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よしなしごと2002年4月
★ 世界一退屈な町 周恩来 新幹線 みどり負けそう
宗教を選ばなければならない国 ケータイとPHS
おしゃかになった うそと大うそ ガリ版 アナウンサー
予餞会 Let it be 関西弁私訳 アニメと天文学
市民マラソン 主語 危機一髪 六甲颪に颯爽と 軍歌 夢物語 身と心 オー・ソレ・ミオ
2002/04/30 火曜日 オー・ソレ・ミオ 
テレビで珍しくアメリカのテレビ番組をやっていたのを何気なく見ていたことがある。素人が何でもいいから芸を見せて、10点満点で採点する5人の審査員の得点合計で優勝を競うという番組であった。満場大受けの出演者がいて、他の4人が10点を出したのに、1人だけ4点を出した老審査員がいた。何でそんなに点が低いのかと司会者に聞かれると、顔をしかめて、「俺の昔のネタだ」と答えていた。
続けて見ていると、はるばる韓国から来たという男性が登場した。韓国からは初めてだと司会者が言う、「韓国民謡を歌います」と言う。男性は、「オー・ソレ・ミオ」をイタリア語で朗々と歌い上げた。声量もたっぷりでなかなかうまかった。司会者は「いやぁ、韓国民謡って初めて聞きましたけどいいですねえ」などと持ち上げる。審査員は全員10点を出す。批評を求められた審査員は、「お客にゃかなわん」と言い、結局、この日の優勝者は彼ということになった。私は、これは日本人では普通やらないなあと苦笑していた。
私は、「オー・ソレ・ミオ」を一応イタリア語で歌うことができる。高校時代の音楽教師(女性)は、外国の歌を言語で歌わせることが好きだった。che
がイタリア語で「ケ」と読むことを知ったのも、「ケ・ベッラ・コーザ・ナユル・ナタエ・ソーレ」というこの歌い出しが最初であった。
イタリア語の太陽は「ミア」ではなく「ミオ」であるように男性名詞である。ドイツ語の「ゾンネ」は女性名詞である。南欧の強い陽射しが男性的で、北欧の弱い陽射しが女性的だからだという説がある。太陽の色も、南欧では赤、北欧では黄色と考えられているという話を聞いたことがある。
2002/04/28 日曜日 身と心 
学生時代に、「人間にとって最初で最も大切なつきあいの相手は自分の身体だ」というむねの文章を読んだことがある。今も記憶に残っているのは、それまでそんなことを考えたこともなかったからに違いない。自分の意思に反して仕事で身体を酷使する人もいるだろうが、少しでも余裕があるのなら、できるだけ自分の身体を傷めるようなことをしないに越したことはない。
身と心は相互に作用する。ストレスなど、心が身に及ぼす影響も広く知られるようになったが、やはり身から心への作用の方が大きい。歯が痛いとき、楽しい気分になれるかどうかを考えてみれば、すぐに分かることである。身から心への影響は、若いほど大きい。心がまだ未熟であるせいかも知れない。私は若いころ、さほどジェット・コースターが嫌いではなかった。しかし、今は嫌いである。楽しいと感じる身体能力が衰えているせいだろう。心身のないまぜになった異性への関心も、歳をとるにつれ、心的な面が強まるように思う。
身は必ず衰える。それにつれて心の関心も変っていく。若い身を前提にしたものへの関心はいつかは衰える。若者が大人の世界のことを勉強し、心を育てなければならない理由もここにある。身の若さのゆえに関心のあったことにもはや関心が持てなくなったときに、それまでに身に(心に?)つけておくべき知恵や知識がないのでは救いようがない。私たちの世代がそういう目に合わずに済んだのは、昔は若者の関心に応える遊びは種類が少なく、かつ遊ぶ機会も少なかったからにすぎない。若者相手のビジネスがあまり成り立たない時代だったのである。
衰える身のことにしか関心がないのは、あまりにも淋しい。病気のことしか話題にしない年寄りにだけはなりたくないものだと思っている。
2002/04/26 金曜日 夢物語 
前半で消える者として、今世紀中につぎの三つの課題を実現して、人類内部の矛盾を取り除いて欲しいと思う。
(1)貧富の格差 (2)人種、民族間の偏見、差別 (3)宗教および無宗教の間の不寛容。
その上で、無駄な物質を作らず、地球をさまざまな生命のあふれる星に保ったまま、自分たちの快適な生活を実現することは、人類全体の責務だと思う。
2002/04/25 木曜日 軍歌 
私は戦後生まれでありながら、軍歌をたくさん知っているし、かなりの種類を歌うこともできるが、カラオケに行っても、まず歌うことはない。。私が小さいころ、祖父は材木屋を経営していた。店と自宅が同じ敷地にあり、従業員全員が集まれる広い部屋もあった。そこでときどき宴会が開かれ、私も祖父の膝の上でそれに参加することがあった。従業員はみな戦前までに成長を終えた人たちだった。みな歌は苦手で、軍歌でなければ、民謡か文部省唱歌しか歌えない人が大半だった。私が軍歌をしっかり覚えたのは、そのときにすぐというわけではなく、ある程度成長した後、戦時中を描いた映画やドラマなどで復習したためではないかと思う。
従業員の人たちはいわゆる音痴が多かった。それに東北人が多いせいか、恥ずかしそうに歌う人が多かった。加えて日本の軍歌自体、どこか哀調を帯びた曲が多いので、がなるような歌い方をする人はいなかった。あれから、「ん」十年を経て私は中年になった。いま、教えている高校生は、私の世代なら誰でも知っている「露営の歌」すら知らない。歌って聞かせても「聞いたこともない」という。20年ほど前に韓国に行ったとき、露営の歌を知っている韓国人が多いのに驚いたことを韓国旅行の印象記に書いた。それすら、今の高校生の生まれる前の話である。
2002/04/22 月曜日 六甲颪に颯爽と 
星野新監督が、「お前ら、六甲颪に颯爽とどころか、六甲颪に凍えているではないか!」と阪神ナインに檄を飛ばしたと聞く。阪神間から神戸市にかけて連なる六甲山系が大都市の間近にありながら豊かな自然に恵まれていることは、「野生動物との共存を考える」に書いた。山頂の冷たい空気が一挙に下界に流れ落ちる風を「おろし」という。私は、六甲颪と正反対の方向に自転車のペダルをこいだことがあるので、六甲颪の寒さは身に沁みて知っている。
神戸市立六甲山小学校という小学校がある。違う学年をまとめて教える複式授業をしたり、冬休みが長く夏休みが短かかったりで、神戸市立というイメージとは合わない。つまり、六甲山頂は、それだけ寒く、市街地から時間的に遠いのである。
「六甲」という山の名は、「六甲おろし」の通称で知られる「阪神タイガースの歌」で全国的に知られている。この歌の作曲者は、「勝ってくるぞと勇ましく〜」の「露営の歌」や東京オリンピックのマーチを作曲した古関裕而であり、文語調の歌詞は、戦前・戦中に数多くのヒット曲の作詞をした佐藤惣之助による。12球団のすべての曲を知っているわけではないが、名曲だと思うし、この歌を歌って盛り上がる気持ちはよく分かる。
1985年の阪神優勝のときには、関西一円に六甲おろしが流れた。一日中流している商店街も多かった。買物客はいいが、一日中聞いている店の人たちの中には阪神ファンですらうんざりした人もいたほどである。阪神はファンで持っているという説があるが、私もそう思う。万年最下位でも決して節を曲げない阪神ファンのファンは潜在的には多く、1985年にはそれが一気に顕在化した。1985年には、日ごろは広島ファンである私も、そういうにわか阪神ファンの一人になった。
そして、今年、とかく大リーグに衆目が集まりがちのいま、あの熱気が再現すれば、日本のプロ野球は息を吹き返すだろう。巨人のことばかり考えてきたナベツネさんが笑うことなく、猛省を迫られる事態になることを期待している。
2002/04/20 土曜日 危機一髪 
今日、恐ろしい出来事に遭遇した。私が歩いていた歩道から、小3ぐらいの男の子が自転車に乗って飛び出した。それに私が気がついたとたん、ものすごい急ブレーキの音が聞こえ、男の子は車にはねられ、ぎゃーっと泣き声をあげた。私とは対岸を歩いていたおばさんが飛び出してきて、男の子を抱き上げたかと思うと、歩道まで運んだ。そして、周りの車も凍りついているのを確認しながら、男の子のめちゃめちゃにひしゃげた自転車も歩道に運んだ。なかなか、かっこいいおばさんである。そのあと、「僕、住所は?」と聞いていた。子供も答えてはいたが、泣きながら答えるものだから、おばさんは、「えっ? 分からない。」と繰り返していた。
近くで見ていた若者が駆けより、携帯で119番を呼んだ。男の子をはねた車は、歩道に寄せて停車していたが、ドライバーは覚悟を決めたようにみずから降りてきた。私の見る限り、ドライバーが必死にハンドルを切ったので、つぶれたのは自転車だけで、男の子は脚を骨折した程度のように見えた。男の子はしばらく松葉杖をつくことになるかも知れないが、さいわい命に別状はなかったようである。
2002/04/19 金曜日 主語 
中国での長江下りのテレビ番組に料理研究家の小林カツ代氏が出ていた。絶景の連続であった。普段はシャンシャンの中国の全人代で3分の1もの反対票がでたという三峡ダムができたら、長江沿岸の風景は激変することであろう。小林氏がある風景を絶賛し、「もう見られませんからねえ」というと、アナウンサーが「そんなことないですよ」と答えた。小林氏が「そういう(年齢だからという)意味じゃなくて」というと、アナウンサーも気がついて、「失礼しました」と謝っていた。このような場合、英語では
I can't see か We can't see かで区別がつくから、こういう誤解は起こらなかったであろう。しかし、こういう行き違いは日本語でもしょっちゅうあることではない。だからこそ、ことさらに話題にできるのであって、常に主語が必要だという理由にはならない。主語を必須とする言語でも、言葉の行き違いということは、別の面からよく起こる。主語をいちいち必要とする印欧語族の言語は、私には普段わずらわしいとしか思えない。
2002/04/18 木曜日 市民マラソン 
だいぶ昔のことだが、神戸で開かれた市民マラソンに当時仙台に住んでいた妹が参加した。妹は養父の連れ子であり、私とは血のつながりはない。地元のマラソン大会でしょっちゅう入賞していたので、遊びがてら走りに来た。結果は、上位の成績だったが、賞には届かなかった。マラソンの情報に詳しく、去年だったら入賞したのにと不完全燃焼だった。
この市民マラソンには、私の子供も参加した。そのゴールを待つ間に表彰式が始まった。思いがけず妹の名が呼ばれ、本人も驚いた。時間があっちこっちするが、妹が出番前の準備をしていたとき、隣で準備していたおじさんに話し掛けられたという。「どちらから見えましたか?」「センダイです」「センダイ?……あの、東北の仙台ですか?」「そうです」「えーっ? なんでまたそんな遠くから?」というのがその会話の内容だった。せいぜい大阪や京都からしか参加者のないマラソンだから驚かれるのも無理もない。妹は副賞の壁掛時計とともに「遠来賞」をもらった。初めての賞ということで、主催者もなかなか粋なはからいをするものだと思った。あるいは、あのおじさんが知らせたのかも知れない。
スタートのとき、最前列の中央に80前後と思われる老人がいた。若い役員がつかつかと歩み寄り、何かひとこと言った。老人はむっとした顔をして、力こぶを見せたり、脚をバレリーナのように蹴り上げたりして観客にアピールし、笑いを誘っていた。妹もスタート前からこの老人に気がついていて、走り終わったあと、同じころゴールした人から、老人が常連だという話を聞いていた。
あの役員は、何を言ったのだろう? 「危ないから端の方からスタートしてください」と言ったとすれば、老人がむっとしたのも当然である。
2002/04/17 水曜日 アニメと天文学 
知人の理科教師に、天文学を専攻していた人がいる。その専門的知識は半端ではない。一方、彼の家には万に近い漫画本があり、アニメ映画は、欠かさず見るという一面もある。ある日、ウェブ上で、たまたま或る天文台のHPに行き当たり、興味を感じて読み始めた。台長のプロフィールを読むと、知人と同じぐらいの年齢で、出身大学も同じである。さらに趣味が「アニメと漫画」だというので、彼の友達に違いないと確信した。ところが、知人に聞いてみると、一応知り合いだが、友人というほど親しくはないという。趣味を読んで、てっきり友達と思ったというと、「天文学やってて、アニメや漫画のファンなど腐るほどいる」という。昔の仲間と会うと、カラオケでアニメの主題歌を歌って盛り上がるのだという。
アニメと天文学の結びつきというと、私には「銀河鉄道999」ぐらいしか思いつかない。対極にあるものを組み合わせて精神のバランスを保っているのだとも、意外に両者に近い所があるのだとも考えられる。とにかく、面白い取り合わせである。
ちなみに私は2〜3年続けて「天文年鑑」を買っていた時期がある。しかし、いつごろからか、「天文学的数字」の頻出する学問など、人生がむなしくならないかと思って興味を失ってしまった。
2002/04/16 火曜日 Let it be 関西弁私訳 
どないも ならへん ときには いつも きこえる ことば
Let it be
あたりは まっくら ひかりが ひとつ ささやく マリア
Let it be
もうわしゃ あかんと おもうた ときも こたえは あるで
Let it be
わかれた ひととも いつかは あえる そのとき わかる
Let it be
Let it be,let it be Let it be,let it be
ささやく ことば Let it be
くもった よるでも ひかりは あるで あしたは はれる
Let it be
うたごえ きこえて めざめた ときに ささやく マリア
Let it be
Let it be,let it be Let it be,let it be
こたえは あるで Let it be
Let it be,let it be Let it be,let it be
Let it be,let it be Let it be,let it be
こたえは あるで Let it be
Let it be,let it be Let it be,let it be
Let it be,let it be Let it be,let it be
めげたら あかん Let it be
Let it be,let it be Let it be,let it be
Let it be,let it be Let it be,let it be
わすれん といて Let it be
2002/04/15 月曜日 予餞会 
私の出た高校に、「予餞会」という行事があった。一、二年生がクラスごとに演技を行い、卒業生を送るという一種の学芸会であった。私たちのクラスでは寸劇をすることになり、台本は私が書くことになった。ところが、私のクラスは役者ぞろいで、役者のアドリブの連発のため、眠い目をこすって期限に間に合わせた私の台本はほとんど骨格だけにされてしまった。教師一人一人の歩く姿を真似た生徒がいて、これがとくに大受けであった。効果音に用いるため、近くの寺にたのんで鐘を撞かせてもらったことなども思い出す。
いま、予餞会という行事があるという学校はあまり多くないが、40年後の今も楽しい思い出として残っている。忙しい3年生はお客さんでいいのだから、生徒にその気さえあれば、できると思う。
2002/04/12 金曜日 アナウンサー 
高橋圭三氏が亡くなった。大昔のNHKのアナウンサーとして記憶していたので、今まで健在だったことにむしろ驚いたが、まだ83歳というから、思っていたより若かった。高橋アナを一躍有名にしたのは、「私の秘密」というクイズ番組だった。ゲストが出てきてそれがどういう人かをレギュラーの解答者が当てるという、今から見れば他愛もないクイズだったが、大人も子供も一家そろって見ていただけに、たいへんな有名人だった。まだ白黒ながら、テレビの草創期であり、それまでのラジオと違って、声だけでなく顔まで知られるようになったアナウンサーの走りである。
高橋アナは、当時の年寄りに受けがよかった。核家族化もさほど進んでおらず、テレビが一家に一台しかなく、敬老精神も残っていたころだがら、チャンネル選びの主導権は年寄りにあった。年寄りは、変化を好まない。しかも、それまでテレビのような娯楽を知らなかった世代である。もしも、「私の秘密」の司会者が交代したなら、たちまちのうちに番組は視聴率を落としたことだろう。司会者が高橋アナであることで、年寄りたちは安心して「私の秘密」を見ることができたのである。
兵庫県の西宮市に住んでいたころ、風邪を引いたときによく行った病院がある。そこでよく会うおばあさんがいた。お嫁さんらしい人がいつも一緒にいた。聞けば、奈良県の大和高田市からお嫁さんの運転でやってくるのだという。もともとは、西宮に住んでいて引っ越したのだが、おばあさんは、この転居に不満だったらしい。とくに、この病院がお気に入りで、奈良県に行ってからも、「あの先生でないといやだ」というわけで、お嫁さんが遠路はるばる頻繁に送ってくることになったらしい。
ラジオ時代のアナウンサーは、「しゃべる機械」だった。ラジオでは表情は写らないが、テレビとなると写る。それだけに、ニュース番組などで、アナウンサーは努めて表情を殺していた。そういう時代に、高橋アナは、表情豊かにしゃべることで、それまでのアナウンサーとは違うアナウンサー像を提示したのである。そのことが、当時の年寄りたちには、新鮮だったに違いない。視聴者の多くが移り気な世代となった今日は、アナウンサーの受難の時代かも知れない。
2002/04/11 木曜日 ガリ版 
むかしよくガリ版(謄写版)を切った。最近、兵庫県の広報誌「ニューひょうご」で、明石市にいま日本で唯一の謄写版印刷の店があることを知った。私が若いころには、日本全国に無数にあったことを思えば唯一ということが信じられないが、このパソコン時代にまだあったと考えると驚きである。広報誌の中で店主の安藤さんは、「昔からやっていたことで、これが好きだし、これしかできないから続けてきた」と謙遜している。何も日本唯一になろうと思ってそうなったわけではないらしい。しかし、日本唯一ということになると、メディアに取り上げられることも増え、最盛期の3分の1ぐらいしかない注文を細々とこなしてきた「アンドー・トーシャ」は一息ついているようである。ネットでも紹介はされている。近いので、私も一度名刺ぐらい作ってもらおうかとも考えている。
ガリ版切りには向き不向きがあるようである。私は、手書きの字はそうだめなわけではないが、ガリ版は苦手であった。パソコンで簡単にプリントが作れる時代が来たことをありがたく思う。しかし、切った人の人柄や息遣いの伝わるガリ版の字の魅力も忘れ難い。何より、どこで誰によって書かれたかが特定でき、ほかのどこにもないという気持ちになれるところが魅力である。
もう日本ではすっかり過去のものとなった謄写版だが、カンボジアなど途上国では、安価なため、最近になって盛んに使われるようになっているらしい。
2002/04/10 水曜日 うそと大うそ 
ことばの技巧に走らず、見たものをありのままに写生することを唱えた正岡子規は、ことばの技巧を洗練させた古今集を嫌い、すなおな万葉集を推奨した。百人一首の中につぎの2首がある。
かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜そふけにける
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花
前の歌は万葉集の撰者である大伴家持の歌、あとの歌は古今集の撰者の一人である凡河内躬恒の歌である。二つの歌とも、一面に霜で覆われた大地を見て詠んだ歌である。躬恒の歌の意味は、地上一面に真っ白なので、咲いている白菊の花を摘もうと思ってもどこにあるか分からないという意味である。子規は、こういうもっともらしそうな歌をさんざんこきおろした上、うそをつくなら家持の歌のように、誰でもすぐうそと分かる壮大なうそをつけと主張した。
家持の歌にある「かささぎの渡せる橋」とは七夕のときに限ってかささぎという鳥が彦星と織姫が会えるようにかけるという伝説の橋である。「かささぎの渡せる橋に」までは、「序詞(じょことば)」と言って、それ以後の本当に言いたいことを飾る言葉である。歌の意味は、要するに「霜が真っ白に降りているのを見ると、すっかり夜になったんだなあ」ということである。
本当は10日前に載せるべき話題であった。写真は1999年の4月1日に朝日新聞が載せた記事である。日本の政治家が人材不足なので、ゴルバチョフ、サッチャー、リー・クァンユーらを閣僚に登用するというものだが、嘘に決まっている。
2002/04/09 火曜日 おしゃかになった 
高校時代の生物の授業のとき、単性生殖の例を挙げよと言われて「イエス・キリスト」と答えたやつがいた。キリストの出生も人間離れしているが、釈迦の出生はそれに勝るとも劣らない。母の摩耶夫人(まやぶにん)が美しい花を摘もうとしたとき、そのわきの下から生まれたのだという。そして、すぐに「天上天下唯我独尊」といったというのは有名な話だ。その釈迦の誕生日が四月八日だから、本当は昨日話題にすべき話であった。もっとも、これは旧暦の日付だから、新暦に直すと今年は五月一日になるという。
機械や道具が故障して使い物にならなくなってしまうことを「おしゃかになる」という。この表現を使い出したのは、江戸の鋳物職人だというのが通説となっている。よい鋳物を造るにはそれに適当な温度というものがあり、火が強すぎると使い物にならない鋳物が出来上がってしまう。そういうとき職人が「ひがつよかった」と言ったのが、江戸っ子は「ひ」と「し」の区別がつかないので、「しがつようかだ」と聞こえたのを釈迦の誕生日にかこつけて「おしゃかになった」という表現が成立したという。
釈迦の誕生日は花祭りと呼ばれ、両手の指でそれぞれ天上と天下を示した誕生仏に甘茶をかけることから「灌仏会(かんぶつえ)」とも呼ばれる。しかし、今日ではクリスマスに比べれば、まったく低調である。一方では、クリスチャンが日本より遥かに多い韓国の方がむしろ盛大に祝うというのが面白い。
2002/04/08 月曜日 ケータイとPHS 
先日、勤め先の宴会があり、終電で帰宅した。若い女性がケータイでぺちゃくちゃ喋っていた。途中の駅で、私と同じくらいのおじさんが、「お前、やかましいぞ」と、捨て台詞のようにその女性をどなりつけて降りた。たしかにやかましかったが、私がさほど気にならなかったのは、同じ方向へ帰る同僚と話していたせいであろう。
どなりつけられた女性は、その後、会話をメール交換に切り替えた。心から反省したのか、同じようなおじさんが出てくるのを恐れたのかは、よく分からない。しかし、メール交換ならいいというわけではないことは、車内放送でいつも呼びかけているとおりである。近くにペースメーカーを埋め込んだ人がいたら、命に関わることは言うまでもない。
ケータイとPHSを外見で区別できる人はまずいないだろう。病院に行くと医者や看護師がしきりにケータイらしきもので連絡を取り合っている。「携帯電話の使用を禁止します」と入口に明記してある病院でである。医者や看護師が用いているのはPHSであり、これはペースメーカーに全く影響を及ぼさない。一刻を争う事態が頻発する病院では、医者や看護師はたえず連絡をとらないわけにはいかない。
それなら、消防車のように、PHSは真っ赤に塗るという方法はどうだろう。ケータイを真っ赤に塗って売る業者や、勝手にあとで塗り替える消費者には重い刑を課するというのも一案ではある。
2002/04/07 日曜日 宗教を選ばなければならない国 
一つの宗教しか認めない国家というのはあるだろうが、四つの宗教を公認し、そのどれかを選ばなければならない国としてインドネシアがある。選択肢はイスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教の四つで、無宗教というのは認められない。インドネシアは国民の9割前後がイスラム教徒だが、イスラムの普及以前はヒンドゥー教が盛んで、今もヒンドゥー教が優勢な例外的な島がバリ島である。とくに東部の島々にはキリスト教徒も多く、華僑も多いということからこの四つの選択肢となったようだ。他の選択肢を公認したために、インドネシア(人口2億人の大国)では、イスラム教徒が人口の大半を占めるにもかかわらず、豚肉が公然と売られているという話を在日インドネシア人からじかに聞いたこともある。
無宗教という選択肢が認められないのは、無宗教=共産主義者と考えられやすいからである。冷戦時代に中国やソ連と親しかったスカルノ時代に共産党が強い力を持っていた反動である。共産党と対立関係にある国軍を率いて、共産党を非合法化し、スカルノに代わったのが、最近まで長期政権を担ってきたスハルトである。その際、共産主義者でない証拠として、四つの宗教のどれかを選ぶことが義務付けられた。なお、現在のメガワティ大統領はスカルノの娘である。
私もとくに信仰を持たないが、信仰を持たない日本人には、たとえばイスラム教徒を前に無宗教といえば無難だろうと思っている人が多いが、共産主義者と思われないまでも、宗教を持たないと言うと、「お前、それでも人間か?」という目で見られやすいという。だから、インドネシアに限らずイスラムが優勢な国に行ったときには、とりあえず仏教徒と答えておくほうが無難だという。
なお、右の切手の新月と十字架はそれぞれイスラム教、キリスト教の象徴であり、他にヒンドゥー教と仏教の塔があるようだが、私にはその区別がよく分からない。PELITAは、スカルノ時代に行われた
Pembangunan Lima Tahun (開発五ヶ年計画)の略語である。
2002/04/06 土曜日 みどり負けそう 
サントリー・ビールのCMにこんなのがあった。壁一面に赤い缶が積み上げられている。それがばらばらと全部崩れ、そのあとにサントリーの白い缶が登場し、ブルドーザーが崩壊した赤い缶を回収していく。この赤い缶が何かということが気になる。どうもアサヒ・ビールの「本生」であるような気がしてならない。仮にそうだとすれば、こういうCMは久しぶりだ。
むかし、サクラ・フィルムのCMでうつみ宮土理が出てきて、「みどり負けそう」というのがあった。「みどり」は、サクラのライバルであるフジ・フィルムのパッケージの色である。他社製品をあてこするCMというのは、意外と見かけない。あっても、きわめて抑制が利いている。しかし、このようなあてこすりが日常的に行われ、やり方もえげつない業界が一つだけある。言うまでもなく、政治業界である。
国会は泥仕合の様相を呈してきた。
経済は? 外交は? 日本の将来が心配になってくる。
2002/04/05 金曜日 新幹線 
昨日まで2泊3日で横浜に帰省してきた。実家にもパソコンはあるので、掲示板への投稿ができるのがありがたかった。いつものことだが、往復とも新幹線である。
東海道新幹線が最初の新幹線として開通したのは、1964(昭和39)年のことだった。私がそのことをはっきり覚えているのは、その翌年と翌々年の2回も受験の往路に利用したからである。新幹線開通と同時に東京・大阪間を直通で走る在来線の電車は九州方面への寝台特急などを除いてほとんど廃止され、小刻みに乗り継がなければならなくなった。当時の国鉄は、こうして新幹線に客を集めようとしたのであろう。学生時代にも新幹線はよく利用した。しかし、初めのうち新横浜に「ひかり」が停まらないので、もっぱら「こだま」を利用した。「ひかり」で東京まで行って折り返した方が早かったと思う。新横浜からは横浜線に乗り継がなければならないのだが、この腺がまた初めのうちは本数が少なく、30分以上も待たなければならないこともよくあった。横浜線沿線の人口はまだ少なく、新横浜駅周辺には田んぼがあったぐらいである。車両はすべて、最近はみられなくなった0(ゼロ)型(右の切手)であった。
今は、横浜線沿線を含む横浜市の人口急増によって、帰省はぐんと便利になった。横浜線の本数は格段に増え、乗り継ぎに時間がかかることもなくなった。そして、新横浜に停まる「ひかり」や「のぞみ」もたくさんある。学生時代には、足代を節約するため、東京・大阪間を唯一直通で走る夜行の普通列車によく乗っていた。特に名前はついていないのだが、「よがらす」という通称があった。片道13時間以上もかかり、京都から乗ると豊橋あたりで通勤客と乗り合わせた。今はその「よがらす」も廃止されている。最近、試みに横浜から在来線を乗り継いで西に帰ったことがあったが、すっかり腰がだるくなってしまった。一度新幹線のスピードになれると、感覚は容易にもとには戻らない。
新幹線では、沿線の景色を楽しむ気にはなれない。楽しもうにも、景色はあまりにも速く通り過ぎていってしまう。せいぜい遠くに見える富士山を見るぐらいだが、それもあまり長い時間は見られない。新幹線の内と外とは別の世界である。怒られるに決まっているが、慣性というものがあるので、新幹線の中でキャッチボールをしようと思えばできる。新幹線の中だけを見ていれば、自分がそんなに速く動いているとは思えない。動いているものと停まっているものとの間で何かをすることがいかに難しいかは、先日のブッシュ来日のとき話題になった流鏑馬(やぶさめ)を見ても分かる。
母も養父も元気ではあったが、会うたびに着実に老いている。気も若いのだが、今の時代の流れの速さにはついていけないという。考えてみれば、今の時代の若者は、全員が新幹線に乗っているようなもので、あまり外を見ることもなく、自分たちがどんな猛スピードで走っているのかにも、普段は無自覚であるような気がしてくる。
2002/04/02 火曜日 周恩来 
中国の若者を対象に、尊敬する人物は誰かという調査が行われた。比較のためにとられた香港での調査ではベストテンが世界中の芸能人やスポーツ選手で埋められたが、中国でのベストテンには、1位が周恩来、3位が毛沢東、他にケ小平と、政治家が3人も入っていた。毛沢東の3位は、かつての当然1位という時代から見れば低いが、エンターテインメント産業が急成長中の中国にあってまだ3位というのは高いという印象も受ける。
かつて、毛沢東は中国の皇帝のような存在だった。そのもとで、周恩来は宰相のような地位を占めていた。世界の流れとはかなりずれた理想を持つ毛沢東と異なり、周恩来は現実派として知られていた。ケ小平も、周恩来の一番弟子格である。毛沢東には、大躍進政策とか文化大革命とかいう、たいへんな失政があった。その時期、宰相格であった周恩来にも責任はあったはずだが、中国の庶民には、毛沢東の内政面での失政の被害を最小限に食い止めるために奮闘したと評価されているようである。しかし、周恩来の得意分野はそれ以上に外交であり、世界を飛び回り、中国の国際的地位の向上に努めた。
中国共産党がまだ政権を掌握していなかったころ、周恩来は、軍事責任者だったことがある。そのとき、周恩来の立てた作戦が大失敗に終わり、共産党軍は多数の戦死者を出した。それに強い責任を感じた周恩来は、自ら軍事責任者の座を降り、以後は政治で尽力したいと申し出た。自分はトップに出てはいけないという決意を、その後も一生守ることになる。この政治姿勢に加え、立派な風貌と謙虚な人柄が大衆的な人気のもとだったように思う。
周恩来の大衆的人気を、私は20年あまり前に中国を訪れたときに実感したことがある。そのころは、文化大革命が収束して間もなく、中国がまだ硬い時代だったので、かなり政治的な劇を見せられた。文革時代のひどさを描いた劇であった。有能な医者が文革派ににらまれ、掃除などしかやらせてもらえない。そのとき、外国からの重要な客が急病になり、その命を救わなければならないということになる。しかし、その医者をずっと干していた文革派は、その医者に執刀させようとしない。そのとき、なんと北京の周恩来から、その医者に手術をさせよという電話がじきじきにかかるという筋書きだった。周恩来からの電話があったとき、満場の観客から一斉に歓声があがった。まるで水戸黄門だと思ったものである。
そのころの中国人をなんと単純なと思う若い日本人が多いかも知れないが、私が子供のころよく見た時代劇では、いずれ助かるに決まっている主人公の危機を、いい歳した大人が本気で心配していた。そして奉行所などから援軍がかけつけるとき、やはりいい歳した大人までが本気で喜んで拍手などしていたのだから、中国も日本も大差はなく、ちょっと時期がずれているだけのことである。
ちなみに、1位の周恩来と3位の毛沢東の間にはさまれた2位は、かのビル・ゲイツだったそうである。
2002/04/01 月曜日 世界一退屈な町 
オーストラリアは、日本の約22倍の国土に、1789万(1996年)の人々が住む国である。1789万といえば、東京と神奈川の合計よりも少ない。しかも、人口の大半がシドニーやメルボルンなどの大都市に住み、人口がきわめて希薄な地方が国土の大半を占める。あるテレビ番組で、人口50人程度の町のことをレボートしていた。一応鉄道は通じているが、両隣の町までは、この町を東京とすれば仙台と名古屋ぐらいの距離がある。したがって、町民は常に50人ぐらいで暮らしている。大都市で暮らしてこの町にもどってきた人がインタビューを受けていた。「住みやすい町だよ。ただ、誰に会っても話題が同じなのが退屈だね」と言っていた。日が日だけに信じてもらえないかも知れないが、この地球上にはこういう町もあるらしい。
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