よしなしごと2003年7月

 「飛ばす」と「飛ばせる」  「なっております」

尊敬語と謙譲語  市中引き回し  消費者は王様


2003/07/23  水曜日  消費者は王様  
 「消費は美徳」という言葉を聞くようになったのはいつからだろうか? 私自身がそういう教育を受けた世代だから言うのだが、この日本では消費は伝統的に悪徳であり、「もったいない」という言葉は日本人の口癖であった。「消費は美徳」は、そのことをよくよく承知の上で、伝統的な価値観を逆転させようとする上では、実によく考えられたコピーだと思う。

 それにやや遅れて、「消費者は王様」という言葉も聞くようになったと記憶しているのだが、消費者が王様であるのは、何が欲しいかを自分で決められる限りにおいてである。しかし、今の消費者は、さまざまなメディアを通じて自分が何が欲しいかを教えられているように思う。もっというのなら、今の消費者は、浪費経済を成り立たせる欲望を生産する対象となっている。
 欲望は、物語つきで生産される。カメラ付き携帯電話が売り出されたころ、菊川怜が内気で冴えない女の子を演じるCMがあった。街で胸がときめくような男の子を見つけると、携帯でひそかにその写真をとる。そして、その画像をメールで友達に送り、その身元を調べてもらう。そして、出会いが生まれるというCMであった。
 現実には、こんな形でカメラ付き携帯電話が役立つことは滅多にない。もし、日常的に役立てている人がいるとすれば、ほとんど病気という感じがする。そういうことで役立つこともあるという物語に乗せられて、現代の消費者は、必要のないモノを大量に買わされている。王様といっても、自分の判断力のない裸の王様である。欲望を生産する対象というより媒体にすぎない。売る側が求めているのは、消費者の幸福ではなく、消費者の欲望である。現代の世界はこういう仕組みで成り立っている。それが「セカイノカラクリ」である。
 先日、「信太正閏」という未知の人からメールが来た。「信太」は本名で読み方も含めて私と同じだが、「正閏」はペンネームで、trans comic xpress という、倫理と経済の両立をめざす運動サイトに漫画を描いているということであった。私としても共感を覚えるところが多いので、御本人の了解の上、リンクさせていただいた。正閏さんは、まだ30前後の若い人のようである。消費者は、今のところ裸の王様だが、消費がなければ生産もない今のセカイノカラクリでは、本当の王様になることもできるはずだと思う。
 なお、この記事を書くに当たって、「消費は美徳」で検索するうち、ロスアンジェルスに住むおねえちゃんのサイトに迷い込んだ。

2003/07/13  日曜日  市中引き回し  
 つい先日小学校を出たばかりの子供が、もっと小さい子供を惨殺するという事件が長崎であった。この事件をめぐって、わが兵庫県選出の鴻池防災担当大臣が「加害者の親を市中引き回しの上、打ち首」と言ったということが問題になっている。
さらし首をともなう獄門は明治になって
からもしばらく行なわれていた。写真は
毎日新聞社『幕末の素顔
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日本異外史』より。
 私も鴻池氏と同様、東映の時代劇をよく見て育った世代であり、打ち首というと、そのすぐあとに「獄門」という言葉を思い浮かべてしまうのだが、江戸時代の刑罰についてきちんと勉強したわけではないので、ウェブでにわか勉強してみた。
 こちらのサイトによると、江戸時代の死刑には、「鋸挽き」、「磔」、「火罪」 、「獄門」、「死罪」「下手人」の6種類があり、このうち「打ち首」によって刑が執行されるのは、「獄門」、「死罪」「下手人」の3種類だけだったようだ。刑の執行に先立って市中引き回しが行なわれるのは、こちらによると「磔」と「火罪」だけのようである。

 鴻池氏のようなことを言っても許される人がいるとすれば、それは被害者の親しかないのだが、鴻池氏のような非常識な人ではないし、「軽口」をたたくような余裕があるはずもない。鴻池氏は「たとえ」だったと弁解しているのだが、たたくべきでないときに軽口をたたいたことを自ら認めたことにもなる。一般の人ならいざ知らず、立法行政に携わる人にはそんな軽口は許されず、弁解は恥の上塗りでしかない。

 最近、子供が幼いうちに養育を放棄する親の話をよく聞く。その中で加害者の親は、中学まで子供を育て期待をもかけていたのであるから、今回の事件により奈落の底に突き落とされた気持ちであることは容易に想像される。人に言われずとも来し方を振り返ることであろうから、そういう人を市中に引き出すのは、弱い者いじめ以外の何ものでもない。大人が子供に示してはいけないことの最たるものだと思う。 
 まさか鴻池氏が江戸時代の法制度を復活させようとしているとは考えないのだが、政治にたずさわる者として、今回の問題を社会全体の問題として考えるぐらいの見識は求めたい。こんな想像力の乏しい人に長崎の仇を江戸で討ってほしくはないものである。

2003/07/08  火曜日  尊敬語と謙譲語  
 期末試験が始まり、生徒の職員室への入室が禁止になった。教師に用のある生徒は、入り口で誰を呼ぶかを言わなければならない。一人の生徒が入り口で、「○○先生、おりますか?」と言っている。応対した教師が「お前が○○先生に用があるんやろ? 『おりますか』でええんか?」と言っている。横で聞いている教師はみんな(私も)ゲラゲラ笑っているのだが、笑われている本人は、何が何だか分からない様子であった。

 帰りに本屋に寄った。うまく探せない本があったので、書名を書いた紙を店員(若い女性)に渡すと、「担当に調べて頂きますので、しばらくお待ち下さい」ときた。

 私は、正直な話、日本語の過度な敬語体系を好まない。「です」「ます」などの話し相手への敬意の表現だけで十分だと思うのだが、こういうことをうるさく言わなければならない「国語」教師の立場にある。
2003/07/05  土曜日  「なっております」  
 今日、コンビニで買物をした。千円札を出した。「千円からお預かりします」は聞きなれているので、何とも思わない。しかし、そのあとの店員の「652円になっております」という一言に驚いた。値段は妥当なので、別にそれについて文句を言う気はない。問題なのは、その表現の仕方である。
 私としては、単純に「652円です」と言って欲しいところだった。「652円になっております」などと言われると、「誰が決めたんじゃ、責任者、出て来い!」と言いたくなってしまう。学生バイトのようだったし、「責任の所在はどこだと責任者」というサラリーマン川柳を思い出して、何も言わなかった。
2003/07/01 火曜日 「飛ばす」と「飛ばせる」  

インプレス市販素材より。 掲示板に、「娘に和服を着せる」と「娘に和服を着させる」は違うと書いたことがある。「着せる」と「着させる」は、娘が和服の着付けを知っているかどうかによって使い分けることになるだろう。

 生徒だったころ、使役の「せる」「させる」(下一段活用)が助動詞だという説明を聞いたとき、「す」「さす」(五段活用)はなぜ助動詞ではないのかと疑問を感じた。「着させる」は「着さす」といっても大差がない。「着させた」といっても、「着さした」といっても間違いとは思えない。

 しかし、「す」「さす」が「せる」「させる」と全く同じ意味だとは言い切れないときがある。「太郎が花子を泣かせた」と「太郎が花子を泣かした」とではどうだろう? 「泣かせた」は結果として泣かせただけで、「泣かした」は初めから泣かすつもりで泣かしたという語感の違いがある。

インプレス市販素材 「紙飛行機を飛ばせた」というと、かなり変である。紙飛行機には自分で飛ぶ力がないからである。先日テレビのニュースで見たことだが、アメリカで二、三十個もの風船を脚にくくりつけられた鶏が電線に引っかかっているのが見つかってレスキュー隊まで出動する大騒ぎになったそうである。風船を何個つけたら空に上がるかといって遊んでいた者がいたのであろう。一つ一つ風船を増やされ、ようやく離陸させられるまでに、鶏は何度も上がり切らずに地上に逆戻りしたことであろう。遊ぶ人間にとっては遊びでも、鶏にとっては死の恐怖の連続であったに違いない。

 さて、この場合、「鶏を飛ばせた」は、私には変に思われる。こういう場合は、やはり、「鶏を飛ばした」というほうが抵抗のない表現である。鶏に電線まで飛ぶ能力も意欲もあるとは思えない。「飛ばせられた」と「飛ばされた」も意味が違う気がする。「飛ばす」については、動詞プラス助動詞の2語ではなく、1語の他動詞と考えてもいいのだが、「(廊下に)立たせる」と「立たす」の場合は、意味に違いがあるとは思えない。「立たせられた」と「立たされた」に意味の違いはあるのだろうか?
 「鶏を飛ばせた」がおかしくても、「鶏を飛ばせてやった」なら、おかしくはない。でも、鶏にとっては迷惑な話だろう。

 「赤ちゃんにミルクを飲ませる」は、私はおかしいとは思わない。生まれたばかりの赤ちゃんでも、飲む能力も意欲もあるからである。