よしなしごと2004年9月


  激やせの理由  「とぶ」  ソ連
福井県のミナカミベン


2004/09/11  土曜日  福井県のミナカミベン  
 
 大学時代、福井市出身のKという友人がいた。ひどく言葉が分かりにくかったのを思い出す。福井市は、東西のアクセントの接点であり、アクセントの決まりがなくなった地域である。しかし、このような現象は、県都の福井市周辺に限られ、他の福井県は基本的に関西型のアクセントである。

 同じ時期に、同じ福井県出身のFという友人がいた。若狭の出身と言うことで、言葉はまるで関西弁だった。若狭出身といえば、小浜市出身の拉致被害者、地村夫妻を思い出す。奥さんが、小浜での歓迎集会で、「私たちのためにこんなにぎょうさんな人が集まってくれて」といったとき、会場から笑いが起こった。まさに関西弁である。

 先日、若狭出身の作家、水上勉氏が85歳で亡くなった。私は、この作家の名前を高校生のときからずっと「ミナカミベン」と思っていた。その本名が「ミズカミツトム」であることを知ったのは、比較的新しい。どこで知ったかというと、本人の講演会で、本人の口から、「私の名前はミズカミツトムです」というのを聞いたのだから、絶対に間違いはない。

 若狭の言葉が関西弁だといっても、京阪神の言葉とは微妙に違う。水上氏の講演を聴いたという人が新聞に書いていたことだが、一緒に聴いていた人から、「あの言葉は何弁か」と訊かれて、とっさに、「あれはミナカミ弁です」と答えたと言う。

 映画化された「越前竹人形」「越後つついし親不知」「飢餓海峡」などの名作を残したこの作家の冥福を祈りたい。



2004/09/04  土曜日  ソ連  
 「ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)」とは、1991年まで存在していたもう一つの超大国だった。当時、45にもなっていた私にとっては、物心ついたころから知っていて、なくなることなどありえない存在だった。もう復活することなどありえないのだから、「旧ソ連」という言い方はやめ、そろそろ歴史的呼称として「ソ連」といってもよさそうに思う。

 ソ連は、ロシアを中心とする諸国の平等な連合体であることを標榜していた。しかし、独立していて当然の国々がロシアの支配下に閉じ込められていたというのが実状だったのだろう。諸民族の不満を和らげるため、ソ連はロシア人ではない民族に「共和国」「自治共和国」「自治州」「民族管区」という名前で領域を与え、それぞれに形式上の自治権を与えていた。4つの段階は、人口とかロシアとの領域の不可分性とかを考慮して作られていたようである。
 今日、「共和国」はすべて独立し、「ロシア」だけが「連邦」の名を残した。「自治共和国」から昇格した「共和国」を今もたくさん含んでいるからである。そのうちの一つが「チェチェン」なのだが、「ソ連」時代には隣のイングーシ共和国とともに、「チェチェノ・イングーシ自治共和国」を形成していた。別々の民族を一つにまとめたのは、ロシアの統治上の都合でしかなかったように思う。
 チェチェンの隣のイングーシのさらに隣の北オセチア共和国(キリスト教が多数派)で学校占拠事件が起こり、おびただしい犠牲者が出た。ただでさえ暑い時に、始業式ということで狭い体育館に保護者まで加わり、人いきれは相当のものだっただろう。子供のほとんどが裸だったのは、衝撃である。
 武装集団は、治安部隊の突入後、逃げ惑う裸の子供たちに銃を乱射したという。事実とすれば許されないことである。しかし、治安部隊の使命は、あくまでも秩序の維持にあり、具体的にはグループを殺害または捕捉することにあった。子供たちは放置され、結局、大半が銃撃戦をかいくぐって学校の中に跳び込んだ父親によって助け出されたのではないだろうか? 報道写真を見る限り、抱く大人と抱かれる子供はたいていよく似ていた。

 武装集団にとっては、最後に裸の子供を撃たなければ、これから同様の脅しが通用しなくなる。しかし、それは、あまりも身勝手な理屈である。おびただしい死者が出た責任が武装グループと治安部隊のどちらにあるかは、水掛け論にしかならない。水の差し入れすら拒否されたという状況では、遅れれば、脱水症状だけで、さらに多くの犠牲者が出ていたという可能性を考えれば、強行突入もやむをえないかとも思う。しかし、テロという手段が許されないとしても、その大義まで否定されていいとは限らない。
 アメリカにせよ、ロシアにせよ、自分とは違う大義を受け止め、取り入れるだけの余裕はまだない。その未熟さのゆえに未来のある多くの命をこれ以上たくさん犠牲にしないよう、自戒を求めたい。 
2004/09/02  木曜日  「とぶ」  
 今となっては、遠い昔のことだが、日本語の「とぶ」という言葉のあいまいさをたたいた文章があった。渡り鳥のように、地球の引力を振りきって長時間空中を漂うことは "fly" であり、引力の範囲内で瞬間的に遠くに移動することは "jump" であり、こんなに明らかに違うものを同じ「とぶ」という言葉で表現するのは、日本語のあいまいさの表れであるというような文面であった。
 今にして思えば、こんな文章を書く人は、言語というものがどういうものであるかが全く分かっていない人だったのだと思う。短い時間に瞬時に判断しなければならない生き物の一種として、言葉だけに頼らない能力が人間には要求されている。たとえば、夜中に「火事だ!」という声を聞いて、瞬時に逃げる方向を判断する能力である。
 「言葉だけですべてが伝えられる」というのは、妄想である。言葉こそ手に入れたものの、しょせん生物に過ぎない人間にとって、理屈などぬきに自分がどうすれば助かるかを判断するには、言葉なんかにたよっていてはいけないのに……。
 遠い昔のことなので、中学生だったか、高校生だったか思い出せないのだが、英語の "fall" に「倒れる」という意味もあるということを知って驚いたことがある。それまで、私は、"fall" という英語を、日本語の「落ちる」と同じ意味だと思っていたからである。それまで立っていた人が立てなくなることと、人間にはできない「飛ぶ」ということができる鳥や、もともと高い枝にある木の実が「落ちる」のと、「倒れる」のとでは明らかに違う。
 「鳥はとぶものだよ」と聞いて、蛙のようにジャンプするものだと思う日本人も、"He fell down to the ground." と聞いてスカイダイビングのパラシュートが開かなかったと思う英語国民もともにいない。どんな言語を話そうと、人間は言葉だけで自分の行動を選択するほど馬鹿な生物ではない。どんな言葉を話そうと、それがどういうことなのかを瞬時にとらえられる判断力を備えていることこそ、人間のしなやかさなのである。

2004/09/01   水曜日   激やせの理由   

 むかし勤めていた学校で、新年度に新任の教師が入ってきた。当時の私よりずっと若い男性だが、大学を出たばかりというほどは若く見えなかった。何よりひどく痩せていることが気になった。

 聞けば、大学を出てからしばらくサラリーマン生活をしていたが、その勤務状況があまりにもひどいのでやめたということであった。朝出勤して帰るのは日付がかわるほどの深夜。休みは月に1〜2日。昼食をとるのも、もどかしく、たいていはカップ麺ですませていたとのこと。

 「そんなんで過労死は出なかったのか」と私が訊くと、「「勤めていた2年間に過労死と自殺が一人ずつ」というので驚いた。「事情はわかったけど、やめることに踏みきった理由は?」と訊くと、「このままじゃ結婚もできない」と思ったことだという。仕事を続けながら、教員採用試験の準備をすることは不可能なので、試験勉強のためにやめたとのことであった。定職を捨てたのだから、かなりの冒険だったに違いない。私を驚かせた激やせは、採用試験合格後、かねてより交際のあった人と結婚したが、体重はまだ急には元にもどってなかったということらしい。

 その人が勤めていた会社は、原発の部品をつくって納入する会社であった。同業者間の競争が熾烈で売り込み競争やら保守点検作業やらがあって、激務となっていたようである。