子である。公任の「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」も定頼の「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに現れわたる瀬々の網代木」も、ともに百人一首に選ばれているのだから、当時の貴族社会がいかに狭い世間だったかがうかがえる。小式部内侍の「大江山〜」の歌は、要するに「丹後の国になど行ったこともない、私の歌は母の代作などではない」という抗議の歌だと伝えられている。
 天の橋立近くの宿はすべて観光旅館かホテルなので、宮津市内の安いビジネスホテルに泊まった。駅前で借りた自転車を飛ばせば、天の橋立へは15分ぐらいで行け、橋立を渡り切るのにも(帰りには)15分ぐらいしか、かからなかった。橋立を通りぬけることが許されているのは自転車と175cc以下の原付だけで、自動車はずっと遠回りをしなければならない。
 橋立を渡り切って少し行ったところにある傘松公園からは、橋立や遠く若狭湾や日本海を一望することができた。江戸時代の貝原益軒が「日本三景の一」と評したというが同感できた。台風により砂浜が削り取られ、かなりの松が倒れたとは聞いていたが、それ以前を知らない私は、橋立を往復して自転車で通ったことに十分に満足した。平均して幅80mという狭い道の片側だけから波音が聞こえるのも不思議な体験だった。この記事の最初に掲げた画像は、自転車を借りるときに受け取った天橋立観光協会のパンフをスキャンしたものである。私が見たときより砂浜が広く、松の緑が濃い印象を受ける。
 宮津市歴史資料館には雪舟(のレプリカ)をはじめ、中世・近世の橋立の絵があるのだが、いずれも橋立は海の途中で切れていて、外海と橋立で仕切られた阿蘇海との間にはかなりの隙間がある。それでも、阿蘇海沿岸の漁民からは、橋立のために海が汚れて魚が減るので、途中でちょんぎってくれという陳情があったが、宮津藩はこれに応じなかった。今日の橋立は当時よりさらに南側に向かってのび、ほとんど阿蘇海を外海から遮断しているが、2ヶ所に橋がかけられ、阿蘇海と外海の水を循環させている。さらに、橋のうちの一つは、船を通すための廻旋橋(回転式の橋)となっている。上に紹介したパンフの一部を右に添えるので、クリックして拡大されたい。江戸時代の宮津は、武士を除いても7千人もの人口があったという。江戸時代としてはかなりの大都市と言えるが、今日ではしっとりと落ちついた田舎町であった。
 傘松公園で、ふと自分自身の写真をとっていないのに気がついた。誰かにシャッターを押してもらおうと思ったところ、はたち前後の4人組の女性にみんなで写りたいのでシャッターを押してくれと頼まれた。渡りに舟とばかり、代わりに撮ってもらうときに、「股のぞきはしたくないけどね」と言うと笑われた。公園内にはところどころ「股のぞき台」なるものがあって、橋立を逆さにみる人が多いのだが、あまり良い姿ではなく、若い女性で股のぞきを試みる人は見かけなかった。その前に股のぞきをして撮った写真を添えるが、橋立が空に浮かんでいるように見えなくもない。それが股のぞきが普及した理由であり、天の橋立という名の由来でもある。

 小式部内侍は、自分の子供が幼いときに、若くして亡くなった。まだまだ健在だった母の和泉式部は、「留めおきて誰を哀れと思ふらむ子は勝るらむ子は勝りけり」という歌を詠んだという。娘は、母である自分より、子供たちをあとに残すことが残念だっただろうという意味の歌である。