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よしなしごと2003年1月
★ 43年ぶりの再会 ひとみ 板門店 アウシュビッツ展
ツバルとナウル 肥後守 黙祷 ロバ 叶姉妹
旧北区と東洋区 〜屋
2003/01/28 火曜日 〜屋 
「や」という大和言葉は、本来単に家(建物)ということである。それが商業が発達してから、花がたくさんある家は「はなや」、魚がたくさんある家は「さかなや」と呼ばれるようになった。こうなると、それが商売であることを示すためには「屋」の字を用いて「花屋」「床屋(散髪屋)」のように書くことが普通になった。
「花屋」とか「床屋」という言葉はそれを職業としている人には使いにくい。本人から「花屋です」「床屋です」と言われても、つい、「花屋さん」「床屋さん」といってしまう。江戸時代に士農工商として商業が最下位に置かれた名残りなのかも知れない。
「はなや」「とこや」というのはいい言葉だと思う。これを「生花商」とか「理髪店」とか言いかえることに何の意味があるのかと思う。まして、「フロリスト」だの「ヘアドレッサー」だのと言いかえるのは、無駄な言葉を増やしているとしか思えない。
2003/01/26 日曜日 旧北区と東洋区
動物の分布による動物地理区という世界の分け方がある。これによると、日本列島は、最も広い旧北区に属する。旧北区は、東洋区として一括される中国南部と東南アジアとインド亜大陸を除くユーラシア大陸の全域にわたり、サハラ砂漠以北のアフリカをも含む。アフリカ大陸南端の喜望峰を越え、インド洋を渡ってマラッカ海峡から北上した大航海時代のヨーロッパ人は、エチオピア区と東洋区というまったく異質な動物地理区を経てようやくたどりついただけに、東アジアにシカ、イノシシ、キツネ、オオカミ、クマなど、意外と自分たちの見なれた動物がいることに驚いたようである。
しかし、人間の分布に国境がない以上に、動物の分布に国境はない。たった200年ほど前に西欧人が始めた動物地理区などという国境に従って動物たちが住んでいるわけもない。したがって、動物地理区の辺境にあたる地域では、異なる動物地理区の動物が入り混じっていることが常であり、日本列島がその典型である。
シカ、イノシシ、キツネは、ヨーロッパのものも日本のものもほとんど差はない。しかし、クマやオオカミの場合、ヨーロッパと同種のものは北海道にしかいない。本州以南のツキノワグマやニホンオオカミは、北海道のヒグマやエゾオオカミとはまったく異なり、その近縁種は東洋区にいる。オオカミの場合はどちらも明治以降に人間によって絶滅されたが、クマの場合、ツキノワグマはヒグマよりずっと小さく、人が襲われても死ぬことはめったにない。
東京のある会社員が、富山県の山中を歩いていてツキノワグマに遭遇し、飛びかかられた。必死に抵抗したところ、たまたま巴投げのような形になり、クマは崖下に転げ落ちて助かったそうである。身長は160p前後、柔道の経験もまったくない人だそうで、病院ではちょっとした注射にも大げさに騒ぐので、「とてもクマに勝った人とは思えない」と笑われたそうである。相手がヒグマでは、ボブ・サップでも巴投げなどできないに違いない。ニホンオオカミも、人を襲うことはまれで、むしろ農作物を荒らすシカやイノシシを退治してくれるというので、「大神」とありがたがられていたらしい。
日本列島にいる東洋区的な動物としては、他にサルとタヌキがある。ともに朝鮮半島や中国北・中部にはいるが、タヌキはヨーロッパにはまったくいない。サルもアフリカ大陸から海峡を越えたジブラルタルにわずかに野生しているだけである。サルはヨーロッパでは熱帯の動物と考えられており、それだけに雪の中にすむニホンザルはsnow monkeyと呼ばれて珍しがられる。しかし、朝鮮半島も中国北・中部も北アフリカもサルがいて、かつ旧北区なのであるから、サルがいないことは、旧北区でも北方の寒い地域だけの特徴だということできる。
動物地理区という言葉は、動物の分布の概略を知るには便利である。しかし、自然は、何事にも線を引きたがる人間の知恵では捉えきれないほど多様である。そのことを忘れて言葉に使われるようにはならず、言葉の成り立ちを知って使いこなすことが、知恵のある人間には求められている。
2003/01/20 火曜日 叶姉妹
何かと話題になる叶姉妹だが、ここで話題にするのは、その読み方である。「夢が叶う」というときには、「カナウ」というのに、なぜ「カノー」と読むのだろうか? これは、どうも文語を現代語で読むときの約束事らしい。私の出た小学校の校歌は文語体だったが、その中で「集ふ」というところを「ツドウ」ではなく「ツドー」と歌っていた覚えがある。文語脈の中で「ツドウ」と読むと、そこだけ現代語のようになってしまうので、それを避けたとだと思われる。昔つとめていた学校の校歌でも、「歌ふ」を「ウタウ」ではなく「ウトー」と歌っていた。
「叶ふ」に戻ると、大相撲の千秋楽でこれより三役ということになると、行司が「小結にカノー、○○○」というように勝ち名乗りを上げるのも文語なのだと考えれば理解できる。政治家などが「オコナウ」というところを「オコノー」というのも同じだろう。「伝」という珍しい苗字の人に会ったこともある。ふりがなは「つとう」なのに、実際に読むときには「ツトー」と言っていた。
2003/01/18 土曜日 ロバ
「ロバ」という動物の名前は「驢馬」と書く漢語であり、やまとことばでは長い耳から「ウサギウマ」という。酷使されながらも黙々と働くロバは、それだけに馬鹿にされる。自分のために黙々と働く動物を馬鹿にするのだから、人間というのは勝手なものである。ロバは英語ではdonkeyとかassとかいう。ある日本人がアメリカで"Which
-ese are you? Chinese,Japanese or Polynesese?
"と言われ、むかっとして、"Which
ey(ee) are you? Monkey,donkey or Yankee?"
と答えたという話をむかし聞いた覚えがある。
とあるアメリカの大学で、教授が授業に遅刻しそうなので大学に電話をかけた。そのため、学生が出てくるころには、黒板に "Professor
A meets the class at nine."(A教授の授業は9時から)と書かれていた。しかし、教授が教室に入ったところ、学生たちがクスクス笑う。何事かと思って黒板を見ると、いつの間にかCが消され 、"Professor
A meets the lass at nine."(A教授は9時に例の若い娘とデートする)となっていた。一瞬ムッとした教授は黒板けしを持ち、さらにLの字を消した。英語のassには「馬鹿」という意味もあり、"Professor
A meets the ass at nine."だと、「A教授は、9時に例の馬鹿の相手をする」という意味になるのだそうである。
2003/01/17 金曜日 黙祷
今朝学校に行くと、教頭から1時間目のある先生は早めに教室に行ってくださいと言われた。今日は、私も体験した阪神淡路大震災が起こった日である。普段なら1時間目が始まる時刻に合わせ、全校放送の指示で全クラスが黙祷をささげた。夏の甲子園では、今も戦没者への黙祷がささげられる。いつまで続けるのかという声もあるが、少なくともあの戦争を自分の体験として記憶している人がいる限りは続けるべきだと思う。知っている世代が知らない世代に伝えるべきだと思うからである。
私は終戦の翌年の生まれである。したがって戦争体験はまったくない。しかし、地震を体験したものとして、体験者がいる限りは、何らかの形で、体験を伝える必要はあると思う。人のうわさも七十五日というが、兵庫県以外に住む人で、今日が何の日かを記憶していた人はどれほどいるのだろうか?
地震への最良の対抗策は、しっかりした建物を作ることである。それにより被害は最小限に食い止められる。しかし、戦争となるとそうはいかない。人間が知恵をしぼって建てた最良の建物でも、それを意図的に破壊するために知恵をしぼった軍事力の前では無力である。人類は、仲間内での戦争をなくすほどの知恵を、いまだに身につけていない。
2003/01/13 月曜日 肥後守
最近の子供は鉛筆も削れなくなったということを聞くようになってから久しい。すでに一世代がたっていて、今では、親の世代もすでに鉛筆を削れないのではないかと思う。授業中、生徒が動かす手を見ると、握られているのはほとんどがシャープペンシルである。
私たちの世代は、筆箱の中に肥後守を入れていた。折りたたみ式の小型のナイフのことであり、鈍く銀色に光るさやに「肥後守」と書いてあるので、「ひごのかみ」と呼ばれる。肥後守の使い道は、鉛筆を削ることだけではなかった。さまざまな工作に使え、文房具であるとともに遊び道具でもあった。そして、見るからに「刃物」という感じがして、かっこよかった。この肥後守がいつごろまで一般的に使われていたかは分からないが、少なくとも私が高校生だった1960年代までは使われていた証拠が、私の左手の人差し指に残っている。
ある日の学校でのこと、私が肥後守で鉛筆を削っていたとき、友人の一人がじゃれかかってきた。それを振り払おうとした拍子に、肥後守がぱちんと畳まれて私の指を挟んだのである。指はすっぱりと切れ、大量の血が出た。床に血糊まで見えた。私も出血で青くなっていたかも知れないが、それ以上に青くなったのは友人のほうだった。すぐに教師が呼ばれ、保健室を経て、車で近くの病院まで連れて行かれた。レントゲンもとってもらったが、さいわい骨にまでは届いていなかった。今でも不思議に思うのは、あれほどの出血をしながら、痛みというものがほとんどなかったということである。鋭い刃物ですっぱりと切れたためだろう。こんな肥後守だから、今の学校では、生徒に持たせることには、親も教師も反対するに違いない。
なぜ今、肥後守の話を持ち出したかというと、今月の日記に書き損じがないかを点検したからである。2日の日記で「かみそり」の語源にふれていたので、では、なぜ「肥後守」というのかという疑問をふと感じて、ウェブ検索をしてみたからである。すると、なんと「肥後守博物館」という、肥後守専門のサイトが見つかった。作者は、肥後守の研究で修士号をとったのだそうである。こういったちょっとした道具にも、いろいろな歴史がからんでくるところが面白い。
2003/01/10 金曜日 ツバルとナウル
ツバル(Tuvalu)という国が太平洋にある。昔はイギリス領で、エリス諸島と呼ばれ、ギルバート諸島とともに、同じ区画で植民地統治を受けていた。しかし、独立に際して、ポリネシア系のギルバート諸島は「キリバス」として、メラネシア系のエリス諸島は「ツバル」として、それぞれ独立を果たした。しかし、何しろ人口が1万人ぐらいしかいない珊瑚礁の島嶼群であるので、国連に加入するほどの金を負担できなかった。その国が国連加盟を果たしたのは、アメリカのベンチャー企業が始めた独自ドメインを国別に割り当てる際、tvといういかにもメディアが飛びつきそうな二文字を割り当てられたからである。ベンチャー企業は、このtvという国別コードを世界中に自由に割り当てる権利の代償として、ツバルに10年間で5000万ドルを支払うことになった。50億円として、戦闘機3機の代金ぐらいだが、ツバルのようなミニ国家にとっては、大変な恩恵で、国民一人あたり50万円にもなる。その収入で、日本にも領事館を開くことができた。
しかし、ツバルは決して幸運な国ではない。国中で一番高いところでも海抜10mぐらいしかない珊瑚礁であるから、地球温暖化の影響を真っ先に受ける。まだ島々は沈んではいないが、すでに海水は地下にまで達しているため、先祖代々営まれてきた農業が塩分のためにひどく収穫が落ちている。このまま温暖化が進むと、国中が海に沈むため、年々ニュージーランドなど他国への移民を進めている。しかし、相手があることなので、どの国も年間の受入数を制限しているようだ。国全体が沈むまでに全国民が移住できる割り当て数ではない。温暖化がとまり、島々が生き残るのが最善であるのは言うまでもないが、それを実現するには、とてもこの小さい島国だけの力では無理である。右に載せたのは、このミニ国家が出している海鳥の切手である。
魚を主食とする海鳥の糞には燐が多い。太平洋にはたった一つの小さな島からなるナウルという独立国があり、古くから海鳥が羽を休めるために、島全体が燐鉱石の宝庫となった。今日、ナウルは、燐鉱石の売却益で豊かな国となっている。独自の航空会社も持ち、日本の鹿児島空港にも乗り入れているが、小さな島だけが国内であるから、この航空会社は国際線しか持っていない。ツバルほど急速に島が沈むことはないが、島の経済のもとである燐鉱石が採り尽くされるまでいくばくもないという。そのため、ツバルと同様、他国への移民を進めている。
ツバルもナウルも小さな島国である。しかし、その存続を実現することができるなら、人類全体の運命も救えることになるように思う。
2003/01/08 水曜日 アウシュビッツ展
ポーランドにオシベンチムという町がある。ドイツ領時代にはアウシュビッツと呼ばれ、その郊外にはナチスが建てた有名な絶滅収容所がある。その惨禍を忘れないためにと市民団体が開いた「アウシュビッツ展」の開催を手伝ったことがある。いよいよ前日、収容所の遺品を並べることになった。市民団体の主力は主婦が多いので、やたらとレイアウトにこだわり、なかなか意見が一致しない。私などは割り込む余地がないので、決定が出てから言われるとおりに並べるのを手伝った。
展示品の中に、麻と人毛を混紡にした織物があった。一見しては分からないが、よく見ると人毛と分かるところがそこここにあった。並べる際にそっと触ってみた。ごわごわしていて痛いような感じがあり、とてもこんな服は着られないと思ったものである。人の皮膚で作った電気スタンドの傘もあった。高さを140pに設定した走り高跳びのバーも展示された。通りぬけるときバーにかからない子供はすぐにガス室送りとなり、かかる子供は労働力として、しばらく働かされたという。
小さい頃から、収容所の中で育ち、戦後まで生き延びた女性が、外に出ていちばん驚いたことは、葬式だったという。死者を見なれて育っただけに、たった一人の人のためにたくさんの人が集まるのを不思議に思ったという。女性はすでに孫のいる年齢となったが、子供たちからは、「お母さんはどこか冷たい」と言われ続けたそうである。
2003/01/04 土曜日 板門店
もう20年以上も前、朝鮮半島の分断の象徴である板門店(パンムンジョム)の会議場に行ったことがある。右の写真は、もちろん南側からそのとき撮った写真だが、向こうに見える威圧的な建物は「臨津閣(イムジンガク)」といって、北側のものである。会議場は、何棟かのプレハブであり、各棟の中央を結ぶコンクリートが休戦ライン、すなわち事実上の国境を示している。建物の中では東西に机が並び、その中央に走るマイクのコードが休戦ラインとなっている。南北のそれぞれからの訪問者は、建物の中だけ、休戦ラインを越えて見学することができる。
私が陸路で「国境」を越えたのは、このときと、アメリカとカナダの国境を越えたときだけである。
建物の外からは、北の兵士がこちらを撮影していた。カメラがミノルタだったのが、妙に印象に残っている。南(アメリカ兵が主体)と北の兵士は、毎日のように顔を合わせ、顔見知りでありながら、互いの名前も知らず、言葉を交わしたこともない。それどころか、相手に手で合図をしたり微笑みかけたりすることも禁じられている。その点は、われわれ「ゲスト」にも同様に求められた。
案内をする通訳は、植民地教育を受けた人で、日本語は完璧だった。建物の中で、通訳は、南北に並ぶ北の国旗と国連旗を指して、説明を始めた。高いのは北側の旗だが、布地が大きいのは南側の旗である。なんでも、ある時期、互いに旗の高さを競い、しまいには両方とも天井に届いてしまい、互いにばからしくなったので現状に落ち着いたのだという。ゲストの緊張を和らげるための冗談だったのか、実話だったのか、いまだに分からない。
ソウルへ帰るバスの中で、50代と思われる二人の日本人男性が通訳に話しかけた。従軍体験があってもおかしくない年齢である。そして、「北が攻めてきたら日本が守ってやるよ」などといって笑っていた。日本語が分かる相手を前に、その神経が信じられない気がした。私が見た「国境」は、本来あってはならない国境である。しかし、それは、世界でも最も厳しい国境として、今も厳然として存在している。
2003/01/02 木曜日 ひとみ
人は人のどのような表情に好感を持ち、どのような表情に違和感を覚えるのだろうか? デズモンド・モリスの『マン・ウォッチング』に、同じ女性の顔を二つ並べた写真があった。撮った角度も同じであり、一見、区別がつかないが、どちらに好感を覚えるかというアンケートをとったところ、明らかに意味が感じられるほどの比率で一方に人気が集った。その違いは、一方の瞳孔が大きく開いており、一方は狭まっているということであった。人は誰でも、見たいものを見れば見ようとし、見たくないものを見れば目をそむけたくなる。二つの表情の違いは、女性に、好きなものと嫌いなものを無作為で見せる実験をしたことによるものだろう。瞳孔は、見る対象に敏感に反応する。
大学生のとき、ある友人がふと、「『かみそり』は髪を剃るから『かみそり』というんだなあ」と言ったことがある。「そんなこと当たり前じゃないか」と思ったが、考えてみると、「ひとみ」だって語源は「人見」に違いない。「人見」という苗字は、悲劇の女性長距離ランナー人見絹枝(右の切手)など、日本人にはけっこう多い。人の目が見るものは何も「人」に限らないだろうが、とくに「人」を代表として「ひとみ」というのは面白い。
「ひとみ」というヤマトコトバは、本来、「瞳」という漢字(=中国語を表すための文字)とは何のつながりもない。この二つを結びつけたのは「歴史」である。「瞳」という字(中国語ではすなわちコトバでもある)は、「憧(あこが)れ」という字とどこかでつながりがあるに違いない。子供の目はいっぱいに見開かれている。子供の心は遠いところにあるものを手に入れようとする。「憧」という字の本来の意味は、「心が不安定であること」だそうである。中国語では「瞳」はtong、「憧」はchongということだが、どこかにつながりがあることは確かだろう。
「ひとみ」というヤマトコトバの響きはきれいだと思う。HITOMIや矢井田瞳ぐらいは、私だって知っている。この一見古風な名前が今も若い女性の名として健在であることはうれしいことである。
2003/01/01 水曜日 43年ぶりの再会
去年の11月にたまたま小学校のクラスメートと連絡がとれた。途中で引越しし、転校をきらって学区外から通い続けて卒業したという点では、彼も私と同じである。そのため、卒業と同時に他の同級生と音信不通となっていたことも同じである。当然年齢も同じであるから、昔のことを見なおしたいという気持ちも同じである。そこで、この年末に小学校の正門前で待ち合わせた。交代で校門をバックに写真を撮ったあと、たまたま通りかかった年配の男性に、二人一緒の写真をとってほしいと頼んだ。私たちが卒業生だと知ると、「私はここの教師でした。平成になってから来たので、あなた方の時代は知りませんが……」と言って、校内を案内してくれた。
歴代校長の写真の中に、私たちが覚えていた二人の写真があった。写真はすべて男性だったが、今の校長は女性とのことである。校内には、私たちのころを思い出させるものはほとんどなかったが、陶板に書かれた校歌は、私たちも今でも歌うことができる。私たちのころの二人の校長のうち、前の人はすごいワンマンだった。あとの人は温和な人だったので、先生方がほっとしたような顔をしていた。前の校長は、朝礼の話が猛烈に長かった。「最後に」というと、みんなほっとしたのに、そのあと「なお」という。この「なお」以下がまた猛烈に長く、夏など倒れる生徒が続出したことを覚えている。
そのあと、喫茶店や居酒屋に入り、長く目にしていなかった小学校の卒業アルバムを見せてもらった。私の実家は、私が大学生のときに全焼した。そのため、久しく見ていなかったアルバムである。今の勤め先の卒業アルバムに比べると信じられないほど簡素なもので、写真は白黒ばかりだった。唯一の例外は、正門を含めた校舎の写真だが、これもカラー写真ではなく、色付け写真である。校舎は木造であり、前の道路は舗装もされていない。もっとも、私たちの卒業間際に鉄筋の新校舎もでき、アルバムのほかのところにはその写真もあったのだが、この色付け写真には写っていない。
クラスメートは比較的近くに住んでいるので、私と連絡がとれてから、小学校の近所を歩いてみたという。そのとき、覚えのある苗字の家が何軒か残っているのに気付いたという。案内してもらったが、私にも記憶のある苗字の表札がかかっていた。もちろん、「ごめんください」とは言わなかったが、できるだけ早い機会に、60名ものうち数人でもクラス会を開けたらなあという話になった。二人で話したときにもそう思ったことだが、単に昔を懐かしむためにではない。同じ時代に同じ所で育った者同士で、今の時代がどんな時代かを確認するためにである。

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